教育実践史のクロスロード
教育実践史のクロスロード ActII [リレー連載・第2回] 森 信三 教育は人生の種まき――全一学と教育実践
トピック教育課題
2021.11.26
目次
『修身教授録』─現代の論語
森の著書の中で、現在でも教育関係者だけではなく、企業関係者、また一般の人々の多くの読書会でテキストとして用いられているのが改定版の『修身教授録』である。同書は第1部と第2部に分かれているが、それぞれ1937年、1938年に師範学校の生徒対象に行った講義40回と39回をまとめたものである。当然、時代・社会状況また講義の対象者に限定があるが、扱うテーマの広さ、内容の豊かさ、深さ、根底にある生徒に対する思い、将来に対する期待は時代を超え、世代を超え訴えかける。まさに人間学の要諦を示す。
第1講目の「学年始めの挨拶」から始まり、最終講義の「わかれの言葉」まで、テーマは人生、国家、教育、学問、友人等の領域から吉田松陰、ペスタロッチ、良寛、さらに具体的に読書、鍛錬道、仕事の処理、対話、上位者に対する心がけ、誠、気品、真面目、敬等の徳目に至るまで広範である。その中から一項目、気品についての要点を記しておこう。
気品は人間の値打ちのすべてを言い表す。全人格の結晶、人から発する内部的香りである。気品は、単に第一代の修養だけでは得られない。そこには先天的なものが働いていると祖先代々の集積というほかない。とはいえ、各人が依然として修養によって心を清める以外気品を身につける道はない。その場合、もっとも大切なのは、人間がただ一人の場合でも、深く己を慎む「慎独」である。この「慎独」の根本は、結局、天を相手にすることだという。
『幻の講話』─『修身教授録』の完成形
森は『全集』を完成して間もないころ、久しく構想を抱いていた『幻の講話』の執筆を始めたのだが、一気呵成に短期間で著述するのを常とする森には珍しく「あしかけ5年の歳月を経て、完成した書」である。森の全一学とその具体的な実践を平易な語りで集大成したものである。森76歳であった。
『幻の講話』は名児耶承道が道縁の間柄の中学・高校併設校の校長の懇請を容れ、倫理・社会及び道徳教育の時間をさいて、週1回生徒たちに講話する。名児耶を敬慕する青年教師数名と、生徒有志の協力により、その編集したという設定である。また内容の根幹は、名児耶の人生の師・有馬香玄幽の生き方から、名児耶が学んだことを生徒たちに伝えるというものであるが、語り部・名児耶は森自身と置き換えられ、また有馬香も森の投影であり、理想像であろう。
『幻の講話』第一巻から第五巻あり、巻が進むごとに対象が下級生から上級生になっていく。各巻とも30講話からなるが、巻によっては構成分けがされている。ここでは、最終巻・第五巻の構成を示しておこう。大きく三部構成にし、第一部では、「万人が自己の哲学を」持つことから始め、第二部では、「知識と智慧」「忍耐と貫徹」等の個別実践論を述べ、第三部では「世界における日本」「国家『我』の超克」と大きな世界観、国家観で締めくくる。
■主体性の確立
全巻を貫いているのは、大宇宙から与えられたいのち、「二度とない人生」をどのように生きるか、生かされ生きるいのちを日々真に充実して、どう主体的に生きるかである。
主体性の確立は、いつの時代においても教育の最大の課題である。森は本書を著した1970年時点で、戦後教育を振り返り次のように述べている。当初第二次大戦の反省から、「批判力」を養うことに重きが置かれた。ただ本来正しい批判は相手の言い分や考え方をよく聞き、さらに言葉の背後にある気持ちを察して行うことであるが、こうしたことは全く看過された。次に「考える力」が重要視されたが、これも「各教科における思考力」に留まり、行動とか実践とかに結びつかなくなったと指摘。より根本的なやり方が必要だとし、「生徒一人ひとりの腰骨を立てさすこと」を提唱する。人間は心身相即的な存在である。一日中立腰し続けることによって、はじめて主体性が身につき、さらに集中力や持続力そして判断力さえ明晰になる。
■「我」の超克
そして究極的に目指すは「我」の超克である。ここでいう「我」とは自己中心性である。人間社会の元凶は、個人としても、国家としても「我」に走りすぎるところにある。生かされ生きる人間は、身体を立て直すことは、心を立て直すことになる。腰骨を立て主体的に生きる。大きないのち観に立った他者、さらに大自然の中での主体である。誤った人間中心主義の現代文明の在り方を問い直さなければならない。動的バランスは厳然として自然の摂理として動いている。歴史の大きな方向を見定めると共に、足元の実践から始めなければならないと述べる。
岸壁に刻むように
森の教育論は大きな哲学体系・全一学を土台として具体的実践論を展開する。
生かされ生きるいのちが、単に知識、技術の伝達ではなく真に生きるいのちの種まきをする。そこには真摯に生きるいのちと求めるいのちとの呼応がある。
大宇宙の中で互いに生かされ生きるいのちが真に自覚的主体的に生きる唯一のコツは、腰骨を立てることである。なぜなら私たち人間は心身相即的存在であるからである。そして教育の最も大きな課題は、心身相即が故に人間が持つ「我」の克服である。なぜなら、個人、組織、国家の「我」がすべての悪の元凶なのである。
ITや語学等の知識や技術を伝えることは勿論大事。しかしその大前提に教育の原点を見失ってはならない。次の森の言葉で締めくくりたい。
「教育とは流水に文字を書くような果かない業である。だがそれを岸壁に刻むような真剣さで取り組まなければならぬ。」
[参考文献](本文で示した森の著書以外)
・山田修平「森信三の全一学と実践」(1)−(5)『鳥取短期大学研究紀要』第62号-第66号
・山田修平「補論:森信三の全一学と実践」『鳥取短期大学研究紀要』第67号
Profile
山田修平 やまだ・しゅうへい
1945年生。京都産業大学大学院博士課程単位取得退学。鳥取短期大学教授、同学長。現在藤田学院理事長。法人の大学、こども園運営に森信三の教えを活かしたいと日々取り組んでいる。また卒業生と『修身教授録』をテキストに読書会を月1回のペースで20数年続けている。専門は労働経済・労働哲学。