異見・先見 日本の教育 同調圧力からの脱却で生まれる多様な議論
トピック教育課題
2022.06.13
批判を忌避し、空気を重視する危うさ
さて、新しい学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」が導入され、2022年度までに小学校から高校まで全面実施されるという。対話的な学習形式では、ときに相手の主張を批判しなければならない。
お互いの主張に論理的な間違いがあれば、指摘して軌道修正しなければ、結論はあさっての方向に進んでしまう。正しく議論を深めるためには、批判的視点は不可欠な要素だ。学校でそうしたトレーニングを積むことができるのであれば、期待できそうだ。
人間の価値観や主張なんて違って当たり前。そうした前提にたって、批判や議論の作法を磨かなければならない。外国に留学した経験のある方などは、身を持って実感したのではないだろうか。
ところが、多くの日本人のように、他人と意見をぶつけあうことに不慣れな場合、相手の主張は単なる「わがまま」に、議論はただの「言い争い」に受け止める人もいる。すると、批判したり異論を示したりすること自体に嫌悪感を持ち、「ことなかれ主義」的な同調圧力につながっていく。
その感情がエスカレートすると、他人に対して極端に攻撃的な言動に出てしまう。ネット上のいじめが最たるものだろう。社会部で取材をしていると、自死に追い込まれた女子プロレスラーの木村花さんの事件のように、SNS上で誹謗中傷を受ける事案が増えていると感じる。匿名で書き込んでいる人間は議論を目的としていない。ただ攻撃してダメージを与えたいだけだ。
残念なことに「言論の府」たる国会の討論をめぐっても、与党批判する野党に向けられた嫌悪感や攻撃的な言葉がみられる。特に、第2次安倍政権がスタートした2012年以降は顕著で、「野党は批判ばかりで意味がない」「偏った思想に基づいてけちをつけている」「批判するだけならバカでもできる」といった具合だ。
「批判が無意味」と“批判” することは、いま自分の口からこぼれた言葉も全くの無価値ということになる。こんな論ですらないものを相手にする必要はないのに、最近は一部の野党も「批判ばかり」の声に尻込みしているようだ。嘆かわしい。
自分の思想や論を磨くよりも、周りの空気を読むことを優先する。出てくる言葉は他人への冷やかしと攻撃。それでマウントをとって気を紛らわせる──。なんと小さいことだろう。そんなけちな社会になってしまった原因の一つに、第1次安倍政権下の2006年に行われた教育基本法の改正がある。
「飛躍しすぎじゃないか」と思うだろうか。でも、それまで前文にあった「個性」の文字が削られ、代わりに「公共の精神」が明記された。確かに「個性よりも、公共精神を優先しろ」とは書いていないが、「わかるよね、君」とぽんと肩をたたかれた感じ。現場にはそう伝わったのではないか。
先ほども書いたが、個性を伸ばすことと公共性を持つことは相反しない。むしろ多様な価値観が公共の利益につながるのだが。
もう一つ、いまの学校教育で問題だと思っているのが、現場が「政治的中立」を過度に意識しすぎていることだろう。実際、国際問題などの時事ネタや、憲法改正問題を巡る論争などは授業のなかで取り上げにくくなっていると聞く。
「保護者から偏っているとクレームがくるかも」と思えば、わざわざ授業で踏み込まないだろう。結果として、いま動いている「生々しい」政治的な題材について、授業で取り上げる機会が減ってしまう。そのせいだろうか。驚くことに、最近では憲法9条も知らない生徒が出ていると聞く。
2016年に選挙権年齢が18歳に引き下げられ、主権者教育も進められている。総務省の「常時啓発事業のあり方等研究会」の最終報告書では、現代に求められる新しい主権者像として「国や社会の問題を自分の問題としてとらえ、自ら考え、自ら判断し、行動していく主権者」を挙げている。それなのに、今の政治について学校で学ばなければ、投票しようにも判断基準がわからないだろう。
海外ではもっと早くから政治との関わりを学ぶ。夫婦漫才コンビ「おしどり」のマコさんとケンさんは、ドイツの中高生の授業の現場を訪れた際、生徒がそれぞれ支持する政党名とその理由を示した上で議論していることに驚いたという。「もう自分の支持する政党などを答えられるの?」とマコさんが尋ねると、生徒からは「日本では何歳になると答えられるようになるんですか?」と逆に質問されたという。
2021年の衆院選の投票率は55.93%と戦後最低から3番目と低かった。選挙に行かなかった10代は5割超、20代は6割を超える。多くの若者にとって、政治は他人事になっている。政治家は高齢者が多い。投票する人も高齢者。すると当然、政治家は票につながる高齢者層を優先するような法律を成立させ政策を進める。若者と政治の距離はますます離れていく。
思い切った外部委託で価値観の交流を
政治の話が長くなったので、話を少し戻す。学校教育のカリキュラムだけで「主体的・対話的で深い学び」が身につくかと考えると、おそらく無理だと思う。誰しもいつかは学校を卒業するわけで、その後の人生は自分の置かれた環境のなかで、自ら学びを見つけていくしかないからだ。
道徳的価値観や自分の将来像についても、学校の学びだけで獲得するのは難しい。例えば、私が新聞記者という仕事を意識したのは、中学校に進学した頃に母から手渡された1冊の本がきっかけだった。その本は、フォトジャーナリスト・吉田ルイ子さんの『南ア・アパルトヘイト共和国』で、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)そのものは学校で習って知っていたが、写真のインパクトにすっかり圧倒された。そう考えると、先に紹介した教育実習生の存在もそうだが、自分が将来に与える影響では、学校外の人や本との出会いは重要だったと思う。
ここからは提案となるが、学校の先生の労働環境が問題となっているいまこそ、主権者教育が想定する「社会参加の促進」や「参加型学習」の要素をもっと拡大してはどうだろうか。
具体的には、部活動など課外活動はすべて外部に委託する。さらに音楽・芸術・運動・プログラミング・語学・情報といった授業の一部もコマ単位で完全に民間企業に任せてしまう。とくに情報技術分野は変化のスピードが速いので、先生に研修で学ばせようとしても絶対に追いつかない。いまはコロナ禍で外部との接触が難しい部分もあるが、タブレット端末やPCを使ったリアルタイムのオンライン授業であれば、ある程度カバーできるだろう。
これらは学校やクラス単位で業者を選定するのは難しいので、地域の複数の学校が合同で参加する形になる。先生からすれば、研修や部活にかける時間や費用などのコストを抑えることができるし、なにより学校の先生も児童・生徒も、普段のクラスや学校の枠組みを越えた外部との交流が生まれる。個性を磨くチャンスだ。メリットは多いと思う。
外部の人間を学校に呼んでもいい。児童・生徒の親に講演や授業をしてもらう。地元の地方議員を呼んで政治を語ってもらってもいい。もちろん、毎年同じ人を呼べるわけではないので、授業の中身はばらつきがでる。民間企業の宣伝っぽさや政治的な主張の偏りも多少は出るだろう。でもここで公平性や中立性を考えすぎると選択の幅が狭まり、実現が難しくなる。学校側がまず柔軟な対応をしてみてはどうだろう。