異見・先見 日本の教育 談志は教育者ではなかった

トピック教育課題

2022.09.28

異見・先見 日本の教育
談志は教育者ではなかった

落語家・作家
立川談四楼

『教育実践ライブラリ』Vol.2 2022年7

入門

 18歳で弟子入りした時、師匠の立川談志からこう言われた。「僕は君の師匠であって教師ではない」と。まったく同じでなくても似たようなものと思っていただけに面くらった。

 付き人として行動をともにするうち、漠然と分かってくる。弟子入りは入社でも入学でもなく、入門なのだと。仏門に入るのに近く、師匠と弟子に明確に分けられ、従弟制の中で修行をすることなのだと。

 修行を談志は「理不尽に耐えることだ」と言った。なるほど無理難題が持ち込まれる。できないまでもチャレンジすることが大切で、嫌な顔はできない。したら最後、こうなる。「嫌ならやめろ。こっちがいてくれって頼んでるんじゃない。君がおいてくれってぇからおいてやってるんだ」。弟子入り時を思い出す。「何でもやりますから弟子にしてください」と言ったのだ。

 「教師は生徒と同じ高さの目線で」などと言われるがこれも当てはまらない。物理的な高さではなく、気の持ちようのことだ。例えば稽古だが、教える側が一方的に喋り、教わる側は全身を耳にして聞く。ましてやテープレコーダーのない時代のプレッシャーは大変なもので、そこへ師匠から「飯でも食ってけ」と言われると、ありがたいのに万事休すだ。早く辞去し、その道すがら稽古がしたいのだ。

 小言の途中の口答えも許されない。「口答えをする口でなぜ謝らない」と小言がまた増えるのだ。一年ほど経った頃、卒然と気づく。降りかかる様々なプレッシャーは試されていたのだと。あえて負荷をかけて本気度を見る。そこを潜り抜けた者だけが弟子になれるのだ。それが証拠に認められた途端、負荷が解かれるのだ。小言にしてもコツがあると分かる。「何でもいいからとにかく頭を下げろ。頭を下げると小言は上を通り過ぎる」との楽屋の格言を知り、その通りにすると、小言はすぐに終わるのだ。入門後の1年間は若さがあってもキツかった。72キロあった体重が59キロになった。でも「談志の弟子はダイエットにいい」とのネタはできた。

選挙

 普通、ここで寄席に入り、楽屋修行が始まるのだが、何と翌1971年、談志が参議院議員選挙に立候補する。それは分かっていた。1969年の衆議院選挙に談志は落選していて、この参院選に期していたのだ。折しもタレント議員ブーム、横山ノックや青島幸男に負けてたまるかとのプライドがあったに違いない。

 私も弟子になりたい一心で運転免許を取得して弟子入りを志願した。免許証を出し「お役に立てると思います」と言った時、談志は言った。「いい了見をしてる」と。免許を持っていなかったら、さあ私は弟子になれなかったのか。今でもその時のことを時々考える。

 当時の参院選は全国区だった。まずは事前運動、全国の主だった都市での独演会だ。無所属で企業も宗教もバックにない。プロダクションがフル回転、だから独演会は急遽決まり、スピーカー付きのワゴン車で2日前に現地に乗り込み、街を流すという原始的な方法。開演直前に談志が楽屋に入り、なかなか来ず、前座が2人高座に上がったこともあった。

 これを週に一度、2ヶ月ほどやったか。ずうっとの運転はさすがにこたえ、高速道路上だけが休憩の場で、すると今度は睡魔に襲われ、ああよくぞ無事だったなあ……。

 さあ選挙戦だ。遊説カーは3台まで使用可能。1台は九州から北上、1台は中部・関東を回り、もう1台が北海道から南下する。つまり候補者談志は3日に一度車に乗ってくるわけだが、今にして思うと最もキツかったのは談志で、不思議だ、選挙中はそのことを考えもしなかった。とにかく選挙は面白く、夢中になっていたのだ。

 私は中部・関東を回る2号車のドライバー兼遊説隊員だった。ありがたいのは談志の友人がドライバーを引き受けてくれたことで、運転は一日交替となって大助かり、その分、遊説に力を入れた。

 談志は35歳、喋りのスピードは全盛期で、遊説カーに乗り込むと威力倍増。例えば商店街を通りかかると、商店名のすべてを見事に読み上げ、「2階から手を振ってくれてありがとう。こちらからはよく見えます」とやって喜ばせるのだった。

 中でも傑作は「ハガキには郵便番号を書きましょう。選挙には立川談志と書きましょう」で、郵便番号が導入されたものの浸透がはかばかしくない時期と重なり大ウケで、郵便局の人が出てきて頭を下げること一再ならずだった。

 私が点数を稼いだこともあった。談志はすれ違う車のナンバープレートを読み上げるのだが、ドライバーはあまりピンとこず、私はマニアといっていいぐらいの車好きだったので、「ブルーバードさんこんにちは、カローラさん行ってらっしゃい」とやり、談志が目を丸くしたのだった。

 談志が車に乗らない2日間が問題だったが、我が2号車には兄弟子の談プがいた。漫談家を志す彼は談志の物真似が絶品で、当然彼がマイクを握った。「談志です、談志です。助手席の白い手袋が立川談志です」。やはり違う。人々が次々と飛び出してくる。遊説カーが走っている時はいいが、赤信号がいけない。沿道の人が、「やだ、談志と違う。ニセ者よこの人」となり、声が似ていても風貌がまるで違うのでバレてしまうのだった。

 商店名を読み上げることや郵便番号のこと。ついでに言えば車種を言うことは後年、他の候補が真似をした。我らは新しいことを実践していたのだ。白眉は地方都市駅頭における街宣だった。自民党、社会党、共産党の遊説隊が続々と集まる。資金力の違いを見せつける立派な車で、屋根の上が演壇となっている。我らの遊説カーはショボい。屋根へは上がれず、地べたに立つしかない。しかしそこはタレント候補の強みで、ショボい車の前に聴衆が最も集まった。当選を確信した瞬間だった。当選者は50人、悪くいってもベスト20には入るだろうと。

結果

 3台の遊説カーが東京へ集結。選挙は祭りだというのは本当だった。談志が神輿で、支援者と弟子は熱に浮かされそれを担いでいた。さ、開票だ。当確が出ない。次々と当選者が発表されるのに、立川談志の名がどこにもない。体は疲弊し切っているのに、目は冴え、テレビを見つめる。とうに零時は回った。やがて肉体に限界がきて、ウトウトッとした頃、選挙事務所に歓声が上がった。奇跡だ、50人中の50番目で当選だ。

 どこにいたのか談志が現れた。フラッシュがたかれ、記者が言う。「ビリでしたね」。談志が答える。「真打は一番後に出るもんだ」。ドッと上がる大歓声。この時の名言は、弟子や孫弟子が今も伝えている。やがて談志に参議員会館の一室が与えられ、弟子はそこに通う。入門2年で3人の弟弟子ができた。一番下の弟子は付き人であるので通行証が与えられたが、他の弟子は入館手続きを強いられた。「何号室の誰を誰がどんな用向きで訪ねるか」といったもので、「稽古をつけてやるから来い」と言われたので、用向きを「稽古」としたら、受付は困り妥協して「陳情」とした。

 騒動が静まった頃、談志が弟子を集めて言った。「今回はご苦労。どうだ、いい修行になったろ。これでみんな選挙で食えるぞ。遊説カーに乗ってもいいし、応援弁士でもいいし、落語の他にこんなことができるヤツは少ねえぞ」。「修行だよ」の一言で命ぜられたことだが、確かに別のスキルが身についた。そして後年、それは大いに役立つのだ。

 談志は無所属で当選したが、佐藤栄作に可愛がられ、自民党に入った。料亭に呼ばれて行くと、佐藤栄作と師匠の柳家小さんが飲んでいた。佐藤栄作に酌をされ、ご機嫌の小さんが言った。「談志、佐藤さんが勧めてくれてんだ、自民党へ入れ」。「師匠を先に籠絡されたんじゃ断れねえ」と談志は後に語った。私はそこに縦社会を見た。

 たくさんの自民党の政治家を見た。タカ派もハト派もいたが、保守政治というものを漠然とだが理解した。戦争経験者も多く、その一人である田中角栄は「戦争を知らないヤツ(政治家)が出てきて日本の中核になった時が怖い」と語ったという。

 6年任期の後半、1975年12月、談志は沖縄開発庁政務次官に就任。翌76年1月、沖縄海洋博の閉会式を視察。その2日後、メディアの会見に二日酔いで登場する。「サングラスで会見ですか」「目が赤いからだよ」「沖縄の基地面積は?」「知るわけねえだろ」。会見の場は見る見る険悪になった。談志は弟子に語った。「基地面積ぐらい知ってるよ。でも記者連中に言いたくなかった。連中は最高学府を出てる。オレは高1中退、つまり中卒だ。それが参議院議員になり、それだけで面白くないのに政務次官になった。イジめてやろうってなもんだ」と。

 ついに決定的な局面を迎えた。記者が「公務と酒とどっちが大事なんですか」と斬り込んだ。ケンカを買った談志は答えた。「酒に決まってるだろう」。さあ大騒ぎになった。結果、談志は沖縄開発庁政務次官を36日間でクビになったのである。

 帰京後、記者に追いかけ回される中、談志は浅草演芸ホールに出演した。見ると呼び込みが「さあいらっしゃい。これから政務次官をしくじった談志が出ますよ」とやっている。高座に出た途端、ドカーンとウケた。続けて、「沖縄でしくじって参りました」とやると天井が抜けるほどウケた。その時に談志は上手いの下手だのは関係ないと確信したという。「客はしくじったヤツを見にくるんだ。どんな言い訳をするだろうと聞きにくるんだ。芸は演者のパーソナリティなんだ」と。談志の芸風が変わり、落語はドキュメントだと標榜するようになった。そして談志は参院選2期目に出馬しなかった。

震災

 枝野幸男が「ただちに人体に影響はない」と言い続けた年の11月21日に談志は享年75で亡くなるが、私はその年にまた政治に目覚めた。まずは原発の勉強から始めた。自分の使っている電気が福島から来ていたことを知らなかったからだ。その途中で、安倍晋三が「原発の全電源喪失はありえない」と言っていたことを知る。

 やがて政権は民主党から自公へと移り、長く安倍晋三が首相の座を務めた。「美しい国日本」とは一体何のことなのか。アベノミクスとか3本の矢とか様々に繰り出すが、彼の言動が腑に落ちない。これが私の知っている自民党だろうか。あまりに違う。「清濁併せ呑む」とは言うが、それが自民党だと思っていた。ロクでもないのもいるが、最後は弱者をちゃんと見ていたと思う。その視点がないことに驚いた。友人や大企業ばかりを優遇しているのではないかと。

 談志は無所属で当選し、自民党に入り、沖縄でミソをつけ自民党を離党し、結局は無所属で退いた。しかし退いた後も自民党人脈は健在で、選挙の度にあちこちに駆り出された。加藤紘一と親交を持ち、「優秀すぎるので総理にはなれないだろう」と言い、果たしてその通りになった。また、某右翼の顧問になった時には驚いた。それでいて上田哲を応援したりするのだ。見えてくる。談志は政党とはつきあわない。個人とつきあっているのだ。談志にじっくり聞いてみたい。「師匠は今の自民党をどう思いますか」と。

現在

 私には弟子が6人いる。わんだ、寸志(すんし)、だん子(だんこ)、只四楼(ただしろう)、縄四楼(なわしろう)、半四楼(はんしろう)である。わんだが真打で、寸志が近々真打、だん子、只四楼が二つ目で、縄四楼、半四楼が前座だ。わんだは快楽亭ブラックの弟子で、ブラッC(シー)と言った。ブラックが借金を膨らませ一門を追放になり、私が引き取って三四楼、一昨年立川わんだで真打となった。寸志は私の前座名前だが、現寸志は私の担当編集者だった。ある日スーツで現れ土下座した。本の企画が飛んだのかと思ったら、弟子入りだった。だん子は女子だ。女子は落語に向いていないと考えていたが、根負けして弟子にした。今では早く弟子にしてやればと思っている。只四楼は元お笑い芸人で、やはり笑いに対するスタンスが面白い。縄四楼の縄は沖縄の縄だ。普天間飛行場のある宣野湾の生まれで、沖縄は談志の因縁の土地、弟子にしないわけにはいかない。半四楼は東大を出て商社に勤めていた。入門時にはいいオッサンで、人生半ばでの入門なので半四楼とした。

 私は弟子に、談志若き日のような強い負荷はかけていない。談志のネタにある「勉強しろと言ったって、しねえヤツはしない。勉強するなと言っても、やりたいヤツは隠れてもやる」を参考にしているからだ。放任ではないが、やるヤツはやると思っているのだ。やらなきゃ損をするのは自分なのだから。

 談志の弟子になってよかったのは、政治の話がタブーではなくなったことだ。これは私たち弟子が選挙を経験し、談志が参議院議員になったればこそだ。昔の楽屋では選挙や政治の話をすると「シィ、仕事をなくすよ」などと言われたと聞くが、我らは常にオープンだ。「自公維はダメだな」「野党第一党が」「共産党とれいわがね」などと言いたい放題なのだ。それよりなぜ政治の話をしないのか不思議である。政治は我らの暮らしと直結しているのだ。

 だから政治家には積極的に話しかける。そこで分かったことだが、共産党の議員や党員に落語ファンが多かった。自民党にももちろんファンはいる。著名な某議員だが、あえて名を秘す。「落語? 好きですよ。毎週『笑点』を見てますから。そうだ、キミももっと頑張ればあの番組に出られるよ」と、まあそういう落語ファンなのだ。そうだ、今度れいわや立憲にも聞いてみよう。

 談志は病が重篤となった時、我ら弟子に「勝手に生きろ」と言った。だから勝手に生きているわけだが、私は弟子にあまり注文をつけない。ただ一つ言うのは「せっかく立川流にいるのだから、選挙だけは行けよ」ぐらいか。立川流を創った談志に敬意を表せということだ。一門の若手には談志をこう説明する。「縦社会という保守の中にいて、組織を飛び出して立川流を作った革新的な人だ」と。そう、談志は決して教師ではなく、紛れもなく師匠であった。

(文中、敬称略)
本稿の執筆時は7月4日現在。※本文中の人物評等については筆者個人の見解です。

 

Profile

立川談四楼 たてかわ・だんしろう

 群馬県邑楽町生まれ。1970年県立太田高校卒、同年立川談志に入門。1980年NHK新人落語コンクール優秀賞受賞。1983年立川流落語会第一期真打となる。同年、真打昇進試験を題材にした小説『屈折十三年』(別冊文藝春秋)で文壇デビュー。1990年初の小説集『シャレのち曇り』(文藝春秋)で各方面から評価を得る。以来、新聞や雑誌にエッセイや小説を書き続けている。1998年一年間、専修大学の特別講師として「古典特殊講義」で教壇に立つ。1999年専修大学の講義の模様が『ガチンコ人生講義』(新潮社OH!文庫)にまとまる。著作数は30を超え、代表作は『シャレのち曇り』『一回こっくり』『談志が死んだ』の小説3部作。他に『ファイティング寿限無』『石油ポンプの女』など。

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