interview 挑む 〜チャレンジャーの目線〜 Watanabe’s代表 渡邉健太氏
『ライブラリ』シリーズ/特集ダイジェスト
2022.03.17
interview 挑む 〜チャレンジャーの目線〜
Watanabe’s代表
渡邉健太氏
(『新教育ライブラリ Premier II』Vol.4 2021年11月)
古くて新しい藍染めの新機軸 洗うほどに鮮やかに、日常に溶け込む藍
甕覗き、浅葱、勝色……。藍染めで出せる色に付けられた名前だ。その数およそ48種類。多彩な色全てに名前が付けられるほど、藍染めは人々の生活に馴染んでいた。
そんな藍染めを後世に残そうと、伝統を守りながらも、新たな手法やアイデアに挑み続ける藍染め職人がいる。Watanabe’s代表、渡邉健太氏だ。藍に魅了され、一会社員から転身。分業が常識の業界の中で、藍の栽培から染色までを一貫管理する藍染め工房Watanabe’sを起こし、新たな徳島・阿波藍づくりに挑戦し続ける。地元に根ざし、世界をも見据える“異端児”のこだわりと信念に迫ってみたい。
めざすものは300年後も残る色 ■渡邉氏の矜持
藍染めは、①原料の生産、②蒅(すくも)(藍を乾燥させた染色液の素)づくり、③染色液づくり ④染色の工程で行われ、それぞれを専門の職人が分業で行うのが一般的だ。これらの藍染めの工程とは別に、染める布も専門の職人が作る。
──Watanabe’sの藍染めが目指すところは。
300年経っても残る色を染めることです。
色が長く残るためには、染めたものが日常で使われなければいけないんです。植物の染料で染めたものは、生地が植物のアク(焼け飛んで退色する原因になる成分)を色と一緒に吸っている状態です。染めたものを日常的に使って、洗うことを繰り返すことで、アクが流され、鮮やかに藍色が育ちながら残るという仕組みです。だから、暮らしに寄り添う色として、「長く使われるにはどうしたらいいの?」というところを製品に落とし込む、人々の生活に馴染んだものづくりを考えるようにしています。
──Watanabe’sの譲れないところは。
自分たちの色をきれいに染めるためには妥協を許しません。
原料を育てる畑から関わって、染めるところまで一貫して管理するのがWatanabe’sのやり方です。栽培から関わるのは、染料になる前の段階で良い原料を使えるかどうかが染料の良し悪しに関わってくるから。ここにこだわっているので、色の鮮やかさや、濃いところは「勝色」(かちいろ)から薄いところは「甕覗き」(かめのぞき)までのバリエーションも多彩に出すことができています。
師匠や周りの人から「体が一つしかないのに、全部一人でなんて、できるわけないだろ」と言われ、反対が多い中の挑戦でした。でも、今まで誰もやってこなかったことにチャレンジしたら、パイオニアじゃないですか。「色々言われても、やる価値はあるよね」ということでチャレンジしました。
それから、ただ生地を染めるだけではなく、自分たちの色が一番きれいに見える生地の探求もしています。今まで藍染めにしてこなかった素材が意外と素敵に染まるなど、新しい発見もあるので、何でもトライしてみようと思っています。
そんな藍染めのおもしろさを知ってもらいたいと思い、染めの職人さん、ものを制作するスタッフ、布に関する知識を持ったスタッフなども入れて、ものづくりをしながら、お客様からの染織の依頼を受けたり、染織の体験のイベントを開催したりしています。
藍に魅せられて ■単身徳島へ
──藍染めを始めたきっかけは。
東京で働いていたときに、藍染め体験に行ったのがきっかけです。元々デニムが好きだったというのもあるんですけど、雑誌の「職人特集」に藍染めの職人さんが載っているのを見て、自分が小さいときに宮大工に憧れていたことを思い出しました。手を動かして身一つで仕事をすることへの憧れを思い出して、「とりあえず体験に行ってみよう」と思って、藍染め体験に行きました。
実際に体験に行って、「なんじゃこれは。こんなにおもしろいことあったんか」って衝撃を受けました。藍が発酵している染場の独特のにおい、雰囲気、色のきれいさ……。五感を使って経験した全てに感動したんです。「これを仕事にしたいな、いや、しなきゃ」と思って、当時働いていた貿易関係の会社を辞めることにしました。
──周りの反応は。
会社を辞めたのが、社会人2年目のことだったので、家族にも会社の人にも止められました。説得もされましたが、藍染めをやることは自分の中で明確に決まっていたので、聞き入れませんでした。会社には「実家が農家で継がなきゃいけない」という必殺技を使い、実家には「ちょっと、しばらく会社休みになった」と嘘をついて会社を辞めたんです(笑)。
──徳島でのスタートは。
藍染めの原料の一大産地である徳島県上板町で藍に特化した「地域おこし協力隊」を募集している情報を得て、迷わず応募しました。
2012年に町の臨時職員として徳島に移住して、しばらくは藍染めの師匠のところで研修したり、藍染め体験施設で指導したり、自分たちでも畑で藍染めの原料を育てたり、藍染めの作品を作ったりして活動しました。
ただ、藍染めの師匠はとても厳しかったですね。「そんな、新参者がこの業界で飯食えるわけないだろ、頭おかしいんちゃうか?」と言われました。そう言いつつ、「藍染めに興味を持った若い次世代が来てくれた」という感じで嬉しそうだったのは覚えています。地元の人たちも最初は「なんだ、あいつ?」といった感じで馴染むのに苦労しました。でも、商工会、消防団、ソフトボールのリーグとか地元のイベントに色々出ているうち徐々に受け入れてもらいました。大学時代のようで、楽しかったです。大学時代に好き勝手遊んだことで、色んな知見も広がったし、人とのつながりもできたし、何にでも興味持ってフットワークが軽くなったんですよ。そのことが活きたなと思いました。
──それから本格的に藍染め職人になりました。
協力隊としての仕事を終え、2015年4月に当時の協力隊の仲間と藍染めの工房「BUAISOU」を立ち上げました。2016年にはニューヨークにも工房を作って2拠点で活動をしていましたが、2018年3月にBUAISOUを辞めて、Watanabe’sを立ち上げました。
畑では天候、染場では発酵菌と、目に見えないもの、自分ではコントロールできないものを相手に仕事するのが大変でした。自分の力ではどうしようもないので、そこに対して自分が向かう力加減、どこで折り合いをつけるかが難しかったです。
農業をやるのは初めてだったので、「ただ種を蒔けば育つ」くらいのイメージだったんですよ。実際にやってみると、想像していたのと全然違いました。思ったとおり、計画どおりにいくことなんて一つもありません。きっちりと計画を立てて段取りを組んで、そのとおりに仕事をすることを求められたサラリーマン時代と真逆でした。
でも、そこが藍染めのおもしろいところだと思いました。目に見えないものを相手にしているから、同じ工程を踏んでも染まる色が毎回全く違うんです。染めた日の天気や気温、湿度、その年の染料の出来具合……。全部全く同じ条件がそろうということはないので、それに対して毎回アプローチを考えて挑戦できるじゃないですか。それがおもしろいと思いました。
──なぜBUAISOUから独立し、今のWatanabe’sを立ち上げたのですか。
自分の中で「300年経っても残る色を染める」という、やりたいことが明確に見えてきたので、独立をしました。
あとは、BUAISOUのメンバーが増えてきて、そこで代表をやることによって、現場から離れなきゃいけないことが多くなっていました。手を動かして身一つで仕事をする職人に憧れて、藍染めを始めたことを思い出して、「やっぱり自分で、現場で手を動かして作業したい」と思ったので、独立してWatanabe’sを作りました。
──独立して大変だったことは。
とにかくゼロからのスタートだったのが大変でした。畑もないし、染料もゼロから作らなきゃいけないし、機械もないし、工房作るのに土地を探してお金も借りなきゃいけないし……。本当に何もなかったんですよ。そういうときに助けてくれたのが師匠と地元の人、BUAISOUのときのお客様です。「機械あるぞ!」とか「お金あそこで借りてきたらいいよ」とか「土地あるぞ!」とか色々世話をしてくれて、背中を押してくれました。本当にありがたかったです。「仕事は『人』とするもの」というスタンスを大切にして仕事をしてきたので、これからもそのスタンスを大切にして仕事をしようと、より強く思いました。
一生、「初心者」 ■藍染めを後世に残すためにできること
──座右の銘は。
「初心者」です。本当にやりたいことを思い出して、独立したタイミングに出合った言葉です。仕事関係で出会った方から言われた言葉なのですが、「初心者ですね。初心者って、素人じゃなくて初心を持っている人のことだよ」と言われて「初心は忘れちゃいけない」と思いました。Watanabe’sが雑誌に掲載されたり、問合せが沢山きたりして「すごいね」って言われて調子に乗ってしまいそうなときに意識するようにしています。
──仕事で大切にしていることは。
常に余裕をもって仕事をするように心がけています。自然を相手にして仕事をしているので、日が昇ったら仕事をして、日が沈んだら仕事はやめるというスタンスをなるべく意識しています。無理してギリギリで染めたものって、納期は間に合うかもしれないけど、綺麗には染まらない。くすむんですよ。
夜は文献を読んだり、次にやりたいことを、お風呂に入ったりお酒を飲んだりしながら考えたり、余白のある時間の使い方をするようにしています。結構、その時間があったからこそ生まれたものも多いので。
──藍染めは今後どう変わっていくでしょうか。
江戸時代は、藍は安くてスタンダードな染料で、町人も皆が着ていました。それが、300年経った現代では高級で、一部の人しか知らない、使わない染料になっています。300年でこれだけ藍に対する価値観が変わったということは、逆に言えば、今から300年後にはスタンダードになっている可能性は十分あるなと思っています。
コロナ禍で、考える時間ができたことで、持続可能なもの、いいものに目が向き始めて、そういうものを求める人が増えてきました。自然由来の原料を使っていて、染めなおしができる天然の藍染めが台頭してくる展望も見えてきたと思っています。だから、300年も経たない間に価値観が変わるかもしれないですね。
人々の藍に対する価値観を変える第一歩としては、まず藍染めを知ってもらわないと。知ってもらえたら、使ってもらわないと。自分が動くことで、その可能性が広がるなら、積極的に動いていきたいと思っています。
業界としては、探求し続けられる労働環境を作ることもやっていきたいと思っています。例えば、研究機関の力を借りて発酵のデータを取ったり、味噌とか酒とか醤油とか、発酵に関わるいろんな仕事の人と交流したり。業界内で完結させるのではなく、他業種と交流して人脈も広げながら、探求できればと思っています。
──今後の夢や抱負は。
自分が作った染色液を引っ提げてワールドツアーをやりたいです。自分が作った蒅(すくも)をもって、各地で染色液を作って、染色液を車に積んで「今月アフリカ大陸、今月ヨーロッパ」みたいな感じで。色々な人に染色液に手をつけて体験してほしいし、藍の良さを体感してほしいです。
ワールドツアーは藍を300年後に残すための取組の一つでもあると思っています。藍の存在や使われ方を早く知ってもらって、早く使われ始めてほしいんです。僕は、300年後は見られないから、僕の目の黒いうちに、ある程度そういう展望を期待できる反応が返ってくるような活動をしていきたいなと思っています。
「水が違うとどう染まるんだろう」とか「この材料入れたらどうなるんだろう」って新しい発見も楽しみだし、文化としてその土地で藍染めが根付いたらおもしろそうだなと思います。
(取材/編集部 兼子智帆)
Profile
渡邉健太 わたなべ・けんた
1986年2月26日、山形県生まれ。大学卒業後、貿易会社に就職。休日に行った藍染め体験で日本の藍染めを識る。徳島県上板町の藍師・新居修氏のもとで蒅づくりを学んだ後、藍染めグループBUAISOUを設立。代表を務め活動し退社。藍栽培や蒅づくり、デザインから製品製作と一貫で取り組むスタイルをさらに追求するべく、2018年4月Watanabe’sを設立。古き良き日本の伝統を残しつつ、新たな機軸で藍を伝えるべく、国内外で幅広く活動を行う。