異見・先見 日本の教育 知らないことに心を開くダイバーシティ&インクルージョン

トピック教育課題

2023.03.13

僕が僕の同性愛を受け容れるまで

 僕は小学生の頃には、「遠足で同じグループになりたい」「もっと一緒に遊びたい」という特別な気持ちを同性の同級生に抱いていた。同性愛という言葉はまだ知らなかったが、その「特別な気持ち」は好きという感情、恋のときめきだった。中学生になり第二次性徴が始まると、自分の身体の変化よりも同性の同級生の身体の変化や特徴ばかりが気になった。

 高校生のとき毎日時間を合わせて一緒に帰る同級生がいた。もちろん男の同級生だった。その同級生からある日、「俺、告白された女子と付き合うことになったから、明日からは一緒に帰れない」と言われた。耳の奥で除夜の鐘がガンガン高速で鳴る気持ちになった。その女子に対する嫉妬や怒りで顔が赤くなったかもしれない。でも妙に明るく「モテモテやん!」と笑って手を振ってバイバイをして、僕のほうから背を向けて帰った。ドラマや歌詞に出てくる失恋そのものだった。

 高校生のときはもう同性愛という3文字を知っていた。辞書をひけば「同性愛-同性を好きになるさま」と書いてあった。だから僕は恋愛感情や性の関心を自覚するほどに「もしかして僕は、同性愛者ではないか」と考えるようになっていた。でも同時に、いろんな理屈をつけて、自分の同性愛を否定しようとした。「僕はいわゆる奥手なだけじゃないか」「僕はスポーツが苦手だから運動部のアイツに憧れているだけじゃないか」「女子から告白されたら、きっと女子への恋に目覚めるはずだ」とか……。性教育や保健体育の授業で「第二次性徴が来て思春期の頃になると、男子は女子に、女子は男子に興味を持ちます。それは普通のことで恥ずかしいことではありません」と教わったことも、自分の同性愛を否定する拠り所となった。

 けっきょく僕は大学生になって一人暮らしをし、普及しだしたばかりのインターネットを通じて自分以外の同世代の同性愛の人と出会い、そして同性同士の性体験をするまで、自分の同性愛を受け容れられなかった。しかもそのときの僕の感想は「あぁ、やっぱり僕は同性愛者だったのか」というあきらめだった。ただ同性愛の友人が少しずつ増え、自分を隠さずにいられる人間関係が少しずつ広がる中で、否定してもしょうがないという程度には、自分の同性愛を肯定できるようになった。ちょうど二十歳の頃だろうか。

 とはいえ「僕は同性愛者です」などというのは、人に言うべきことではなかった。特に家族や地元の友達のように昔からの自分を知っている人に、それを伝えることは、それまでの人間関係の全てが噓だと言うようなものだった。同性愛を受け容れてほしいと期待するほうが厚かましいとすら思った。だから家族や地元の友達ほど、万全に隠し通すよう気を遣った。

 「世の中と折り合いを付けながら、上手に隠し続けること」が、同性愛者の正しい生き方になってしまうのは、社会に差別と偏見があるからだ。そんな理屈よりも僕にとって大事なことは、今の自分の居場所を失くさないことだった。ふとした拍子に同性愛がバレただけでも、同性愛を否定する人からは遠ざけられ、気が付いたら孤立し、やがては自分の居場所を失うだろう。差別と偏見がおかしいと正論を言って抗ったところで、学校で教わらないとか、男女の恋愛が普通だとか、同性愛には子供ができないとか、もっともらしい反論がされるだけだ。自分の同性愛を受け容れた後も、僕はそう考えていた。

基準や正解を探すことは

 僕は行く先々の講演で、こんなことを話しながら、聞いている人の顔をできるだけ見る。特に、学校の先生に向けた講演のときは、10代の僕が自分のことを話すしかないと思ったとしたら、どの先生に相談するだろうと想像を巡らせる。

 講演終わりの質疑応答で、「LGBTQの生徒への対応として、できる・できないの基準を教えてください」「こういうLGBTQの生徒には、どう接するのが正解ですか?」という質問をする先生はとても多い。「今、先生が言う生徒さんがどんな子なのかを僕は知らないし、そもそも基準や正解はないことだと思います」と答えるよりほかない。それでも「私は当事者じゃないし、わからないから聞きたいんです。基準がわからないと相手を傷つけてしまわないか心配なので教えてもらいたいんです」と食い下がる先生もいる。

 その先生は「当事者の弁護士さんがこう言っていたから、こういう対応をする」という形が整えば生徒は傷つかないとでもいうのだろうか。もし僕が生徒で、そんな風な基準と正解を言われたら、自分が一致しないどこかに気づいて、「あぁ、やっぱり自分は、ここには居られないんだ」と思ってしまうだけだ。

 ただ講演の場で、壇上から僕がそれを言うのは、その先生を傷つけることだ。先生だって、わからないことだらけで、いろんなことに気を遣って、悩みの中で質問してくれているはずだ。そもそも僕がエラそうなことを言えるのは、「お客様」だからだ。僕がもし一教員として学校現場に立ったとしても、理想的な対応はできず、ドタバタしているだけで一日が終わり、気づいたら学年末になっているだろう。「その生徒さんと先生が違うのは当たり前だと思います。無理して同じ気持ちにならなくていいと思います。でも、先生自身が痛くも痒くもないことなのに、なぜその生徒さんにとっては、痛いとか痒いとかになっているのか、その違いを探ってみてください。そこで見えてくる違いこそが、生徒さん本人にとっての、周囲の人や学校や社会との壁なのかもしれません」と僕は答える。

知らないことに心を開いて

 学校の先生だからといって、世の中の全てを知っているわけでもない。知らないこともあれば戸惑うこともある。生徒の悩みや問題に向き合うとき、それが知らないことならば、素直に「先生も知らないから、教えてほしい」と伝えればいい。生徒にとっては、理解できないと否定されるよりも何倍もホッとする答えだと思う。

 そして、もし先生が「あぁ、私が知らないばかりに、うまく関われず傷つけてしまったんじゃないか」と昔のことを思い出すことがあっても、自分を責めたり悔やんだりはしないでほしい。その生徒は、先生に自分のことを話せたことだけでもいくらかホッとしたことだろう。そして時間が経った今でもそのことをずっと気にかけている先生なんだから、その時もきっと、真面目に心を開いてその生徒の話を聞いていたことだろうと思う。

 LGBTQとかSOGIとか、性についても一人一人の違いや多様性を表す言葉は、多くの人に意識されるようになった。ただ言葉は、あくまでも人のことを理解したり、あるいは自分のことを誰かに説明したりするための道具にすぎない。言葉を、相手への決めつけや集団の線引きに使うのは誤りだ。

 学校教育の中で、先生と生徒が性の多様性を意識することは、ダイバーシティ&インクルージョンの社会を実現することそのものだ。SOGIという言葉にあるとおり、性はLGBTQと呼ばれる特定の人たちだけの問題ではない。あらゆる人に共通する普遍的なことなのに、一人一人違うからこそ、ダイバーシティなのだ。しかしダイバーシティを表す言葉で基準を作って線引きし、正解を探すとなれば、基準と正解から外れる人は見捨てられてしまう。それはインクルージョンではない。

 性の多様性は、難しい言葉を勉強しなくても意識できる。知らないことに心を開いて、自分のことと重ね合わせれば、相手と自分の違いに気づくことができる。相手を理解することができるかもしれない。学校の先生一人一人が今できる、いちばんの取り組みだ。

 

 

Profile

南 和行 みなみ・かずゆき
 1976年大阪市生まれ。京都大学農学部卒、同大学院修了、大阪市立大学(現大阪公立大学)法科大学院修了。弁護士(なんもり法律事務所、大阪弁護士会所属)。民事事件を中心に、離婚や相続そして戸籍など家族に案件を多く取り扱う。「一橋大学アウティング事件」の原告代理人や「ろくでなし子事件」の弁護人を務める。松竹芸能に所属するタレント弁護士(文化人)として、テレビの報道番組への出演や、映画やドラマの監修、そして執筆と幅広い活動をしている。著作として『同性婚-私たち弁護士夫夫です-』(祥伝社)、『僕たちのカラフルな毎日』(共著、産業編集センター)、『夫婦をやめたい。離婚する妻 離婚はしない妻』(集英社)。

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