Introduction 対話とは何か──哲学的考察

トピック教育課題

2022.03.04

Introduction 対話とは何か──哲学的考察
立教大学教授 
河野哲也

『新教育ライブラリ Premier II』Vol.4 2021年11月

哲学対話という出来事

 筆者は、これまで十数年にわたり、サイエンスカフェ、哲学カフェ、子どもの哲学など、多数の哲学的な対話を実践してきた。子どもの哲学について言えば、年齢的には就学前のお子さんから高校生まで、様々な地域の教育機関で実施させていただき、いくつかの学校では継続的な授業として組み込んでいただいた。

 なぜ、私は、こうした対話を行ってきたのだろうか。一つは、対話が教育にとって不可欠であるにもかかわらず、現在の学校教育では、あまり実施されていないという思いがあったからである。それ以前に、日本の社会では一般に、対話が行われることがひどく少ないと感じていた。対話の欠如が、市民同士の真の理解を妨げてしまい、様々な社会問題の根幹にあるように思われた。

 しかし、そうした社会改善を目的とする以前に、対話は、単純に、とても面白い、知的刺激に満ちた魅力的な人間交流である。それまで思いもしなかった発想が保育園のお子さんから得られる。高校生の落ち着いたものの見方に感心させられる。多世代対話では、おじいちゃんが小学生の話に聞き入る。小学校では、「場面緘黙」とされたお子さんが突然に自分の考えを話し出す。普段は無口で引っ込み思案の生徒が、積極的に進行のイニシアティブを取る。「筆者だから、そういうことができるのだ」という人もいるが、それは間違いであるし、言い訳に聞こえる。人々が対話をする機会があまりに乏しかったので、機会が与えられるとそこで今までなかった劇的な人間交流が生じるのである。対話にはその人の人格がそのまま表現される。

 本稿では、これまでの実践を振り返りながら、対話とは何か、対話とはどのような営みであるのか、その効用はなんであるのかについて、改めて考察してみることにする。

対話とは何か


江戸川区子ども未来館での図書館と連携した子ども哲学

 「対話(ダイアローグ)」は、会話(カンバセーション)の一種である。しかし、他の種類の会話とどう違うだろうか。

 私たちは、日常生活の中で、よほど特殊な事情がない限り、会話をしないことはない。朝起きて、家族と今日の予定を伝え合う。しかしこれは対話とは言わない。対話は、ただの情報伝達ではなく、自分の考えを伝えるものでなければならない。家族で、テレビのニュースを見て短く感想を言い合う。これも「対話」と呼ぶには大袈裟である。対話は、ある程度の時間をかけた考えのやりとりで、発言に思考が伴うようなものでなければならない。銀行に行って、行員と資産運用について相談をする。こうした実利的な目的のある相談や交渉、取引は、対話とは呼ばない。

 お昼には、レストランで久しぶりに会った友人と近況を話して、談笑する。これも対話とは呼ばないだろう。対話は、交際や会話を楽しむためのものではなく、それよりは真剣なテーマについて議論(アーギュメント)するものである。議論では、論理性や、一貫性、実証性が重んじられる。楽しみの会話では、冗談やウィット、世辞や思い出話を交えながら、話題はどんどん変わる。楽しみの要素が全くないとやや気づまりになるとはいえ、それらが対話の本質ではない。

 仕事場の会議で、次期の事業計画について論じ合う。この場合には、論理性や実証性が大切になるだろう。しかし、ここでの会話には、「議論する」という表現は当てはまっても、「対話する」という表現はどこか意味がずれている。前述したように、実利性のあるテーマについて論じ合うのは、「対話」とは呼ばない。では実利的なテーマではなく、政治や司法に関わるテーマはどうだろう。与野党が特定のテーマについて政策の是非を論じる場合は「討議する(ディベートする)」という。法廷での原告側、被告側の論争も、「討議」とは言えても、「対話」という言葉を当てはめるには相応しくない。討議では、議論するどちらの側も真実を明らかにしようとしているし、優れた問題解決を探ろうとしている。しかし、討議しているときには、互いの基本的な立場や役割は変わらない。原告側は原告側としての立場を崩さず、某政党を代表してのディベートもその立場を変えない。しかし根本的な政治理念や国家の在り方についてじっくりと論じ合うならば、それは「対話」と呼んでいいだろう。

 以上から、対話の基本的な性質が分かってくる。対話は、定型的なやりとりでは済まないような重要で複雑なテーマを扱う。対話は、おしゃべりと人間交際をただ楽しむようなものではない。対話は、討議のように真理追求や問題解決を目指した会話である。そこには、合理性や実証性が必要とされる。しかし、討議と違う点は、対話では、自分の立場が固定していないことにある。真理の追求の中で、今の自分の考えや自分の現在の在り方が変わり得る、そうした会話こそが対話なのである。利益を追求する交渉や取引は、対話とは呼べないのも同じ理由からである。利益を追求する会話は、自分の基本的な目的や価値は定まったままで、変化しないからである。対話では、相手とのやりとりの中で、自分の基本的な考え方や価値観、これまでの自分の在り方や姿勢、常識が変容することを受け入れなければならない。少し大袈裟に言えば、対話は、自分の存在自身を変じようとする気持ちがなければ行えない。だから、私たちは毎日会話をするが、対話をすることは稀なのである。

対話とはどういう人間関係だろうか

 なぜ、私たちは対話をするのだろうか。それは、何かの問いを持ち、その答えが分からなかったり、現在の自分の考えが間違っているかもしれないと思うからである。しかし、なぜ、真理の探究を、他の人たちとの対話によって行うのだろうか。なぜ、書籍を読んだり、講演や講義を聞いたりするだけで満足しないのだろうか。

 それは、対話で求めているものが単なる事実や情報ではなく、「自分がどうあるべきか」という問いに対する答えとしての真理だからである。それは、価値や当為(なすべきこと)、規範に関わる真理である。事実や情報であれば、信頼できる筋から一方的に受け取ればよい。明日の天気なら、気象庁や観測所に問い合わせればよい。明日の天気を知りたいのは、明日、スポーツ大会を催すからである。スポーツすることの価値が疑う余地もない場合には、対話など必要とはしない。しかし、「スポーツとは何か」という問いが生まれた時には、私たちはそこには、なぜ自分はスポーツをしているのか、これからどのようにスポーツと付き合っていけばよいのか、人間にとっての身体運動の意味、スポーツはどうあるべきなのかといった問いも同時に含まれている。

 私たちがそうした問いについて、人と対話したいのは、自分の意見に対する応答が欲しいからである。読書は、著者との対話であるといわれる。とはいえ、本当に著者から応答がくるわけではない。自分の解釈や考えが真っ向から否定されるわけでもない。私たちが書き物をする機会は少ないだろう。自分の書き物に応答がくることなど、大学を卒業したらほとんどないのではないか。その点、対話では、自分の発言にすぐに応答が返ってくる。賛成してくれる場合も、反対される場合もあるだろう。よく分からないと言って、質問される時もある。自分の答えとは異なった答えを出してくる人もいるだろう。場合によっては、多くの人が「どう答えてよいか分からない」と、無反応になる時もある。そもそも自分の問いかけや意見に関心を持ってもらえない時もある。しかし、そのどの反応でも自分には貴重である。当然と思っていた考えが、案外他人に共有されておらず、相手には自分と異なった経験と理由とに基づいた意見がある。様々な反応をもらうにつけ、自分の考えをより広い視野の下で捉えることができるし、応答を繰り返すうちに、曖昧だった考えが明確になるし、自分の暗黙の前提に気付かされることもしばしばである。こうしたやりとりは、相手が子どもであっても大人の場合と同じように生まれてくる。

 対話では、私たちはただ単に応答が欲しいのではなく、生身の人間として自分に相対してくれることを求めている。近年、AI(人工知能)の発展が取り上げられるが、AIには対話はできない。対話では、相手に同意したり、納得して意見を変えてみたりすることがある。AI同士は、同じ結果を出すことはあっても、互いに同意することなどない。AIには生命がなく、個体として存在していない。対話は、生きた者同士によってしか成り立たない。生命ではないAIは、他者の意見に賛成することも、反対することもあり得ない。何かに賛成することや反対することは、最終的には生きることにつながる生命の活動の一環だからである。

 したがって、対話では、参加者はそれぞれ一人の人間として語り、聞かなければならない。何かの役職上の立場に囚われながら話し合いをするのでは、本当に対話したことにはならない。一人の人間として相手に向かい合うことによって、初めて相手を理解でき、相手に応答することができる。実は、対話を難しいと感じる人は、ファシリテーションの様々な技術を持っていないからではなく、一人の人間として相手の前に立つことが難しいからである。

 地位や立場、役職は、一定の組織や社会の中でしか意味を持たない。ほとんどの人類は、あなたのそうした属性に無関係であり、関心もない。子どもは典型的にそういう人たちである。子どもは、部外者であり、異邦人であり、異文化の者であり、つまり、人間そのものである。あなたを一人の人間としてしか見ていない人を相手にして、あなたは何を語るだろうか。自分の役割や立場を離れて意見を持つこと、自分の考えを相手に投げかけてみること、相手が年下だろうと、出された一つの意見をそれとして検討すること、こうしたことに最初は難しさを感じる人もいるかもしれない。対話では誰もが子どものような立場にならなければならないのである。対話がうまくできるかどうかは、ここにかかっている。

教育における対話の価値

 それでは、対話は、教育においてどのような価値を持つのだろうか。

 現代の学校では、児童生徒にどのように生きるべきかを教えることはしない。ここには次のような教育観があるだろう。すなわち、自分の人生の在り方は自分で選ぶものであり、目的や価値は他人から指示され得るものではない。ましてや、教育を通して、国家・社会から押し付けられるべきものではない。学校で子どもに教えるべきは、目的や価値に奉仕する手段としての知識であり技術だけである、こういう考えである。道徳教育の教科化に対する抵抗感も、こうした考えからきていると思われる。

 目的や価値の選好を個人に委ねる点において、この考えは、リベラルな教育観である。それは、一様な価値観を強制しないという点において、民主主義にふさわしい教育観と言えるだろう。しかし私は、この教育の在り方は、ある意味で不十分だと考えている。

 第一に、学校では、子どもが、自分自身の目的や価値観を陶冶する機会に乏しいことである。学校での勉強の仕方では、別々の教科から学んでから総合するという順序が想定されている。しかし、様々な知識や技術を自分の人生に役立てていくには、まとまりのある世界観や人生観、価値観が必要とされる。それらを得るのに、子どもの周囲にいる大人たちからの偶然の影響だけに任せていたのでは、心許ない。周囲の大人が偏った考えを持っているかもしれない。児童生徒同士、あるいは、教員と地域の大人と対話する機会を設けて、子どもに自分自身の在り方や、将来像、自分なりの目的や価値についてじっくり考える機会を与えるべきだろう。大学に入ったはいいが、何をしたらよいか方向性が見いだせず、不調に陥ってしまう学生を目にすることがあまりに多い。

 もう一つは、公共的世界の在り方について、やはり児童生徒同士で対話する機会が必要とされることである。今後の社会の在り方、環境問題、科学技術の在り方、社会格差、国際化と多様性、国際紛争への向かい方などの問題を、小学生から高校生までの間で、できるだけ多く話し合う機会を持った方がよいだろう。大学に進学しない人たちが、そうした機会を持たずに社会に出ることは、きわめて深刻な問題である。公共的世界への参加意識や政治参加への意欲も、高卒と大卒で著しい格差がついてしまっているからである。これは民主主義にとって非常に問題である。市民の誰にも共通の問題こそが、哲学対話のテーマとしてふさわしい。対話は、一見すると縁遠い公共的世界を、自分に身近な問題へと翻訳してくれるからである。これが、対話が教育にとって不可欠であると考える理由である。

 

 

Profile
河野 哲也 こうの・てつや
 立教大学文学部・教授、博士(哲学)、慶應義塾大学。日本哲学会理事、日本学術会議連携委員。専門は、現代哲学と倫理学、近年は環境問題を扱った哲学を展開している。「こども哲学」を、未就学児から高校生まで対象として、全国の教育機関や図書館で実践している。著作『人は語り続けるとき、考えていない:対話と思考の哲学』(岩波書店、2019)、『じぶんで考え じぶんで話せる:こどもを育てる哲学レッスン・増補版』(河出書房新社、2021)など。

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