教育実践史のクロスロード

山田修平

教育実践史のクロスロード ActII [リレー連載・第2回] 森 信三 教育は人生の種まき――全一学と教育実践

トピック教育課題

2021.11.26

教育実践史のクロスロード ActII [リレー連載・第2回]
森 信三
教育は人生の種まき
―全一学と教育実践

学校法人藤田学院理事長 
山田修平

『新教育ライブラリ Premier II』Vol.2 2021年6月

逢うべき人には必ず逢える

 「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」「師の偉さが分かりだすのは距離的に隔絶していて、年一回くらいしか逢えない場合、さらにその生身を相見るに由なくなった場合であろう」。森信三先生(以下、敬称略)の言葉である。森信三との出逢い、その教えに私は多大な影響を受けてきた。それも年を経るごとにである。ここでは森信三の歩んだ道と、森の数多い著書の中から『創造の形而上学』『全一的教育学』と『修身教授録』『幻の講話』のエッセンスを記すと共に森の教育実践を振り返り、その現代的意義を考えたい。

アカデミックな学問と在野の思想家からの学び

 森は、1896年、愛知県で裕福な家の子として生まれた。しかし家の没落によって2歳で養子に出されたことから始まり幾多の困難に出会うが、一つひとつ乗り越え、広島高等師範学校で福島政雄、西晋一郎、京都大学で西田幾多郎に師事して学問を深める。他方、沢木興道、新井奥𨗉等在野の思想家との交流を通じて庶民的かつ実践的な求道のあり方に触れる。そうした中で二宮尊徳、中江藤樹、石田梅岩等江戸時代の先人に魅かれていく。

 職業的には、第二次大戦前に天王寺師範学校、戦前から戦中にかけて建国大学、戦後、空白と自省の期間を経た後、神戸大学等で教員、教授として哲学、倫理、教育学等を講義する。同時にこの期間、全国各地に講演行脚し、生涯の講演回数は1万回を超える。こうした活動を通し、多くの地下水脈的真人と出逢い、全国的ネットワークをつくっていった。晩年は兵庫県尼崎市の同和地区に森自身の住まいを兼ねた実践人の家を創設、学びたいすべての者に分け隔てなく学びの場を提供した。1992年逝去。享年96歳。

自証と化他の著書

 森の著書は数多いが、一般的な分野で言えば、哲学、人生論、教育論、国家論等広範囲である。また森自身の言葉を用いると、「自証」と「化他」の学問分野があり、著書がある。

 「自証」の代表的な著書は、30歳代の『恩の形而上学』と69歳、70歳に刊行した哲学五部作の『即物的世界観』『宗教的世界』『歴史の形而上学』『人倫的世界』『日本文化論』、80歳になって書き上げた全一五部作の『創造の形而上学』『全一的人間学』『全一的教育学』『全一的世界』『情念の形而上学』が挙げられる。

 他方、「化他」の著書も数多いが、その代表作は44歳と76歳でそれぞれ著した『修身教授録』と『幻の講話』である。

 森の学問の特徴は、「自証」と「化他」とは別々のものではなく、「化他」の土台には「自証」の哲学があり、実践、生き方として統一されているところにある。心と体、学問と実践、個人と社会、そして宇宙が一体化している。森の哲学が全一学といわれる所以である。

誰でも参加できる実践的学びの場

 先記のように森は75歳を過ぎてから、同和地区に実践人の家を創設、実践人の会を主催した。この時期20歳代後半であった私は、毎月1回開催される実践人の会に京都から参加した。人生に前向きに生きようとするものなら男女、年齢、職業問わず、誰でも参加できる会であった。一応基本テキストを決め、輪読しつつ話し合うが、話題はテキストの内容から、社会、世界問題、人生全般に広がった。その内容を紹介する余裕はないが、なにより心惹かれたのは森のたたずまいであり、日常生活の立ち居振る舞いそのものであった。いくつか述べてみよう。

・話を聞く姿勢:実践人の会では、森が語るだけではなく、参加者も自由に発言する。参加者が多様なだけに、必ずしも学びの場に相応しくない発言も時としてある。しかし森は誰の話に対しても分け隔てなく、柔和で慈愛に満ちた眼差しをもって、頷きながら聞くのが常であった。

・具体的な話:森の話は分かりやすい。相手の理解度に合わせて具体的実践的なのである。しかもそのバックボーンには大きな理論体系、世界観があるのだが、学問的堅苦しさを一切感じさせなかった。

・日常的実践:学問体系と日常的実践が一体化している。学問と足元のゴミを拾うこと、受け取った手紙の返事はその場で即書くことが同次元なのである。

・身体的柔軟性:当時70歳代後半であった森が座って前に足を延ばし身体を折り曲げると、腹、胸、顔の順で足につく。身体の柔軟性と頭と心の柔軟性は関連するというのである。

・腰骨を立てる:常に背筋がまっすぐというより、腰骨を立てていた。自然な形で背筋が伸び、臍下、いわゆる丹田に力がみなぎっていた。心身即応、主体的に生きるコツなのである。

・同和地区の人々との交流:森から同和問題について、直接話を聞いた覚えはない。当然近隣の同和地区の人々も参加する。他の参加者とのさり気ない交流が始まった。学ぶことは大切、しかし、交流し、実践してこそ、真の学びだとただ黙って示していたのだと思う。

第一の創造と第二の創造

 数多い森の著書の中で、全一学の視点から体系的に、創造的哲学を論じたのが『創造の形而上学』であり、これを土台にして教育について論究しているのが『全一的教育学』である。

 森は本書の序で「根本的立場はあくまでも全体観でありつつ、その考察と表現はあくまでも具体的に現実の諸事実を重んじ」あえて教育哲学と呼ばず、全一的教育学としたと自らの立場を明らかにしている。要点を示そう。
 
 全く無であったものから有が生ずるには創造作用があるからである。創造には大きく二つの創造がある。

 第一の創造の主体は大宇宙生命であり、この宇宙に存在する鉱物、植物、動物、そして人間等すべて存在するもの、いのちは大宇宙生命によって大愛を受け創造されたものである。そこには大きな調和、しかも動的調和がある。こうして創造された人間は、自覚的意志をもつに従い、第一創造で創造されたもの、生命に働きかけ、第二の創造に関わることになる。この場合、大宇宙生命の意志への顧念を忘れたとき、換言すれば余りにも人間中心主義になったとき、宇宙の調和が崩れ、多くの問題が発生する。その端的な例が、コントロールを忘れた自然科学、機械文明より生ずる環境問題である。

■教育の本質
 教育は人間が人間に新たないのちを与えるという意味で第二の創造の核心部分と言える。ここで新たないのちとは生まれたばかりのいのちから、人生に目覚め、真実の生き方を求める人間の誕生を意味する。言わば「人生の種まき」が行われる。

 教育は単に知識、技術の伝達で事足りるものではなく、こうした生き方への点火が求められる。教育者自身の真摯な人生への取り組み、反省、そして限りない被教育者への愛情が求められる。すなわち、教育者のいのちが被教育者のいのちを包摂する。それは、教育者から言えば能摂、さらに能照、能生となり、被教育者から言えば、所摂、所照、所生となる。

 こうした一連の動きの中に教育者と被教育者の間にはまさに「いのちの呼応」があり、その双方に宇宙の光が照らされ、いのちの再生が行われる。これこそが教育の本質である。

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