interview 挑む 〜チャレンジャーの目線〜 株式会社レバンガ北海道 代表取締役社長 折茂武彦氏
『ライブラリ』シリーズ/特集ダイジェスト
2022.07.04
目次
interview 挑む 〜チャレンジャーの目線〜
株式会社レバンガ北海道 代表取締役社長
折茂武彦氏
(『新教育ライブラリ Premier II』Vol.6 2022年3月)
まずは、行動 動くことでしか未来は変えられない
“北海道から明日のガンバレを”をスローガンに掲げる北海道のプロバスケットボールチーム、レバンガ北海道。チーム運営会社の代表・折茂武彦氏は、レバンガ北海道の選手として活躍しながら経営を担っていたという異色の経歴の持ち主だ。日本一と称された正確なスリーポイントシュート、現役通算10238得点という前人未踏の記録……。日本バスケットボール界のレジェンドと呼ばれた彼の強さは圧倒的だ。かつては勝ちにこだわるプレースタイルを貫き、自分のためにバスケットボールをしていたという。そんな彼が北海道のために一念発起し、北海道の地で闘い続ける理由とは──。その想いに迫ってみたい。
北海道にプロバスケットボールチームを残したい ■選手と経営者、二足のわらじ
2007年、折茂氏はトヨタ自動車(現・アルバルク東京)から、レラカムイ北海道(当時)へと移籍した。トヨタ自動車を4回日本一へと導いた中心選手、日本代表としても活躍した“レジェンド”の移籍は、移籍しないことが常識だった当時の日本バスケットボール界において、センセーショナルなことだった。
北海道に移籍して4年後の2011年、運営会社の経営破綻によって、チームは消滅の危機を迎える。折茂氏は、北海道にプロバスケットボールチームを残すべく、選手としてコートに立ちながら、レバンガ北海道を創設する。
──選手と経営者を兼任してまで北海道にチームを残そうと考えた理由は。
応援して支えてくれて、自分を必要としてくれた北海道の人たちのために、自分が返せるものって何だろうと考えたときに、北海道にチームを残して、バスケットボールを通して恩返しをすることしかないと思ったからです。
他の誰かが動くだろうと思いながら、時間ばかりが過ぎていき、「これ、自分が行動しないと、北海道からプロバスケットボールチームがなくなるな」と思い、決心しました。これだけ応援してもらっているチームをなくすわけにはいかない、チームをなくしたら、バスケットボールが地域からなくなってしまう。そう思いました。
──そもそも、北海道のチームに移籍を決めた理由は。
一番の決め手は、非常に熱心に誘ってもらったことです。声をかけてもらったとき、僕は36歳でした。当時、バスケットボールの世界では30歳くらいで選手を引退するのが常識でした。トヨタ自動車に在籍してはいたものの、スターティングメンバーから外され、試合に出ている時間も半分ほどになり「自分は必要とされていないんじゃないか」と思い始めている時期に、北海道のチームに声をかけてもらったんです。
同じ頃、世界選手権の日本代表に選ばれて、スターティングメンバーとして全試合に出場して、全試合で二桁得点を取りました。自分はまだ第一線で戦える。そして、北海道という自分を必要としてくれている場所がある。ならば、今いる場所にとどまる必要はないと思い、移籍を決めました。
──移籍して感じたことは。
企業スポーツチームとプロチームの違いです。一番違ったのは、ファンの想いや誰のためにバスケットボールをするのかという部分ですね。
企業スポーツは、地域密着ではなく、ホームやアウェイという概念もなければ、地域貢献という考えもない。選手は成績によって年俸が決まるので、自分のキャリアのため、数字を残すために頑張ります。僕も、トヨタ自動車に在籍していた頃は、誰かのために頑張るという発想はありませんでした。
一方、プロチームは地域の方々に応援してもらって成り立っているので、その地域のために何ができるのかを考えます。北海道に来た当初、それが理解できず、メディアの取材を受けたり、イベントに出たりすることも「自分はバスケをするために来たんだから、バスケで結果出せばいいんでしょ?」「なんで、そんな面倒なことしなきゃいけないの?」と思っていました。
でも、ホーム開幕戦で超満員、大歓声に包まれる会場を見て、負けても応援してくれるファンの想いを知ったとき、北海道でずっとプレーしたいと思いましたし、北海道のために何か恩返しをしたいと思いました。バスケットボールをすることだけがプロじゃないと教えてくれたのが北海道です。
──実際に選手と経営者を兼任しての苦労は。
最初に直面したのは、ビジネスを成立させる難しさです。それまでは、選手としてプレーしてきて、ビジネスという感覚がありませんでした。そして選手時代は、自分のことだけに責任を持てばよかったのが、経営者になったことで、社員や選手に対する責任も全部自分が背負わなければいけなくなったことが非常に大きかったです。
それから、スケジュール的な忙しさもありました。選手としての練習をして、その後に着替えて営業に行っていました。営業では、スポンサーのところに挨拶に行ったり、支援をお願いしに行ったりしましたが、経営破綻で消滅しかけた前のチームのイメージが強く、なかなか受け入れてもらえず、苦労しました。
選手と経営者という二つの全く異なる立場を兼任する苦労もありましたね。
──その苦労とは、具体的に。
経営者と選手は、いわば評価する側と評価される側という真逆の関係性です。評価をして何かを決める側の人間が、選手としてコートに立っている状態なわけです。「折茂さんに嫌われたらクビになる」とか、変な気の遣い方をして選手が萎縮してしまったり、選手との距離感がうまく保てなくなったりすることだけは避けたかった。だから、「選手である以上、選手評価はしない」と自分の中でルールを決めて、当時いた選手にもそういう話をしました。
──困難な道を選んでしまったと後悔したことは。
困難な道を選んでしまったという思いはありませんでした。困難な道は避けるのが普通ですが、僕は無難な道を選ぶことはしたくないんです。無難な道を選べば、それ以下はないかもしれないけど、それ以上も絶対にないと思っているから。
未来は誰にも分からないじゃないですか。だったら、リスクを恐れて無難な道を選ぶのではなく、何かを変えたいのなら、自分で行動を起こしてチャレンジすべきだと思っています。
闘う場所をコートの外へ ■北海道、バスケットボールのために何ができるか
2019-20シーズン、27年の選手生活に幕を下ろすことを決めた。選手生活最後の場所はもちろん、自らが守り切った“レバンガ北海道”だ。選手を引退しても、闘う場所をコートの外へ移しただけ。経営者としての奮闘は続く。
──経営に専念して変わったことは。
一番は、もう練習しなくていいこと(笑)。勝負事の世界なので、選手時代はその日の勝ち負けに対するプレッシャーが毎日ありました。今も経営者として別のプレッシャーはありますが。
一方で、バスケットボールに対する想いは変わらなかったですね。
──その変わらなかった想いとは。
バスケットボールを通して、バスケットボール界や自分を支えてくれた人、必要としてくれた北海道に恩返しをしたいという想いです。自分は、バスケットボールでここまできました。周りの人にもたくさん支えてもらいました。だから、もう選手ではないけれど、バスケットボールを通して、今までとは何か違う形で恩返しをしたいと思っています。
──その想いから具体的に行動していることは。
バスケットボール界への恩返しという意味では、若い世代の育成です。北海道内の私立大学附属高校と協定を結んで、一貫した育成ができるよう制度を整えたところです。
北海道への恩返しという意味では、各自治体の教育委員会のご協力のもと、小学校に行って体育の授業で一緒にバスケットボールをしたり、一緒に給食も食べていろいろな話をしたり、バスケットボールを通した子供たちとのふれあいを行っています。教育委員会と連携することによって、我々を知ってもらうきっかけにもなるし、子供たちの運動意欲をあげることにもつながるじゃないですか。大学や行政も含めて連携して、我々が地域のためにできることをやっていきたいと思います。
──選手としての経験を経営に活かせた場面は。
選手が身を置く環境については、選手時代の経験を活かして少しずつ改革を行っています。例えば、遠征のときの宿泊先や移動手段は、より選手が試合でパフォーマンスを発揮できるように気を付けて選びます。また、これまでは公式練習場がなく、練習場所を求めて転々としていましたが、公式練習場をもちました。常に同じ場所で練習ができることは、選手にとって身体的負担も減り、安定したパフォーマンス発揮につながると思っています。
──経営者として、リーダーとして大切にしていることは。
部下、仲間に対して、「必要としている」と伝えることです。僕は、北海道に来て、必要とされていると思えたから頑張れたし、「人って、必要とされなかったら頑張れないんだ」ということを、身をもって経験しました。
どういう形で伝えるかは、何でもいいと思うんです。例えば、1日1回は話しかけるとか。何てことない話でも、話しかけてもらえたら必要とされていると思えるじゃないですか。
リーダーに必要な気質って、そういう簡単なことだと思っています。何か特別なことができることがリーダーの条件じゃない。常に思いやりをもって、「必要としている」と伝えるためのコミュニケーションがどれだけ取れるかだと、僕はずっと思っています。
“バスケットボールが溢れる社会”に ■経営者としての行動力
──座右の銘は。
「やらないよりできない方が良い」です。やってみてダメだったら、諦めるか、できる方法を考えるかという二つの選択肢が生まれるじゃないですか。でも、やってもいないのにできないと言ってしまったら、諦める一択になってしまう。何をするにも、まずはやってみるということを大切にしています。
──今後の夢は。
まずはリーグで優勝して日本一になることです。今までは、弱くてもいいから、経営を安定させて、チームを存続させることが第一でした。でもこれからは、強いチーム、勝てるチームになって、北海道の人たちに夢や希望を与えて、子供たちに「目指したい、入りたい」と思ってもらえるようなチームにならなければと思っています。
我々はビッグチームではないので、お金をかけていい選手を集めることはできません。でも、選手の育成とか意識改革はできる。日本一という目標を掲げて「日本一になるにはどんな練習が必要?」「日本一のチームってどんなチーム?」と、選手、社員全員が目標にコミットすることで、着実に強いチームになっていると思います。コロナ禍で経営的に不確定要素が多い中、チーム強化に舵を切ることは、ギャンブルかもしれないけど、まずは行動を起こさないと変わりませんから。
──折茂さんご自身の夢は。
“バスケットボールが溢れる社会”を作ることです。チームを日本一にすることもそのための手段の一つです。バスケットボールが溢れる社会にするためには、やはり、普及・育成に尽きると思います。今、日本バスケットボール界は、Bリーグというプロリーグが2016年にスタートして、いい方向に動き始めていると思います。でも、競技人口が減っているというのも事実です。U15、U18(15歳以下、18歳以下で構成されるチーム)を各クラブでもって育成に取り組んでいますが、その世代よりも若い世代の育成もしていきたいと思っています。
自分がおじいちゃんになって、散歩したとき、公園に当たり前にバスケットボールリングがあって、そこで子供も大人も一緒になってバスケットボールで遊んでいる光景があったら、それが僕のやってきたことの意味だと思います。
(取材/編集部 兼子智帆)
Profile
折茂武彦 おりも・たけひこ
1970年埼玉県出身。Bリーグ1部(B1)に属する、レバンガ北海道代表取締役社長。2019−20シーズンまで27年間、長きにわたり中心選手として活躍し引退。ポジションはシューティングガード。1993年にトヨタ自動車(現・アルバルク東京)でキャリアをスタートさせ、2007年にレラカムイ北海道へ移籍、その後、経営難によりチームが消滅すると、北海道にプロバスケットボールチームを残し続けるため、2011年にレバンガ北海道を創設し、選手兼代表を務めた。