特集 AI時代を生き抜く子供を育てる AI時代に必要な「哲学対話」とその育み方
トピック教育課題
2021.07.15
特集 AI時代を生き抜く子供を育てる
AI時代に必要な「哲学対話」とその育み方
哲学者・山口大学教授
小川 仁志
(『新教育ライブラリ Premier』Vol.6 2021年3月)
AI時代に必要な対話力とは?
AIの進化には目を見張るものがある。今やそれはどんどん社会に実装されていき、人間はこれまでとは異なる役割を求められる状況に追いやられている。つまり、機械的な仕事はもはや文字通り機械が担うのだから、人間はそれ以外のいわば人間的な仕事を担うということになる。
そこで人間的とはどういうことかが問われるわけである。人間には様々な能力が備わっている。古代ギリシアの哲学者プラトンは『プロタゴラス』の中で、そのうちの一つの能力として言葉を挙げている。たしかに人間は、高度な言語を持ち、それによって互いにコミュニケーションを取ることができたからこそ、他の生き物の頂点に立ち得たといえる。空も飛べず、服を着なければ生きられない。本来であればどの生き物よりも弱い存在であるはずの人間が、逆に他の動物を支配しているのである。
そんな高度な言語によって可能になるコミュニケーションは、人間の能力の象徴であり、AI時代に求められる「対話力」にほかならない。では、それはAIが行う対話とはどう違うのだろうか? AIにも対話は可能だ。質問内容のパターンを分析して、無数のデータの中からふさわしい回答を探してくるのはAIにとってはお手の物だからだ。
しかし、私がいう対話、そして対話力はそんな単純なパズルのピース探しとは異なる。人間が本来行うことのできる対話は、「哲学対話」とも呼ぶべきものである。それは哲学と名がつくとおり、哲学することによってはじめて成り立つ対話である。AI時代に求められるのは、単なる表面的な対話をする技術ではなく、哲学対話をする能力なのである。後で書くが、もちろんそれはAIにはできないと考える。
哲学対話の時代
今、そんな哲学対話が社会の至る所で求められている。その背景には、哲学自体へのニーズが横たわっているといえるだろう。日本ではよく誤解されるのだが、哲学は決して難しい文献を解読する学問ではない。そうではなくて、本来哲学とは既存の考えを疑うことで、世界を新たな言葉で捉え直す創造的営みなのである。そういうと驚かれることがあるのだが、実際歴史上の哲学者たちがやってきたのは、そういうことである。誰もが当たり前だと思っている概念をあえて疑い、多様な視点で見ることによって、再度構築し直す。そしてそれを言葉で表現する。そこには人間ならではの感情や意志、経験等が不可避的に影響してくる。これが哲学である。だからAIにはできないのだ。
AIの登場もさることながら、それ以前から世の中はすでに行き詰まりを見せつつあった。日本だけに限っても、失われた20年を経て、VUCAと呼ばれる先の見えない時代へと突入していたからだ。だからこそイノベーションが叫ばれるのである。イノベーションとは、新しい価値を創造していくことだといっていいだろう。
哲学がそうした新しい価値の創造という要求に答え得るとの認識が広まったことで、今期待が高まっているわけである。中でも哲学対話というのは、哲学思考を実践するための最も効果的な手法として注目を浴びている。
そんな時代の要請を受けて、アカデミズムの世界も大きく変わりつつある。これまで哲学の手法といえば、一人で自分の頭の中で考えることだという固定観念があった。しかし、対話による方がより汎用性があり、またより効果が高いという理解が得られつつあるのだ。そのことを実証すべく、2018年には日本哲学プラクティス学会も設立されている。私もその中心メンバーの一人なのだが、そこでは市民が哲学的対話を行う「哲学カフェ」をはじめ、学校教育現場での哲学対話や、哲学カウンセリング、あるいは哲学をビジネスに応用するといった事柄について、急ピッチで議論を始めているところである。
では、なぜ哲学対話という手法は、哲学思考にとって汎用性があり、かつ効果的なのか。まずここでいう汎用性とは、どんな人でも実践できるということである。いくら哲学が難しい文献の読解ではないとしても、いきなり一人で始めるのにはやはりハードルが高い。疑い、視点を変え、再構成するだけだといわれても、実践するのは簡単ではない。
その点、哲学対話は、一般にファシリテーターのもと複数人で行うものなので、一人でやるよりかはハードルが低くなる。現に「哲学カフェ」は、初めての人でも十分対話に参加できるようになっている。私も長年主宰しているが、ファシリテーターとしてそのことを強く意識しながら運営しているからである。それは哲学の素養がある人たちが集まってレベルの高い議論をする場では決してなく、その反対で、哲学などまったく知らない人たちが考えを共有する場である。だから誰でも参加できるし、また楽しいと感じることさえできるのだ。
次に、哲学対話が哲学の手法として効果的であるというのは、その視点の多様性ゆえである。対話は複数人の視点を予定した営みである。哲学において複数の視点が求められる以上、それが必然的に得られる哲学対話は、その点において非常に有益なのである。
自分で視点を変えたり、いくつもの異なる視点を出したりするのは大変である。トレーニングすればある程度できるようになるが、それでも意外な視点から物を見るというのは、長年やっている私でさえ一番苦労する部分だ。だから私は、哲学対話ではいつも人の話をよく聴くよう勧めている。それは他者の視点をもらうことでもあるからだ。
以上のような理由から、哲学対話が引っ張りだこになり、いまや哲学対話の時代ともいうべき状況が到来しているのである。