続・校長室のカリキュラムマネジメント
続・校長室のカリキュラムマネジメント[第11回]言葉と仕事に向き合う
学校マネジメント
2021.02.10
続・校長室のカリキュラムマネジメント[第11回]言葉と仕事に向き合う
(『学校教育・実践ライブラリ』Vol.11 2020年3月)
東京学芸大学准教授
末松裕基
前回は言葉や読書について考えましたが、今回はさらに言葉と仕事にどう向き合うかを考えてみたいと思います。
学校経営は簡単な仕事ではありませんので、できるだけ効率的に、要領よく仕事をしたいと思うのは当然のことです。
ですが、簡単ではない仕事ゆえに、しぶとくそのあり方を丁寧に考えていく必要がありますし、仕事に向き合う上では修行とも言えるような鍛錬も欠かせません。
仕事を邪魔してくれる要素
作家の多和田葉子さんは、言葉を専門にして仕事をしています。日本語にとどまらず、ドイツ語でも小説を書いており、とてもおもしろい言葉との向き合い方をしています。
彼女は自らの言葉と仕事との向き合い方を論じた著書のなかで、とても考えさせられる問題提起をしています。普段の自らの仕事の環境を振り返るなかで、彼女は次のように述べています。
「絵の具や紙や筆は、単なる道具として芸術に貢献してきたわけでなく、芸術家の思いのままになってたまるかと反抗しながら芸術史をともにつくってきた、と考えると、コンピュータの『物』としての頑固さ、不器用さ、欠点などを上手く取り入れなければ、どんなに便利でもコンピュータは道具としての役割を果たさないことになる。」
(多和田葉子『言葉と歩く日記』2013年、岩波書店、19頁)
つまり、仕事をするうえでは、便利さがかえって、仕事の質を下げたり、深みのないものにしたりする可能性があるということです。端的に言うと、手段であるはずのものが、目的化してしまうということです。
同じような指摘は、小説家の西村賢太さんによってもなされています(「底翳の眼」『群像』2020年2月号、講談社)。
彼も言葉を仕事としているのですが、いまだに原稿は手書きにこだわっているそうです。そのため、漢字の変換をパソコンが行ってくれるわけではないので、はたから見ると尋常ではないくらい自分は辞書を引いていると思うと述べています。パソコンだと自動化される変換を意図的に排除することで、言葉に真摯に向き合い、結果的に彼の独特の文体が生まれているのだと思います。
先ほどの多和田さんの話に戻ると、彼女の知人で絵を描く職業をしている人が、仕事でパソコンを使い始めたそうです。その知人が言うには、パソコンを使い始めたことで、「色を補ったり筆を洗ったり鉛筆を削ったりする必要がなくなったので、一息ついたり、一歩立ち止まったりすることがなくなり疲れる」そうです。
「コンピュータは休みなく人間の注意力をひきつけ、エネルギーを吸い取り続ける。友達がくだらない用で電話してきたりすると、仕事を中断しなければならないのでとても嬉しい」と言うそうです。
多和田さんはこのような知人のエピソードに触れながら、次のように論じます。
「つまり、仕事にとって重要なのは、仕事を邪魔してくれる要素だということになる。
わたしがこの日記を鉛筆で書くことにしたのも、鉛筆を削る時間が懐かしくなったからかもしれない。芯の柔らかい鉛筆が好きなので、削ってばかりいる。ドイツ製の鉛筆削りを使うこともあるし、レトロショップで買った日本製のボンナイフを使うこともある。」
わたしもこの連載原稿はできるだけ手書きで原稿用紙に書くようにしています。ただ毎回は難しいこともあるので、その場合でも、パソコンソフトの設定を、いまでは慣れない縦書きの原稿用紙の設定にして使ったりしています(慣れないですし、横書きと違ってうまく変換がなされなかったり面倒ですし、提出する際には横書きにし直すのでひと手間かかりますが)。そして、もちろんのこと、何度もプリントアウトをして、朱を入れて推敲をし、何度も書き直して打ち直して仕上げていきます。
言葉のなかに育つ
前回も取り上げた詩人の長田弘さんは次のように述べます。
「人間が言葉をつくるのではありません。言葉のなかに生まれて、言葉のなかに育ってゆくのが、人間です。……人間は言葉のなかに生まれてきて、言葉によって育ってゆくのだということに、みずからよくよく思いをひそめないと、人間はとんでもない勘違いをすることがすくなくありません。そのことに自覚的でないと誤るのです。物はゆたかになり、生活はゆたかになり、暮らしぶりも落ち着いてきて、ずいぶん不自由もなくなった。にもかかわらず、たった一つ、今の日本でゆたかでないものがあります。……言葉です。言葉がゆたかではありません。……言葉は平等なものだけれども、人と人を違えるのも言葉です。言葉をゆたかにできる人と乏しくしてしまう人とを、言葉は違えるからです。」
(『読書からはじまる』日本放送出版協会、2001年、67-68頁)
長田さんは亡くなりましたが、重たい言葉です。その言葉はずっと生きています。私たちに刻まれます。
最近、(電子辞書やインターネットではなく)辞書を手にしましたか。辞書はラテン語で「言葉の本」を意味します。つまり、知らない言葉を「引く」ためだけのものではなく、知っていると思っている言葉でも何度も何度も辞書で「読む」のです。そして、辞書にも人格があります。いくつかの辞書を手元に置いて、読み比べることも大切です(複数の人と話した方がおもしろく豊かですよね)。日本語で「辞書を引く」という表現がそもそも問題のある文化を表していますが、英語だと“consult a dictionary”(辞書と相談する)と訳します。みなさん普段、言葉を専門とする者として辞書と相談していますか。先日、ある古本屋の店員さんと店の奥にある見慣れない文学辞典についてしゃべっていると「これは座右の書です」とおしゃっていました。いい表現だなと思いました。辞書について興味をもった方は『辞書になった男』(佐々木健一著、文春文庫、2016年)もオススメです。
Profile
末松裕基(すえまつ・ひろき)
専門は学校経営学。日本の学校経営改革、スクールリーダー育成をイギリスとの比較から研究している。編著書に『現代の学校を読み解く―学校の現在地と教育の未来』(春風社、2016)、『教育経営論』(学文社、2017)、共編著書に『未来をつかむ学級経営―学級のリアル・ロマン・キボウ』(学文社、2016)等。