特集 message 対話的な学びとは何か

トピック教育課題

2022.03.11

特集 対話の研究〜対話型授業の創造〜 
message 対話的な学びとは何か

学校法人聖ウルスラ学院理事長 
梶田叡一

『新教育ライブラリ Premier II』Vol.4 2021年11月

 これからの学校教育では「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)を推進すべきである、と強調されている。この3つの視点は、いずれも大切なものであるが、最も誤解や曲解の多いのが「対話的」ということではないだろうか。

 真の「対話的」学習を実現していくためには、「対話」ということの原理的な地点に立ち返りながら、実現していくべき教授・学習の具体的な在り方について理解を深めていくことが不可欠である。

話し合い=対話、ではない

 例えば、授業の中に「話し合い」活動を積極的に取り入れようとする学校がある。しかしながら、「話し合い」がそのまま「対話」になるというわけではない。

 「隣の席の人と少し話し合ってご覧!」と教師が指示したとしよう。これは、子供たちが自分の思いや考えを言語化してみるためのよい機会になる。また、他の人の思いや考えを知ることで、自分のと同じであっても違っていても何か役に立つ点があるであろう。

 しかし、子供たち同士が盛んに話し合っているとしても、各自が自分の頭に浮かんだことを口にし合っているだけでは、本当の「話し合い」にはならないし、ましてや「対話」とは言えない。「対話」は複数の話者が交互に発言すれば成立するというものでなく、一方の発言が相手の内面世界に浸透していって何らかの揺らぎなり変容なりをもたらし、そうした中からもう一方の発言が出てきて最初の発言者の内面世界にまた浸透していって揺らぎなり変容なりをもたらす、といった相互の内面世界同士の絡み合いが生じなくてはならない。

 一人ひとりは自らの感覚や経験などによって自分自身の独立した内面世界を作り上げている。そして一人ひとりが、自分の生きている世界(内面世界)は全ての人に共有されている普遍の世界であると思い込んでいる。我々は共通の単一の世界の中で、誰もがそれを共有し、それを前提とした言動をしている、と仮定して生きているのである。しかし、こうした仮定を取っ払ってしまえば、私に与えられている世界の外に、全く別の独自固有な世界を、その場にいる人それぞれが持っている、ということを想定してみることができるはずである。こうした想定に立って、場を共にしている者が相互に自らの世界について発信し、同時に各自が相手の発信するところを虚心坦懐に受け止めて共通の土台と筋道を捜し求め、それとの関わりで自らの世界の情報を相互にまた返していく、これが結局のところ「対話」ということではないだろうか。相互に独立した独自固有の世界にコミュニケーションの橋を架けていく努力、これこそがまさに「対話」なのである。

 このように考えてくるならば、「対話」が成立するためには、少なくとも次の3つの基本条件が不可欠となることが理解されるであろう。

(1) 自分自身の見方や考え方を、自分自身の実感・納得・本音に基づき、ある程度まできちんと整えた上で発言する(その場の思いつき的発言を避ける)。

(2) 相手の見方や考え方に十分に耳を傾け、すぐに同調迎合したり反発批判したりしないで、自分自身の見方や考え方と違うところ・同じところについて考えてみる。

(3) 自他の間にある違いを多面的に吟味検討し、相互の対立が乗り越えられるような新しい視点を互いの努力によって見つけ出すように努める(「正・反・合」という弁証法的過程の実現を目指す)。

「産婆術」的な「対話」を、そして「自己内対話」の促進を

 こうした「対話」は他者との間でだけでなく、自分自身との間でも大切なものとなる。この「自己内対話」が真に実りあるものとなるためには、当然のことながら、その前提となる他者との「対話」のあり方が大事な意味を持つ。他者に対して自分の視点や価値観を押しつけ、相手の言い分に耳を貸さないような対応しかできないなら、自分自身の内面で「対話」しようとしても、結局は自分に都合の良い一面的な論理のみを紬ぎ出していく独善的な「自己内対話」しかできないことになるであろう。

 ソクラテスの言う「産婆術」としての「対話」は、指導者が学習者に「問い」を出し、それへの回答に即してまた新たな「問い」を出すという形で、真実の認識へと導く教育法であった。そこでは、「問い」によって学習者を自己矛盾に陥らせ、自分が知っていると思っていたことを結局は本当には知っていなかったのだ、という自覚(無知の知)に導くことが大切だとされていた。優れた指導者との「対話」によって自己欺瞞と独善から抜け出させていくわけだから、こうした質の高い「対話」を経験するなら、自分自身との「対話」の場合にも、同様の効果が期待されるのではないだろうか。

 「対話」を通じた「自己内対話」の習慣付けを図る上でも、ソクラテスの言う「産婆術」は示唆に富むであろう。教師は、学習者の意欲をそぐことのないように留意しつつも、相手の考え方の中に潜む矛盾や無根拠の思いこみ、自分に都合の良い理屈の付け方等に対して「問い」の形で切り込んでいくことも、また必要となるのではないだろうか。

[参考文献]
・日本人間教育学会編『アクティブ・ラーニングとは何か(教育フォーラム56)』金子書房、2015年
・日本人間教育学会編『対話的な学び(教育フォーラム59)』金子書房、2017年

 

 

Profile
梶田 叡一 かじた・えいいち
島根県松江市に生まれ、米子市で育つ。京都大学文学部哲学科心理学専攻卒、文学博士。大阪大学教授、京都大学教授などを経て兵庫教育大学学長など。元中央教育審議会副会長。著書に『自己意識論集(全5巻)』『教師力再興』『人間教育のために』など。

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