“ふるさと”と私 経験は人生の宝物
トピック教育課題
2023.01.27
目次
“ふるさと”と私 経験は人生の宝物
お笑い芸人
石澤智幸
私の故郷は山形県山形市。山々に囲まれた実家の裏には川が流れ、自然豊かな風情ある場所で育った。遊びはもっぱら外。友人たちとの「ドロケー」に野球、山麓の雨風が凌げそうな場所には秘密基地を作った。季節によって遊びは変わる。春は山菜採り。採りたてのふきのとうを、母が味噌汁に入れたり天ぷらにしてくれた。ほろ苦いがこれがおいしい。母の笑顔が嬉しくてまた採りに行くのである。夏は川で釣りや水遊び。カブトムシ・クワガタムシ・カミキリムシにオニヤンマなどの昆虫採集もワクワクした。秋は河川敷での芋煮会。家族、友人、町内会の方々と鍋を囲む。これぞふるさとの味。美味! 冬は積雪が多かったので、玄関前の道路の雪掻きから1日が始まる。その掻いた雪を集めて雪山を作りミニスキーやそりで滑った。かまくら作りに雪合戦。スマホやゲームがなかった時代も、それはそれでかなり楽しかったものだ。子どもながらにあれやこれやと工夫をし、その中で命の大切さや人間関係を学んでいたのかもしれない。
私は7歳から高校3年生まで詩吟をやることになる。自ら好んで始めたわけではない。3世代で暮らしていたのだが、長年詩吟をやっていた祖母からいつの間にか教わっていた。歌うことは好きで小1でピンク・レディーのものまねなどをしていたが、詩吟となると別物だ。まず独特の節回し。そして振り付けが全くない。祖母はこぶしを回すのだが、それができない。「少年老い易く、学成り難し」と吟じるのだが意味が分からない。詩吟そのものに楽しさは感じていなかったが、モチベーションを保ったのはたまにやってくる昇段試験だ。大人しかいない試験会場だったため、子どもの私は皆さんに可愛がられた。そして、試験に合格すると貰える賞状が嬉しくて続けていた。人生初のトロフィーを貰った時はとても喜んだ。思春期を迎えると詩吟をやっていることに疑問を感じはじめた。何のためにやっているのか。友達は誰一人やっていないしそもそも面白くない。とはいえ高校に入っても何となくではあったが続けていた。ある日、私が詩吟をやっていることを知った担任の先生からこんな提案が。「詩吟ができるのは珍しいから朝の全校集会で吟じてほしい」と。「えっ、なぜ?」と思ったが、数日後に私は全校生徒の前で披露していたのだった。達成感よりも恥ずかしさが上回っていたことを覚えている。私は複雑な感覚だったが、生徒の皆さんこそどんな思いで聴いていたのだろう。
18歳、詩吟を続けても何の役にも立たないと感じた私は、上京するタイミングで詩吟から離れた。役者を目指していた私は大学2年生の時、東京で渡辺えりさん主宰「劇団3○○」の舞台のオーディションを受けた。1か月間の東京公演の他に山形公演もあり、ぜひ参加したいと応募した。台詞などの実技試験の後に面接もある。自分をPRするのだが、そこで暫くやっていなかった詩吟を披露したのだ。できるようになっていたこぶしの回し方は喉が覚えていた。後日えりさんに伺ったら詩吟が良かったとのこと。なんとオーディションに合格したのである。しかもえりさんは当て書をして、私が詩吟を吟じるシーンまで作ってくださった。何の役にも立たなかったはずの詩吟が、私を晴れ舞台に立たせてくれたのだ。ふるさとの山形市民会館での公演には両親や友人、そして高校の担任の先生も来てくださった。あの全校集会から数年後、この大舞台で詩吟を吟じることになるなんて、先生は予期していたのだろうか。他界して来られなかった祖母にも、恩返しができたような気がした。
私の職業は芸人だが、今の仕事の中心は漫才やコントではなく歌うこと。その基礎は、確実に私の歌の原点である詩吟から学んだ。発声の仕方、たまに入るこぶしや節回しもそうだ。人生どこで何が繋がり役に立つのか分からない。「なんでだろう〜?」のあるあるネタも、ふるさとでの記憶から生まれた。私の場合は様々な経験が、知らぬ間に人生の手助けをしてくれたのだ。子どもたちにも役に立たないと思うことを無駄と思わず、たくさんの経験をしてもらいたい。そして引き出しを増やし道を切り開き、豊かな人生を歩んでほしいと願う。
Profile