スクールリーダーの資料室
スクールリーダーの資料室 昭和26年学習指導要領を読んでみよう(上)
トピック教育課題
2019.10.11
(c)学習経験の組織
いま述べた経験の諸領域を、どのようにして児童・生徒に身につけさせていくかの具体的な教育計画が、次に考えられなければならない。すなわち、具体的な学習のいくつかの道筋を設けて、発展させるべき経験の組織を作らなければならない。その組織の方法としてはいろいろあるが、その有効な方法の一つに、教科による組織のしかたがある。言い換えれば、いくつかの教科を設けることによって、前に考えたような諸領域の望ましい経験が、全体として、児童・生徒によって達成されるように計画していくことである。
本来、右の望ましい諸領域の経験を、児童・生徒のうちに発展させていくためには、それぞれの領域の経験の特性に応じた適切な学習内容が児童・生徒に与えられる必要がある。しかも、その与えられる学習内容は、有効適切なものであると同時に、発展的、系統的に整理され、組織されたものでなければならない。教科とはもともとこのような目的のために、それぞれの教材の特性に応じて分類され、発展的、系統的にまとめられたものといってもよい。しかも各教科の学習内容、すなわち経験内容を総合して、全体としてみるときは、先の諸領域の望ましい学習経験を含むことができる。したがって、具体的な学習の道筋を組織するに当っては、本書の前章で示しているような教科による組織のしかたも有効な一つの方法であるといえる。教師は、具体的に学習経験を組織するに当っては、本書や各教科の学習指導要領に示された学習内容をじゅうぶんに検討して、よく理解する必要がある。もちろん、学校や地域の社会の必要や、また児童・生徒の発達やその必要などを教育的な見地から検討し、さらに学習内容の性質をじゅうぶん考慮することによって教科の組織がえを行ったり、教科の統合をはかって広い領域の学習の道筋を設けたりすることも可能である。たとえば小学校、ことに低学年においては、児童はまだ分化した学習に進むほど発達していないから、その発達から考えて、こうしたやり方が望ましいであろう。また、逆に高等学校におけるように、生徒がじゅうぶん発達した場合には、一つの教科の内容を分割して独立の学習の道筋を設けることもできるのである。元来、このような学習経験の組織のしかたには、いろいろな型があり、それぞれの型には、その根底に、それをささえる教育課程についての教師の原理的な考え方がある。したがって、教師としては、一方において、いろいろな教育課程の型のもつ特性についてじゅうぶん研究しておく必要があろう。同時に、教育課程をささえる現実的な要因をもじゅうぶん考慮しなければならない。
一般的にいって、教育課程を具体的に構成していくときに考慮しなくてはならない点は、次のようなものであろう。
(ⅰ)教科による組織のしかたであっても、教育課程は、全体として児童・生徒の望ましい経験の発展を目ざすものであるから、教科間の連関をじゅうぶんに考慮し、学習内容の重複を避け、有効で能率的な組織ができるように計画しなければならない。
(ⅱ)児童・生徒は、その発達段階によって、その能力・関心・欲求などに相違が見られ、また著しい個人差があるから、与えられる経験内容も、それらに応じて用意されることが望ましい。小学校の低学年などでは、教科の区別にあまり強くとらわれることなく、むしろ内容の関連ある教科は、融合して広い範囲の学習内容を準備するほうが実際には効果的であるといえる。また中学校では、教科を必修と選択に分け、高等学校では、単位制を採用するというような方法によって、発達段階や個人差に応じた弾力性ある組織のしかたをすることが必要であろう。
(ⅲ)学校の環境・校舎・教室の施設・教具などの物的な環境は、児童・生徒の学習活動を推進するのに大きな役割を果している。したがって、学習経験を組織する条件として、じゅうぶんにこの点を考慮していく必要がある。また、児童・生徒の経験の発展に強く影響するものに、学校のふんい気や、組織などの人的な環境がある。これは、教師や社会の人々の誠意とくふうによって、容易に改善されていくものであることを忘れてはならない。
(ⅳ)学習指導の計画をたて、それに基いて、児童・生徒の学習活動の指導をするものは、個々の教師である。したがって、教師の教育観、児童・生徒の理解の深さ、教育についての学識と指導の経験、指導の技術、計画力、指導力など、教師のもつ資質は、教育課程のいかんを決定する大きな要因となっている。どのような種類の教育課程であれ、それを現実に生かしていくことができるか否かは、教師その人の資質にかかっているともいえる。それゆえ教師は不断の研究、努力によって、今日の困難や障害を、一歩一歩取り除いてゆき、望ましい教育課程の実践ができるようにしなければならない。
(ⅴ)最後に考えねばならないことは、地域社会の人々の教育に対する理解や関心である。どのような教育計画をたてるにしても、地域社会の人々の教育についての関心度や理解度をじゅうぶんに考慮することなしには、有効な計画をたてることはできない。どんな教育課程を実施するにしても、地域の人々の積極的な助力なしには、決して予期する成果をあげることはできない。
進歩した教育課程を実施するほど、地域社会の人々の協力が必要である。
以上は、教育課程を構成するに当っての最も重要な仕事である。学習経験の組織のしかたについて、学校や教師が、考慮しなくてはならない諸点を述べた。これら以外にも、考えられるべき問題があろう。しかし、要は、これらの計画が、教師と、児童・生徒が動的に結びつき合う実践の場において、検証され、かつ、改善されていくことがたいせつである。よい教育課程の計画や実施は、決して一朝にしてでき上がるものではなく、実践の絶えない検証を経て、一歩一歩時日をかけて、築き上げられていくものであることをじゅうぶんに考えておくべきである。
(d)単元による学習経験の組織
児童・生徒は、それぞれの発達段階に即して、みずからの必要や関心や能力などに基いた欲求や問題をもっている。そしてそれらの欲求をみたし、問題を解決するためにさまざまな企てや活動を行っている。それらの活動が、じゅうぶん意味をもち、満足に行われたときに、かれらの生活経験は内部から有機的に発展していったということができる。
したがって、児童・生徒のこれらの活動がうまく行われ、教育目標に向かって生活経験が再組織されるように、適切な指導が行われることが必要とされる。単元による学習指導とは、このような目的に沿って、新しく取り上げられてきた方法である。単元学習とは、先に述べたような児童・生徒のさまざまな必要、関心、目的、問題などのうち、教育的に見て価値のある典型的なものをとらえ、それによって一連の活動を営ませ、生活経験が、目標に向かって高まるように指導していくことである。したがって単元とは、次のように言い換えることができる。
児童・生徒は問題を発見すると、その問題を解決しようとして、参考書を調べたり、現場を見学したり、実物を観察したり、他人の話を聞いたりして、その解決に努力する。またその結果は図表化される場合もあり、討議して批評し合う場合もある。さらには、その研究の結果が報告書にまとめられ、時には学校新聞に掲載されることもある。このようにして、児童・生徒たちは、いろいろにくふうをして問題を解決するようになるが、その解決の課程の中でさまざまな事がらについての理解を深め、態度を身につけ、能力を練る。そして児童が問題を解決する過程はおのずから一つのまとまりをもつようになる。そこで一般に単元とは児童・生徒の当面している問題を中心にして、その解決に必要な価値ある学習活動のまとまりであり、系列であるということができる。
しかし、単元ということばは、わが国の過去の教育において用られなかったわけではない。単元ということばが従来意味していたものは、系統的に配列された教材の一区分であって、たとえば、教科書の第1課、第2課というようなまとまりを示すのが普通であった。従来のこのような単元を、教材単元と呼ぶならば、現在、われわれの呼ぶ単元は、経験単元と称することができよう。前者が、学習すべき事項に重点をおいているとすれば、後者は、学習者の経験の成長を重んじ、その総合的な発展を目ざしているということができる。しかし、もちろんこれは、一般的な分類のしかたであって、実際には、教材単元と経験単元の中間に位置し、そのいずれとも区別しがたいような単元も多く見られる。ともかく右に述べたところをもとにして、現在広く用いられている単元学習の特質を次にまとめてしるしてみよう。
(ⅰ)教師によって、一方的に課せられる課題の学習ではなくて、児童・生徒の必要・関心・目的・問題などに基いた意味ある問題解決の学習である。したがって目的が意識され、生き生きした学習である。
(ⅱ)教師と、児童・生徒との協力によって計画がたてられるような弾力性をもった学習である。
(ⅲ)単元の目標を達成するためには、単に教師の話を聞き、教科書を読むというだけではなく、必要な資料を集めたり、それをもとにして討議したり、まとめたり、批評しあったり、その結果をいろいろに表現したりするような多様な学習活動が行われる。
(ⅳ)単元学習によって、単に、目標に照して、価値ある理解が深められるだけでなく、望ましい態度が身につけられる能力が練られる。
このような単元学習は、その特質から、当然広い範囲の学習内容がおのずから含まれるようになり、伝統的な狭い範囲の教科のわくを踏みこえていくようになる。しかし、すべての学習が単元によって指導されうるとはいえない。学習内容によって、単元組織に適するものと、そうでないものとのあることを知らねばならない。