「こころ」を詠む [第1回] わが机上飢ゑたる蟻がいつも通る
トピック教育課題
2022.09.01
「こころ」を詠む[第1回]
わが机上飢ゑたる蟻がいつも通る
克弘
秘密の質問
「秘密の質問」をご存じでしょうか。ネット上のセキュリティの一種で、パスワード代わりに使われるものです。私的なページに入ろうとすると、「あなたのペットの名前は?」とか「はじめての先生の名前は?」などと質問が表示され、あらかじめ登録しておいた答えを打ち込むと、許可されるわけです。最近、この「秘密の質問」をめぐって、私の上に大事件が起こりました。
学生時代からずっと使っていたフリーメールが、不正アクセスがあったとのことで、一時的に使用不可にされてしまいました。再び使えるようにするためには、「秘密の質問」を突破しなくてはなりません。画面に表示された、「あなたの嫌いな食べ物は?」という文言を見て、キーボードを打つ手がはたと止まりました。嫌いな食べ物? 自慢ではありませんが、私にそんなものはありません。この「秘密の質問」を設定した大学生の頃の私は、いったい何を考えていたのでしょう。「母親の旧姓は?」という質問にしておけば、何なく突破できたものを、よりによってこんな曖昧な質問を選ぶとは!
まずは、ちょっと苦手である「鶏皮」と打ち込んでみましたが、はじかれてしまいます。「とりかわ」「トリカワ」でもだめ。なら、味は好きなのだけど、アレルギーがあって食べられない「えび」を打ち込んでみますが、これも受け付けません。俳人だから気取って「海老」と入れたかなと思って試してみましたが、ブッブー。さあ、困った。もうこれ以上、自分が苦手とする食べ物が思いつかないのです。
やむなく、検索サイトで「嫌いな食べもの」を調べてみます。世間のみなさんの大勢が嫌うものを、試しに入れてみようという作戦です。「パクチー」「納豆」「ピーマン」などなど……ランキング上位から、ひとつひとつ、打ち込んでいきます。打ち込める言葉は、一日十件に限られます。それ以上は、機械が自動的に打ち込んでいると疑われて、打ち込みができないのです。起床、歯磨き、食事、仕事などの毎日のルーチンに、「嫌いな食べ物打ち込み」が加わりました。
大学生の自分と心で対話
頑として扉が開かない日々が過ぎていくうち、私は過去の自分を呼び出すことを、自然と行うようになっていました。「秘密の質問」を登録した頃の、大学生の自分と、心の中で対話を始めたのです。
上京した当時の自分は、とにかく尖っていました。映画サークルの扉を叩いたのはよいのですが、先輩に「どんな映画が好きなの?」と聞かれて、誰も知らないようなカルト映画の名前を答えたところ、その先輩が「そうそう、いいよね、あの映画!」と共感してくれたのが気に入らなくて、そのまま辞めてしまった、なんてことも。自分だけ知っていることがひそかに自慢だったので、プライドを傷つけられたと感じたのですね。なんという面倒くさいやつ!
「なあ、おまえ、いったいなんて打ち込んだんだ?」
心の中で、四十歳の私は、二十歳の私の肩に、優しく手をまわします。本当は、馬鹿なあの頃の自分をひっぱたいてやりたい気分ですが、四十歳の私はいちおう大人なので、そんなことはしません。すると、尖っていた二十歳の私は、
「ふーん、そんなに教えてほしい?」と、四十歳の私の腕の下からするりと抜け出すと、見下すような視線を向けてきます。
「四十歳になって、もう俺の苦しみなんて忘れてしまったんだな。薄情な奴だよな、音痴のくせに俳句研究会のみんなとカラオケにいって、やっぱり恥ずかしくて歌えなくて、席の端っこでひとりボソボソ食べていたオニオンリング、あのマズさも忘れてしまうなんて……」
「あっ、そうか、オニオンリングか! そうなんだな?」
四十歳の私は、二十歳の私の肩をつかみ、激しく揺さぶります。
「やってみればいいんじゃね?」
にやついている二十歳の私をかきけして、パソコンの画面に向き合い、「オニオンリング」と打ち込み……「答えがまちがっています」のメッセージが表示される。こんなことの繰り返しでした。
結局、私は私の「嫌いな食べ物」を突き止めることができず、またサイト自体が「秘密の質問」をセキュリティに採用するのをやめてしまったので、長年使っていた私のメールは、永遠に使えなくなってしまいました。しかし、思いがけず、「秘密の質問」は、過去の自分と向き合う機会を与えてくれました。その結果、この二十年の歳月を、肯定できるようになったのです。「嫌い」にあふれていたあの頃の自分が、「好き」といえるものを、増やすことができたとわかったのですから。「秘密の質問」よ、ありがとう!
……とは、まあ、ならないけれど。これ、廃止したほうが、よくないですか?
Profile
髙柳克弘 たかやなぎ・かつひろ
俳人・読売新聞朝刊「KODOMO俳句」選者
1980年静岡県浜松市生まれ。早稲田大学教育学研究科博士前期課程修了。専門は芭蕉の発句表現。2002年、俳句結社「鷹」に入会、藤田湘子に師事。2004年、第19回俳句研究賞受賞。2008年、『凛然たる青春』(富士見書房)により第22回俳人協会評論新人賞受賞。2009年、第一句集『未踏(ふらんす堂)により第1回田中裕明賞受賞。2016年、第二句集『寒林』(ふらんす堂)刊行。現在、「鷹」編集長。早稲田大学講師。新刊に評論集『究極の俳句』(中公選書)、児童小説『そらのことばが降ってくる 保健室の俳句会』(ポプラ社)、第三句集『涼しき無』(ふらんす堂)。2022年度Eテレ「NHK俳句」選者。中日俳壇選者。