「主体的・対話的で深い学び」と各教科等における「見方・考え方」「どのように学ぶか」 奈須正裕(上智大学教授 )

トピック教育課題

2019.05.16

『新教育課程ライブラリⅡ』Vol.1 2017年1月

資質・能力への学力論の拡張が教育方法への言及を必然とした

 答申第7章「どのように学ぶか」は、教育方法について述べている。教育方法であれば「どのように教えるか」としてもよさそうであるが、今回の答申は基本的に学び手である子供の立場に立って書かれており、ここでもそれが踏襲されている。加えて、単に量的に学べばよいのではなく、学びの質が重要であるとの一貫した思想の表明でもあろう。

 教育課程を論じるにあたり教育方法に言及すること自体は、ラルフ・タイラーが1949年の古典的著作において「カリキュラム編成は目標、内容の組織、教授と学習の方法、評価の4要素をもつ」と述べているように、ごく自然なことではある。しかし、文部科学省がこれほど明確に教育方法に言及することに、驚きを禁じ得ない向きもあるだろう。

 というのも、昭和33年の学習指導要領改訂以降、教育内容については法的拘束力を伴う形で国家が明確な基準を示す一方、それを学ばせるのにどのような教育方法を用いるかについては必要最小限の記述に留められてきた。学習指導要領が法的拘束力を持つ以上、この措置は極めて妥当であるが、このような経緯もあり、我が国では教育内容は国家が定め、教育方法は現場に委ねられるとの理解が広く定着してきたのである。

 ではなぜ今回、教育方法に踏み込むのか。それは、学力論が個別の知識・技能を中心としたものから、資質・能力へと拡張されたからである。個別の知識を習得させるのであれば、極端な話、教え込みでも何とかなる。しかし、未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」、学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」、さらに「知識・技能」についても「生きて働く」質を目指すとなると、ただ列挙された教育内容を漫然と教授するのでは不十分であろう。しかも、その資質・能力は「個々の内容事項を指導することによって」育む。つまり、教育方法のあり方が資質・能力育成の可否を左右するのであり、ここに今回、教育方法に踏み込まざるを得ない必然性があった。

「授業研究」を基盤とした教育方法の不断の見直し

 とはいえ、学習指導要領が引き続き法的拘束力を持つ以上、その記述並びに運用については慎重を期すことが肝要である。この点について答申は「指導方法を焦点の一つとすることについては、注意すべき点も指摘されてきた。つまり、育成を目指す資質・能力を総合的に育むという意義を踏まえた積極的な取組の重要性が指摘される一方で、指導法を一定の型にはめ、教育の質の改善のための取組が、狭い意味での授業の方法や技術の改善に終始するのではないかといった懸念などである」と記している。

 したがって、「どのように学ぶか」を巡る議論は特定の型に収斂するものではない。資質・能力の育成をもたらす学びの質としての「主体的・対話的で深い学び」こそが本質であり、「そうした学びを実現する具体的な学習・指導方法は限りなく存在し得る」のである。

 注目すべきは、それを真摯に希求する現場の「創意工夫に基づく指導方法の不断の見直し」が、我が国の実践的伝統であり「国際的にも高い評価を受けて」いる「授業研究」によって効果的に成し遂げられるとの見解が示されている点であろう。教育方法の刷新とは行政や学者からのトップダウンではなく、「教員がお互いの授業を検討しながら学び合い、改善していく」授業研究のような場を基盤とし、教員一人一人を主体とした、絶えざる日常的営為として進められていくべきなのである。そこでは、目の前の子供の姿を共通の拠り所とし、個々の教師の納得をもって特定の方法や技術が採用されていくことが重要である。

 また、そのような日常を通してこそ、授業づくりなり教育方法開発を自律的で創造的に展開できる教員並びに教員集団の力量が培われていく。近年、学力向上の美名の下、地方行政が特定の型としての教育方法の運用を管内の学校に強く求める動きが散見されるが、長期的に見て現場の力を減殺する危険性をはらんでおり、憂慮される事態と言えよう。

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特集 中教審答申を読む(1)─改訂の基本的方向

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