校長室のカリキュラム・マネジメント

末松裕基

校長室のカリキュラム・マネジメント[第6回]学校を「経営する」とはどういうことか

学校マネジメント

2020.08.10

校長室のカリキュラム・マネジメント[第6回]
学校を「経営する」とはどういうことか

『リーダーズ・ライブラリ』Vol.6 2018年9月

東京学芸大学准教授
末松裕基

 

 教育界でも「経営」という言葉が使われることが多くなってきました。「学校管理職」の表現からわかるように、従来は「学校管理」「学校運営」という言葉が一般的であったように思います。

 似たような表現に「行政」「アドミニストレーション」「政治」「ポリティクス」などもありますが、これまでの連載でも述べてきたように、このように用いられる言葉が変化してきた背景や経緯を丁寧に理解し、向き合っていく必要がありますが、今回はそもそも学校を「経営する」とはどういうことを意味するのかを考えていきたいと思います。

「経営」とはなにか

 「管理」や「運営」という言葉は「オペレーション」「コントロール」のように、どこか遠く上の方から現場に指示命令や監督を行うという意味合いが強く、本部-実行部隊、本社-支店のような上意下達の組織観が前提とされています。

 それに対して、最近では、より現場主義でそこで働く人々に創意や工夫を期待する「経営」や「マネジメント」さらに「リーダーシップ」という表現を政策文書や学校で多く見聞きするようになってきました。

 managementという単語には“man”という表現が入っていますが、これは「マニュファクチャ(manufacture)」や「(運転操作がオートマではなく)マニュアル(manual)」という言葉に見られるように、「人間」もしくは「手」という意味合いが含まれています。

 さらに、“age”はなにかを「する」という行為を、そして“ment”という表現は「改善(improvement)」「運動(movement)」のように動きや事をつくっていくことを意味しています。

 以上からわかるように、managementというのは、多少の無理が伴ったとしても、現場主義によって、自分たちの手で問題を解決し、動きをつくっていくことを表しています。

 ただし、学校現場でなんでも問題を解決していくことには当然に限界がありますので、こういうことが求められるようになってきた時代背景や政治性にも十分に目を配っていくことが求められます。しかしその一方で、経営に向き合うということは、自分たちの手や頭を使って考え、行動していくということですので、現代では決して忘れてはならないことでもあります。

 つまり、「学校が管理される時代」から「学校を経営する時代」に現在は移行していると捉えることが重要になると言えます。このような過渡期の時代では、政治、行政も当然に水準の低下や実践のばらつきが現場主義によって生じることを心配していますので、経営に対してあの手この手でテコ入れをしようとします(現場の経営に対して口うるさく物を言い介入することが政治家、行政マンの仕事になります)。

 だからと言って、“行政がこう言っているので......”“現場は忙しいので......”と学校が受け身で消極的になることだけは避けたいものです。政治家も行政マンもそれぞれの持ち場で仕事をしているだけなので、現場主義の時代では政治や行政との緊張関係を楽しむくらいの気持ちでちょうどいいかもしれません。

「学校」を経営するとは

 「経営」となじみ深い言葉としてすぐに思いつくのは「企業」です。たとえば「市役所」「警察署」などはどうでしょうか。「市役所経営」「警察署経営」という表現には多少違和感を覚えるのではないでしょうか。「学校」に対してもまだすんなりと「経営」という言葉を用いることが難しいかもしれませんが、使い慣れないということ自体に丁寧に向き合っていくことが大切になると思います。学校経営は企業経営とはなにがどのように異なるのでしょうか。

 わたしがこれまで見聞きしてきたなかで、最もシンプルな「経営」の定義に「他人を通して事を成す(get things done through others)」というものがあります。これはクーンツとオドンネルが『経営管理の原則(Principles of Management)』という本の中で1955年に述べたもので、古典的かつ基本的な定義です。

 ポイントは「他人」と「事」の二つです。まず、経営はどこまでいっても「自分」でやるのではなく「他人」を通じて行うということです。そして経営はなにをめざしてやるか、「事」の性質に大きく左右されるということです。

 企業経営の場合は「他人」はほぼ従業員に限定されます。たとえば、ソフトバンクがドコモに売り上げが負けそうだからといって、孫正義氏がはんだごてをもって新しいiPhoneを開発し始めた時点で会社は倒産します。「他人」を通じて開発するしかありません。経済合理性が求められる企業では、社内に適切な「他人」がいない場合は、社外(iPhoneの場合だとアップルという会社)に人材を求めます。また、同じiPhoneという商品を扱っているのに、なぜドコモと売り上げの差ができるのかを考え、“営業や宣伝に問題があるのでは?”と優秀な営業マンをヘッドハンティングしたり、広報部の人材を厚くしたりします。

 そして、どんなきれい事を言っても最後は売り上げや株価で会社が評価されます。つまり「事」を成す対象が明確でそれらは数値としてはっきり示すことが可能です。

 これに対して、学校の場合は経営における「他人」は誰と言えるでしょうか。学級担任は、教室に入れば頼れる「他人」がすぐに見つかりません。こう考えていくとやはり学校に経営は必要ないのではないでしょうか。

 また、学校はどんな「事」を成そうとしているのでしょうか。半期または1年で明確に数値化できることなどなかなかないはずです。ましてやお金儲けをしているわけでもありません。企業が「経済活動」をしているのに対して、学校は「教育活動」をしています。そう考えると、学校で成そうとしている「事」は「子どもたちの成長」「子育て」「人格の完成」など非常に曖昧で抽象的にしか表現できません。

 リーダーから“××××のために皆さん、一致団結して頑張っていきましょう”と言われても、掴みどころがなく皆ポカ〜ンとするしかありません。こういうことを考えると学校に経営はなじまないですかね。

 わたしはそのようには考えません。正直に言えば、世の中の組織で学校ほど経営を担当したくないものはありません。それほど学校の経営は企業経営に比べて難しいということです。単純ではないのです。柔軟で高度な思考やシステムが求められる学校の経営は奥が深いですね。もう少し粘りづよく一緒に考えていきましょう。

 

 

Profile
末松裕基 すえまつ・ひろき
専門は学校経営学。日本の学校経営改革、スクールリーダー育成をイギリスとの比較から研究している。編著書に『現代の学校を読み解く―学校の現在地と教育の未来』(春風社、2016)、『教育経営論』(学文社、2017)、共編著書に『未来をつかむ学級経営―学級のリアル・ロマン・キボウ』(学文社、2016)等。

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学芸大学准教授

専門は学校経営学。日本の学校経営改革、スクールリーダー育成をイギリスとの比較から研究している。編著書に『現代の学校を読み解く―学校の現在地と教育の未来』(春風社、2016)、『教育経営論』(学文社、2017)、共編著書に『未来をつかむ学級経営―学級のリアル・ロマン・キボウ』(学文社、2016)等。

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