続・校長室のカリキュラムマネジメント
続・校長室のカリキュラムマネジメント[第7回]関係性を知る、ごちゃごちゃ言う
学校マネジメント
2021.01.20
続・校長室のカリキュラムマネジメント[第7回]関係性を知る、ごちゃごちゃ言う
(『学校教育・実践ライブラリ』Vol.7 2019年11月)
東京学芸大学准教授
末松裕基
今回も職場のコミュニケーションについて、特に、人間関係に注目してそれらを考えてみたいと思います。
これまでの本連載の議論を振り返ってみると、まずは学校経営を学ぶ場合には、本を読むということの重要性を繰り返し指摘してきました。
では、どのような本をどのような形で読んでいけばいいのでしょうか(授業や研修などで、本を読むことの重要性をわたしが伝えると、「どんな本を読んでいいかわからない」「どう本を読めばいいかわからない」と受講者から必ず質問・意見が出ます)。
一見、ハウツー本のようなタイトルですが、実は読書論だけでなく、文学案内にもなっており、われわれがどのように本や文字情報に関わっていくかということについても深く考えさせられるものに『読んでいない本について堂々と語る方法』というものがあります。
これはピエール・バイヤールというフランスの精神分析家が書いたものですが、文庫化もされていますので、ぜひ、手にとってみてください(ちくま学芸文庫、2016年)。
教養ある人間が知るべきもの
彼は、本を読むに際して重要となることは、個々の本の内容だけではないとして、次のように述べています。
「教養ある人間が知ろうとつとめるべきは、さまざまな書物のあいだの『連絡』や『接続』であって、個別の書物ではない。それはちょうど、鉄道交通の責任者が注意しなければならないのは列車間の関係、つまり諸々の列車の行き交いや連絡であって、個々の列車の中身ではないのと同じである。これを敷衍していえば、教養の領域では、さまざまな思想のあいだの関係は、個々の思想そのものよりもはるかに重要だということになる。」(32頁)
なかなか興味深い指摘です。彼は続けて「教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ(中略)本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である」(33-34頁)とも述べています。
テクストとコンテクスト
これは、本に書かれているある内容が単に重要かどうかということではなく、その本がどのような関係性や文脈に置かれて書かれ、また評価されたりしているかということが重要になる、ということです。
アマゾンなどのインターネットでわたしも本を買うことはありますが、それでも、その本が本屋さんや図書館で、どこにどのような本とともに置かれているのか、どのような紹介とともに扱われ、なぜ、どの点が注目されているのかということについても、後日でも必ず確認するようにしています。
これは本に書かれている内容(テクスト)は、独立して存在しているのではなく、それらには文脈(コンテクスト)がともなっており、その両方が、読書をする上では大切になるという理解につながるのではないかと思います。
以上を踏まえると、職場のコミュニケーションも、自分に快・不快をもたらす発言(テクスト)に注目しているだけでは状況の理解や問題解決にはつながりにくい、というようにも言えそうです。
ちなみに、バイヤールは学校と読書の関係性の問題を次のようにも論じており、この点でも非常に考えさせられます。
「学校空間というのは、そこに住む生徒たちが課題とされた書物をちゃんと読んでいるかどうかを知ることが何よりも大事とされる空間である。そこには完全な読者というものが存在するという幻想が働いている。あいまいさを一掃し、生徒たちが真実を述べているかどうかを確認しようというその狙いも錯覚を孕んでいる。読書というものは真偽のロジックには従わないものだからである。」(199頁)
ごちゃごちゃ言う
経営を学ぶ際の読書のあり方を以上のように捉えながら、実際の職場の人間関係、それもなかなか自分とは相容れない、折り合いのつけにくい同僚とどのように関わっていくかということをもう少し考えてみたいと思います。
思想家の鶴見俊輔さんが、詩人の長田弘さんとの対談でおもしろい例をあげています。
鶴見さんは、「みみずの学校」というフリースクールの授業に呼ばれた際、小学校4年生に「難破して無人島にたどりついたとき、どこかの知らない国の船がきて、外国人があがってきたらどうするか?」と聞いてみたそうです。
みなさんが普段、職場で直面している困難な状況も、少なからずこのような文脈(コンテクスト)に置かれているのではないでしょうか。
皆さんだったら、どのようにこの質問に答えるでしょうか。授業では、鶴見さんのその質問に対して「ごちゃごちゃいう」と答えた子がいたそうです。鶴見さんはこれを受けて次のように述べています。
「これは名答だと思いましたね。すごい、と思った。『ごちゃごちゃいう』ってのは、かぎりなく正解に近いんです。言葉にはリズムがあるから日本語であってもかまわない。黙っているのは相手に威圧感をあたえ、敵意さえ感じさせるかもしれない。ニヤニヤは卑屈です。だけど『ごちゃごちゃいう』には生活のリズムがあるから、相手は聞こうとするでしょう。」
(『旅の話』晶文社、1993年、14-15頁)
これは、発言の内容(テクスト)だけが、必ずしも意味をもっているわけではない、ということを表してもいると思います。
ついつい、わたしたちは何か困った状況に直面すると、何をどう言うかという内容に(それもハウツー的なテクストに)こだわってしまいます。ただ、状況は、そんなに単純ではありません(ちなみに、コンテクストは「文脈」のほかに「状況」という風にも訳せます)。
職場の人間関係を、瞬発的なテキストの次元だけで捉えるのではなく、それを広く読書なども含めたコンテクストに置いて考え行動してみるのはいかがでしょうか。
Profile
末松裕基(すえまつ・ひろき)
専門は学校経営学。日本の学校経営改革、スクールリーダー育成をイギリスとの比較から研究している。編著書に『現代の学校を読み解く―学校の現在地と教育の未来』(春風社、2016)、『教育経営論』(学文社、2017)、共編著書に『未来をつかむ学級経営―学級のリアル・ロマン・キボウ』(学文社、2016)等。