“ふるさと”と私 思い出のビーチハウス
トピック教育課題
2023.04.13
目次
“ふるさと”と私 思い出のビーチハウス
総合内科専門医・法務省矯正局医師
おおたわ史絵
東京の下町、葛飾区で生まれ育った。医大生時代にひとり暮らしをするまでそこで過ごした。
「へぇ、情緒がありそうね。映画の『寅さん』みたい」と言われるのだけれど、それがそうでもない。
下町のなかでも新しめの町なので、昔ながらの風情はなく、アジア系の人たちが行き来するような雰囲気。“下町”よりも“ダウンタウン”の呼び名が似合っていた。
パチンコ屋さんの大音量のジャラジャラが町のBGM。夕刻には繁華街のネオンが夜空を染めた。
学校帰りには、黒蝶ネクタイの客引きのおじさんが「よう、お嬢ちゃん。いま帰りかい?」
といつも声をかけてくれた。さながらお抱えの用心棒のよう。おかげで私は町で危ない目に遭ったことがない。
まぁありがたいと言えばそうなのだけれど、その環境とは正反対の爽やかな生活への憧れはたいそう強かった。
たとえばカリフォルニアの青い空! キーウェストのまっすぐに続くオーバーシーズハイウェイ! なんて素敵な世界なの? と、うっとりしながら海外ドラマに見入っていたのは、多感なミドルティーンの頃の甘酸っぱい思い出。
そんなある日、突然父親が「海の見えるリゾートマンションを買う」と言い出した。
内科医だった父は仕事人間のカタブツ。広島出身で戦争で苦労もしていたために、とにかく倹約家。「鉛筆は持てなくなるまで使う、靴下を買い替えるのは穴が開いてから」が家訓であった。
リゾートマンションなんてそんな贅沢な買い物とは無縁だとばかり思っていたから、これには正直驚いた。
今にして思えば、父も多忙な毎日に少し疲れていたんだろう。生まれ故郷の広島の海にはなかなか帰るチャンスもなかったから、そのかわりに海の見える部屋で息抜きをしたかったのかな。
車で小一時間ほどのところにその部屋はあった。神奈川県逗子市。
海沿いの道を走りトンネルを抜けると、目の前には江の島が見えた。その向こうには富士山が拝めた。
当時鳴り物入りで建設されたリゾートはまるで南国のごときオーラを放っていた。高くから葉を伸ばすフェニックスの木々、併設されたヨットハーバーには白い帆たちが陽を受けてキラキラと輝いていた。そこに軒を並べるサンタモニカ風の白い壁のリゾート建築は、地元ダウンタウンではまずお目にかかれないものだった。
私が一瞬で虜になったのは言うまでもない。だってそこはかねてから憧れていた、あの映画の中のビーチハウスそのものだったんだから。
それからというもの、夏の父の休暇には必ず逗子で過ごすのが恒例となった。晴れた夏の日に潮風を頬に受けながら缶コーラを飲めば、気分はもうカリフォルニアのサーファーガールだ。実際にはサーフボードんて触ったこともなかったんだけれど(笑)。
そうしていつしか私の夏の思い出は逗子の海と空の色とともに彩られていった。
我が家は母が長く持病を患っていたこともあり、父娘の仲は良かったほうだと思う。ビーチの部屋でふたりでスイカにかじりついたり、水着を洗ってベランダに干したりしたのをよく覚えている。
普段は白衣姿で“先生”の顔をしている父だったが、そこにいる時は不思議と子供みたいな表情になった。
いつだったか、浜から海パン一枚で戻ってきたかと思えば、手にはバケツいっぱいの小さな貝を抱えていた。たぶんオダマキだったと思う。
食べるつもりではなかったようだが、砂を掘っているうちにどんどんと貝が出てきて楽しくて止まらなくなったのだとはしゃいでいた。まるで仔犬みたいだ。
そんな微笑ましい記憶をくれた父はもういない。とうに天国へと旅立った。哀しみを超えて私も大人になった。
それでも時に心に疲れを覚えると、私は逗子の部屋に足を運ぶ。なんとなく、あの頃の父が笑って迎えてくれるような気がするから。
Profile
筑波大学附属高等学校、東京女子医科大学卒業。内科医師の難関、総合内科専門医の資格を持ち、多くの患者の診療にあたる。近年では、少年院、刑務所受刑者たちの診療にも携わる数少ない日本のプリズンドクターである。現代社会の流行から犯罪医学まで幅広い知識はテレビメディアでの評価が高く「信頼できる女性コメンテーター第1位」にも選ばれている。主な出演に「情報ライブ ミヤネ屋」(日本テレビ系)など。近著は『プリズン・ドクター』(新潮社)