異見・先見 日本の教育 新たな「当たり前」に向かって
トピック教育課題
2023.07.04
異見・先見 日本の教育
新たな「当たり前」に向かって
和太鼓奏者・パーカッショニスト・社会福祉士
片岡亮太
あなたにとっての「当たり前」の生活
私がこの記事で、あなたに伝えたいことを実感を持って理解していただくために、まずちょっとした実験をしてみたい。あなたが今日、この文章を目にするまでの間、どんな行動をとったか、思い出してほしい。一日のどの時点でこの本を手にされているかにもよるが、ごく日常的な時間を過ごした人、思いがけないハプニングで忙しかった人など、様々であろう。
さて、そんなあなたが明日目覚めたら、全盲になっていたとする。そうなった場合あなたは、今日と同じような日を送ることができるだろうか? 視力を使わずして、目が見えている時のような生活を手にする手段を思い描けるだろうか? あるいは、あなたと同じような日常を生き、社会の中で活動している視覚障害者の姿を具体的に想像できるだろうか?
これは、私の講演の中で、度々聴衆に投げかける質問である。弱視で生まれ、10歳の時に失明をした全盲の視覚障害者である私は、広く社会に思いを伝えるため、和太鼓を中心とした打楽器の演奏とともに、障害当事者でもある社会福祉士として言葉を発信する道を選び活動してきた。近年は、私の発言が単に一障害者の経験談にとどまらぬよう、より社会性を持ったメッセージを届けるため、2011年に単身渡米し、ニューヨークに一年間住んで、「障害学」という、障害にまつわるイデオロギーや社会構造、用語や価値観の変遷などについて科学する学問に触れたことで得られた見地と、日本とアメリカでの生活の比較などをもとに、差別や偏見、多様性等についての考えや思いを語っている。
「当たり前」と「障害」の距離
さて、そのような歩みの中で生まれたのが先ほどの問いなのだが、あなたには「Yes」と答えられたものがあっただろうか。私はこれまで、大人を対象としたものはもちろん、小・中学校や高校での舞台の中でも同じことを聞いている。総数にすればおそらく優に数万人を数えるだろう。けれど、幅広い世代の誰一人として「Yes」と答えてくれたことはない。余談だが、私の場合、「Yesの人は手を挙げて」と聞いても、その手を目視できないので、代わりに拍手をしてもらっている。「明日全盲になっても、変わらない日常を送れるという人は拍手を」と語り掛けると、必ず、耳が痛くなるほどの静寂が会場に満ちる。それは、自らの日常と、「障害者」の日常との距離に目を向け、ハッとすることで生じる静けさなのだろう。
だが、あなたを含めた全ての人に、明日全盲になる可能性はある。2009年に日本眼科医会が、加齢による失明を含め、2007年時点で、日本国内には、約18万8千人の全盲の人がいると発表している。日本の人口を1億2千万人程度とすれば、だいたい650人に一人の割合だ。おそらく現在も似たような状況だろう。先天的、あるいは後天的理由によって視力を持たない人がこれだけいる中、あなたがその一人にならない根拠なんて存在しないはずだ。
近年はメディアや、学校の授業等の影響で、障害者についての認識は以前より格段に上がっている。一人で歩く私に、小・中学生が、誘導を申し出てくれることも多い。しかし、私の講演での問いに物音ひとつ発生しないという事実は、様々な知識や情報が、あくまでも「他人事」にとどまっていることと、障害と共に生きる人生を我が事として考えた時、多くの人が日常を手放さなければいけないと考えていることを浮き彫りにする。それで良いのだろうか? たとえ全盲になっても、工夫をし、種々の支援機器や社会資源を利用すれば、だれでも「当たり前」の生活を送れる。皆で当然のようにそんな前提に立てる社会こそが、多様な人々が平等な環境で共に生きられる、「ダイバーシティ」と「インクルージョン」が実現した社会なのではないかと私は思う。
私の「当たり前」な日常
ではここで私の日常をご紹介しよう。朝7時に起床、着替えの後洗面をし、妻が用意してくれた朝ごはんを二人で食べ、食後は、スマホ、私の場合はiPhoneなので、iPhone全機種に購入時から搭載されている、音声読み上げ機能「ボイス・オーバー」を用いてSNSやニュースサイト、メールのチェックを行い、歯磨きを済ませる。8時頃、外出する妻を見送り、YoutubeやPodcastをワイヤレスのイヤフォンで視聴しつつ、お風呂とトイレの掃除をしてから、ゴミを集めて町内の回収所へ持っていく(このタイミングに洗濯機を回し、洗濯物を干したり、掃除機をかける場合もある)。そして、庭で、愛犬のブラッシングと歯磨きを終えたら、10時前に自宅のすぐそばにある実家へ行き、自室で、事務作業やトレーニング、稽古を開始。ちなみに今は、パソコンにインストールした音声読み上げソフトを用い、マウスの代わりに、文字通り「ブラインドタッチ」でキーボードを使って、Windowsを操作し、打ち込んだ文字と変換した漢字をリアルタイムで読み上げてくれる音声を聞きながらこの文章を書いている。舞台や指導がある日ならば、最寄り駅まで妻の車で送ってもらい、そこからは白杖(はくじょう)を使って、駅員の方に誘導を頼んだり、場所によっては独力で歩いて目的地へ向かう。
いかがだろうか。行動するうえで必要な工夫やサポートはあるものの、やっていること自体は世間の平均とあまり変わらないのではないかと思う。現代はこういうことが可能なのだ。また、周知のとおり、日本の視覚障害者が企業勤め、教員等各種公務員、マッサージ業、弁護士、アスリート、音楽家、専業主夫・主婦等、幅広い職業に従事している現状において、私の生活は、視覚障害者としての平均からも外れてはいない。しかし一方で、私たち視覚障害者にとって命に係わる横断歩道の音響信号が、「うるさい」との理由で、夜間は音が出ないように設定されてしまったり、盲導犬同伴で飲食店に入店することを「迷惑」と断じられてしまうこと、視覚障害者のことを考慮していない商品や社会構造によって、多くの人の「当たり前」から取り残されてしまうことなど、障害があることで「不公平」な状況に追いやられてしまうことが日常茶飯事であることもまた事実。そういった現実を様々な角度からお伝えすることも私は大切にしている。
「出会う」こと、「共に過ごす」こと
ところで、「明日全盲になっても生活できますか?」という質問に、「大丈夫だと思う」と答えてくれた人が一人いる。私の妻だ。彼女は私が在米している時に出会ったミュージシャンで、共演を機に親しくなった。妻にとって私は生まれて初めての視覚障害者の友人。それゆえ彼女は、誘導の仕方や、全盲の人の生活術を、時間を重ねながら、一つずつ知っていった。「見える」ことが当たり前の妻と、「見えない」ことが当たり前の私の間では、現在もしばしば意見の衝突や見解の不一致は生じるが、それらすべてを「異文化コミュニケーション」と呼び、これまで「共に生きる」ための新たな視点をお互いに模索してきた。
そんな妻が今では、万が一自分が全盲になってもどうにかなると感じていることや、街中の点字ブロックの上に立ち止まったり荷物を置いている人の存在が自然と目に留まるようになったと伝えてくれることに、私は「出会う」ことの大切さを改めて学んだ。確かに、妻以外にも、目が見える友人の多くから、私と一緒にいると気づきが多いと言われることは少なくない。つまり、今日「ダイバーシティ」という言葉に総称される、社会を多角的、多面的に捉える視点を得るうえで、直接出会い、時間を共に過ごすことは、それだけ意味ある経験になり得るということなのだろう。思えば私自身の過去を振り返っても同様のことが言える。
「当たり前」が揺さぶられた経験
網膜剝離により突如全盲になった10歳の時、私は、何もできなくなったという思い込みにとらわれていた。ところが、一般の小学校から転校した盲学校(現・視覚特別支援学校)には、同じように全盲でありながら、学校中を走り回ったり、点字ですらすら本を読み、文章を書く同世代の子供が何人もいた。あの感動と驚きは今でも忘れられない。そして私も徐々にその仲間入りを果たしていった。また、同校には、視覚障害だけでなく、知的な障害を重複している子供も多く、とりわけ私の在校時には、重度の障害のある友人が多数いたのだが、当初私は、戸惑いのあまり、彼らを「気持ち悪い」と思っていた。奇声を上げたり、時に暴れたり、麻痺でうまく閉まらない口から、始終よだれをたらしたりしている同級生たちを、「友達」とはどうしても思えなかった。
心の奥底で拭いきれない嫌悪感を抱いていた私は、ある日、そんな同級生の一人が、一度も私の名前を自発的に呼んでくれたことがないことに気づく。いわゆる会話らしい言葉のやり取りは難しくとも、担任の先生たちの名前ははっきりと口にしているのになぜ? たどり着いた答えは、私の中にある彼らへの軽蔑だった。当時、視力のことで、見知らぬ他人から同情されたり、からかわれたりすると、悔しさのあまり涙が出るほどだったのに、私は同級生たちに、もっとひどい感情を向けている。そう気づき、反省した翌朝、私は、「片岡君」と呼んでもらえた。一般に「重度の知的障害者」とされる彼が、私の内面の変化を察知し、許し、受け入れてくれたという経験は、今でも私の宝物だ。そして、そんな日々が私を社会福祉士になる道へと導いてくれた。
大人になってからで言えば、2011年の渡米が最も印象深い。当時「障害学」を学んでいたコロンビア大学の大学院では、広い校舎の全教室の番号やトイレの男女の区別が、点字や立体文字で示されていた。視覚障害のある学生や教員が何人もおり、音声読み上げなどの設備が整ったパソコン室や、教科書を点字や電子データに変換したり、手話通訳の派遣をするなど、視覚や聴覚をはじめ、種々の障害のある学生に対応する専門のオフィスもあり、留学生も多かったあの大学院において私は、なんら特別な存在ではなかった。そんな環境下で学んだ、「インクルーシブ・エデュケーション」(統合教育)に関する授業の中で読んだ本に、「障害の有無、LGBTQ、肌の色や宗教、言語の違いなど、多様な子供が共に学ぶことがインクルーシブ・エデュケーション」と書かれており、アメリカではそこまで広く子供たちの多様性を捉えて、議論が展開されているのかと心打たれた。これらの経験によって、「当たり前」が揺るがされ、価値観の再構築、あるいは再発見と呼ぶべき機会を得られた私の歩みを多くの人と共有することは、私だからこそ果たせる役割の一つだと考えている。
新たな「当たり前」に向かって
さて、ここまでの話を踏まえ、あなたが働く学校やあなた自身の心には「ダイバーシティ」や「インクルージョン」と呼べる設備や心構え、知識は備わっているだろうか? 例えば、全盲の子供や教職員が共に過ごすことになったとして、その人が周囲と平等に学び、働ける環境はあるだろうか? 「Yes」なら素晴らしいことだが、「No」だったとしても、悲観しないでほしい。私が友人たちを差別していたことを自覚し、変われたのと同様、身近に、多様性を具現化できていない状況があることや、自分の中の誤解や偏見、無知を知ることなくして、ダイバーシティやインクルージョンの実現とは存在しえないと私は思う。バリアフリーやユニバーサルデザインの取り組みを探すように、障害者をはじめとするマイノリティにとって過ごしづらく、不公平な現実があることを皆で知ることが最初の一歩。その一助になり得るのが、「出会い」、「共に過ごす」ことではないだろうか。
もしもあなたに、障害をはじめ、一般にマイノリティとされる特徴を有する友人や家族がいないのであれば、一手段として、特別支援学校や障害者団体の協力を得て、障害のある人と、食事に行ったり、お酒を飲んだり、旅行へ行ったり、買い物に行ったり……、そういう何気ない行動を共にしてみてはいかがだろう。あなたの日常を、あなたとは異なる身体の特徴のある人たちと共に過ごすことは、社会に対する新たな視点を持つきっかけになるはずだ。そのような体験を経て、子供たちに、ダイバーシティやインクルージョンについて伝えられたなら、そこに宿るメッセージの重みは計り知れない。私にその気づきのお手伝いをさせていただけたら光栄だが、それが叶わずとも、あなたが暮らし、働く地域にも、障害がある人はいる。そういう人材とタッグを組み、あなたや子供たち、さらには社会の「当たり前」を見直す機会をぜひ作ってほしい。
そして、まさに今、私たちは、こういう学びを深める絶好の時を生きている。そう、2020年来のコロナ禍があったからだ。この3年間、私たちはウイルスそのものや、感染のリスク、ワクチンやマスク着用について、人それぞれに千差万別の考えがあることを知った。家族の中ですら、意見が一致しなかった人も少なくないだろう。世界中でたくさんの「当たり前」を手放し、時にぶつかり合い、混乱したり、途方にくれたりしながら、新しい生活や価値観にたどり着き、ここまで歩いてこられたこと。それは紛れもなく、私たちが新しい「当たり前」を発見し、構築できたということに他ならない。あなたと私は違う、だから理解し、認め合うことが必要。コロナ禍を生き抜くために私たちが否応なく身に付けることになった、そういう柔軟な視点や行動と、障害やジェンダー、多様な性に目を向け、必要な対応を検討、実施することとは遠いようでいて本質的には変わらないことだと私は思う。
多くの苦しさに耐えなければならなかったコロナ禍で得た学びと気づきを、「共生社会」という大きな花の開花に結び付けることができた時、この3年間の意味は変わる。私は、あなたと共にそんな未来に向かっていきたい。
Profile
片岡亮太 かたおか・りょうた
筑波大学附属視覚特別支援学校音楽科非常勤講師、静岡県立沼津視覚特別支援学校学校運営協議員。静岡県三島市出身。11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。2007年上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。同年よりプロ奏者としての活動を開始。2011年ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。2016年、今後の活躍が期待される若手視覚障害者に贈られる「第14回チャレンジ賞」(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、2019年、今後の活躍が期待される若手障害者に贈られる「第13回塙保己一(はなわ・ほきいち)賞奨励賞」(埼玉県主催)等受賞。