続・校長室のカリキュラムマネジメント
続・校長室のカリキュラムマネジメント[最終回]感じる学校経営
学校マネジメント
2021.02.17
続・校長室のカリキュラムマネジメント[最終回]感じる学校経営
(『学校教育・実践ライブラリ』Vol.12 2020年4月)
東京学芸大学准教授
末松裕基
今回がこの連載の最終回です。「カリキュラム・マネジメントの話はいつするのか」「学校経営となんの関係があるのか」、読みながらそうお思いになった方もいらっしゃるでしょうか。もしくは、読んでいるうちに、そのようなことも忘れ、「あっそうか、学校経営やカリキュラムはこのような視野から問わなければならないのか」と思っていただけたでしょうか。
カリキュラムは語源をたどると人生の来歴を意味するほど、奥深い言葉です。言葉が軽視される時代だからこそ、この連載では言葉にこだわってきました。
言葉が生まれるところ
言葉との向き合い方が軽薄になりがちな時代だからこそ、真剣に向き合うための方法を読書や本という敬遠されがちな、そしてその継続には鍛錬が必要になるものを何度も何度も取り上げました。それは言葉が生まれる瞬間に真摯に立ち合ってほしかったからです。
私自身、この一年間も非常によい勉強の機会になりました。昨年度の連載がこれまで考えてきたことをいかに伝えるかということを重視したとすれば、今回の連載は、一緒に考えたいと思うことを同時進行でさまざまな文献に触れるなかで言語化し、私も言葉を生み出していくことに苦心したという感じです。
芸術家の横尾忠則さんが「書くことは、時には気分転換になったり休息になる......文章は日頃拡散した思考を一個所に集める作業で、ぼくは本を読むより書く方に、時間を多く使っているようだ」(『横尾忠則の画家の日記』アートダイジェスト、1978年、85頁)と述べています。
彼のように愉しんで、この連載をすんなり書けたわけではありませんが、私にとってはとても大切な時間でした。
ちなみに、横尾さんは相当に本を買われるそうですが、「10冊に1冊読んだらいい方だろう。読むことが重要ではなく、買うことが重要なのだ。本を買うことも、やはり思考を一個所にたぐり寄せる役割を果たしてくれる」と指摘しています。
このように読む行為を広くとらえていただくことにも本連載は意識してきました。ついでに触れると、横尾さんは、書斎の整理を日課にしているそうで、本の整理が自分の考えを整理することになるとして、ある日のことを次のように書いています。
「午後再び書斎の整理。本の整理は考え方の整理になり自分自身を振り返ってみるチャンスでもある」「本日は日曜日。10時から1時半まで3時間30分、書斎の整理。残す本、捨てる本、迷う本という具合に、自分が今何を必要とし、何を不必要としているかがこの行為を通して確認できる」(95-96頁)。
上から与えられる不思議な現象
教育課程」が行政用語であるのに対して、「カリキュラム」は研究用語です。「教育課程」が法制度の計画とその遂行を重視するのに対して、「カリキュラム」は子どもが実際に学んでいる学習経験の総体とその評価・分析を重視します。後者では、現場主義や関わる者の能動性、つまり当事者が自らの言葉や思考をもつかどうかが鍵になります。
では、今の教育現場はどうでしょうか。ある日突然、政策的に「カリキュラム・マネジメント」が降ってきたら、それに無批判に応じるのでしょうか。主体性や自由度を含意する言葉が上から降ってくるというこの矛盾に、現代の学校経営の難しさと醍醐味があるわけです。
私が言葉やそれが生まれる瞬間、そしてそれを形成していく方法としての読書にこだわってきたのはそのためです。言葉に正しさや正解はありません。研究も限られた条件で限られた結論を得るだけですので、それは広く言うとフィクションの世界です。正解がないと不安になって救済を求めたくなりますが、この連載で言ったように人の生き死にに正解はありません。私たちは非救済という形で救済されているとも、本を読むと指摘されていることに気づきます。人間形成についての安易で稚拙なフィクションくらい、皆さん乗り越えましょう。政策や行政が悪いと言いたいのではなく、所詮、その程度のものしか大きな物語は言えません(思考が不要なのでそれに従う誘惑もありますが、そんな物語=フィクションに乗っかって生きていくとろくなことにならないのは歴史が証明しています)。個々の生の物語を共に紡いでいける点で、教育は皆さんが知っているようにダイナミックな行為ですし、賭けにも近いハラハラ、ドキドキの危うさをともなうおもしろいものです。
さて、ぼちぼち終わりが近づきましたが、最近読んだ詩人の高橋順子さんのエッセイ『夫・車谷長吉』に、小説家・車谷さんが、生前、結婚前に高橋さんに送った手紙が紹介されています。「私はいま言葉というものに出逢ったことを、本当によかったと感謝しております。これがなければ、人間であることに堪えられなかったかもしれないと思うのです」(文藝春秋、2020年、54頁)。私もそのような一人です。最後に最近何度も朗読している詩を掲載して、本連載を終了します。一年間どうもありがとうございました(野村修さんによる1971年の訳です。「前衛」は「リーダーシップを取る」に置き換えられます。原語はドイツ語ですが、音楽と同じですので得手不得手に関係なく原語全文にも触れてみてください)。
「学習をたたえる」ベルトルト・ブレヒト
学ぶのだ、誰でも知るべきことを。
時代をいま、にないとろうとする者が
学ばずにいていいものか。
(中略)
知識を手にいれろ、こごえる者よ
飢える者よ、本を手にとれ、本も武器のひとつ。
きみは前衛とならねばならぬ。
同志よ、しりごみせずに質問するのだ、
ひとのことばを受け売りせずに
じぶんで考え、確認することだ、
きみがじぶんで確認せぬものは
わかったもののうちにはいらぬ。
勘定書を検算しろ、
支払いをせまられるのはきみなのだ、
内訳のひとつひとつに指さきをあて
きいてみろ、この金額はどうしてだ、と。
きみは前衛とならねばならぬ
Profile
末松裕基(すえまつ・ひろき)
専門は学校経営学。日本の学校経営改革、スクールリーダー育成をイギリスとの比較から研究している。編著書に『現代の学校を読み解く―学校の現在地と教育の未来』(春風社、2016)、『教育経営論』(学文社、2017)、共編著書に『未来をつかむ学級経営―学級のリアル・ロマン・キボウ』(学文社、2016)等。