自治・地域のミライ
自治・地域のミライ|都市と地方の間に縦横無尽の関係人口を紡ぐために 株式会社雨風太陽 代表取締役社長 高橋博之
NEW地方自治
2025.05.28
目次

出典書籍:月刊『ガバナンス』2025年6月号
株式会社雨風太陽 代表取締役社長
高橋博之
日本で初めてNPOとして創業した企業が上場を実現するインパクトIPOとして、“都市と地方の分断” という社会課題に対して、“都市と地方をかきまぜる” ことで解決を目指す㈱雨風太陽。代表取締役社長の高橋博之氏は、昨今耳にすることが多くなった「関係人口」という概念を考案した人物だ。現場に直接足を運び、対話をしながら地域と向き合い続けてきた高橋さん。その原動力や思いを聞いた。
株式会社雨風太陽東京オフィスにて。本社は高橋さんの地元、岩手県花巻市に置かれている。NPOとして創業した企業が上場を実現するインパクトIPOとして、「社会性と経済性の両立」に果敢に挑んでいる。
被災した漁師や農家とお話をする中で、この人たちにとって必要なのは「希望」なのだと感じた。
希望の種を蒔くために
――岩手県議時代に東日本大震災を経験し、知事選に立候補した。その時の思いは。
高校まで岩手で育ち、大学は東京に出た。もともとは新聞記者を目指し、社会の問題に光を当てるという仕事をしたかった。しかし、就職は上手くいかず、縁あって議員秘書などをしていた。
29歳の時に岩手に戻った。私は、地域に育てられたという感覚がかろうじて残っている世代だったように思う。人口減少がはじまり、田舎から元気がどんどんなくなっていっていた。役に立つような仕事をしたいと思い2006年に県議補選に立候補し、当選した。
私は選挙の三バン(地盤、看板、カバン)もなく、バックグラウンドを持っていなかった。当時合併したばかりの花巻市には約300か所の公民館があった。すべての公民館で県政報告会をやった。チラシを作って一軒一軒配り歩いた。公民館を開けて座布団を並べて待っていても最初は誰も来ないこともあった。おばあさんが一人だけ来て、戦時中のおじいさんの話をずっと聞くこともあった。こういうことを繰り返し、地域を徹底的に回った。必然的に地域と向き合う時間が増えていった。
2011年3月11日は、県議会の会期中で決算委員会をやっていた。3期目の選挙が4月頭に控えていた。もう1期県議をするつもりでいたので、決起集会の案内もしていたところでの震災だった。
津波の被害のなかった内陸の地元・花巻に、沿岸の山田町出身の知人がいた。「親と連絡が取れない。行きたい」と言われ、トラックを借り、支援物資を載せ、沿岸へ向かった。そこに広がる被災の状況を目の当たりして、「これは花巻に戻ってはいけない」と思い、残って大槌町の安あん渡ど 小学校の集会所に寝泊まりしながらボランティア活動をした。避難者の必要なものを聞きながら、内陸の仲間が持ってきてくれた避難物資を配った。支援活動を続けているうちに自分の気持ちも変わってきた。自分自身が先頭に立って困っている人たちの力になりたい、と思うようになっていた。
震災を経験して、多くの人の命が突然なくなってしまう、明日が来るのが当たり前だと思って漫然と生きていることは、実は当たり前のことではない、という気持ちが大きくなっていた。自分の中に芽生えた気持ちに嘘をつかずに生きていかなければならないとその時強く思った。
加えて、津波で大きな被害を受けた岩手県沿岸部に巨大防潮堤を造るという計画が出てきた。震災によって地球から「人間が自然を支配、コントロールするような発想ではもうダメだ」と言われたような気がした。それなのに巨大な防潮堤を造ることで自然を抑え込もうとしていることに疑問を持っていた。原発事故などもあり、当時はあらゆることが「想定外」とばかり言われていた。そもそも自然は想定しきれるものではない。対案を示さなければならないと思い、県知事選挙に立候補した。
沿岸部を走る国道45号線を中心に、北は青森県境の洋野町から、南は宮城県境の陸前高田市まで、これからは漁村、農村にこそ希望の種を蒔かなければいけないという話をして遊説しながら、ひたすら歩いた。釜石市の平へい田た 地区で、おじいさんにがっちりと手を握られた。目を見て「頼むぞ」という思いを託された気がした。それが今でも忘れられない。
被災した漁村、農村を歩き、漁師や農家とお話をする中で、この人たちに必要なのは「希望」なのだという思いが強くなっていった。
たかはし・ひろゆき
1974年、岩手県花巻市生まれ。青山学院大卒。代議士秘書等を経て、2006年岩手県議会議員に初当選(2期)。2011年、岩手県知事選に出馬するも次点で落選、政界引退。2013年NPO法人東北開墾を立ち上げ、地方の生産者と都市の消費者をつなぐ、世界初の食べもの付き情報誌「東北食べる通信」を創刊し、編集長に就任。2015年㈱KAKAXI 設立(2016年㈱ポケットマルシェ、2022年に㈱雨風太陽に商号変更)、代表取締役に就任。2023年12月、東京証券取引所グロース市場へ株式を上場。石川県令和6 年能登半島地震復旧・復興アドバイザリーボード委員。2024年11月には、内閣官房 新しい地方経済・生活環境創生本部が開催する「新しい地方経済・生活環境創生会議」の有識者構成員に就任。著書に、『だから、ぼくは農家をスターにする』(CCC メディアハウス)、『都市と地方をかきまぜる』(光文社新書)、『関係⼈⼝ 都市と地⽅を同時並⾏で⽣きる』(光文社新書)が、共著に『人口減少社会の未来学』( 内田樹編、文藝春秋)、『共感資本社会を生きる』(ダイヤモンド社)がある。
生きるリアリティを感じるために
――知事選後に、政界を引退。その後、「世なおしは、食なおし。」のコンセプトのもと食べもの付き情報誌「東北食べる通信」を創刊、農家や漁師から直接旬の食材を購入できるスマホアプリ「ポケットマルシェ」
もスタート。「都市と地方をかきまぜる」ことを始めた。
東北に限らず、全国をまわると地域はどこも似たような状況だった。まさに「ゆでガエル」状態(水の中にカエルを入れ、少しずつグツグツ煮立てていくと、茹でられていることに気づかずに最後は死んでしまうこと)だった。震災のような出来事は、いきなり熱湯の中にカエルを入れると同じようなことだ。多くの人にとってインパクトがある。目に見えて人口も減り、危機感が生まれ、このままではいけない、となる。
しかし、過疎は「慢性的な災害」のようなものだ。日常の中で少しずつ人口が減っていき、高齢化が進んでいく。じわじわと地域が弱っていく。全国をまわる中で、被災地で感じたことと同じように、前向きになれるような希望が必要だと感じた。
日本では、昔から東京が答えであり、みな東京に憧れ地方から出て行き、豊かさや幸せを求めてきた。しかし、東日本大震災の被災地に東京から支援で来た人たちと話をすると、どこか満たされていない。生きがい、やりがいをなかなか手にできずに「生きるリアリティ」に飢えているようだった。
モノがなかった時代は、とにかく働き、給料をもらって、たくさんのモノを買って幸せだったかもしれない。しかし、もはや今の時代はモノにあふれ、買い替え需要くらいしかない。しかも次から次へと新しいモノを買わなければならないという気持ちにさせられている。買いたいものが増え、そのために働くが、心は満たされない──。
このようなループに陥る中で残されていたことは「生活の質を高める」ことだった。生活の質はただの消費では高まらない。自分の生活の依存先はどこなのか。そこに関わることが質を高めることにつながると思ったことが「食べる通信」や「ポケットマルシェ」などの今の事業のきっかけになっている。
私も政治家になる以前は、料理の食材を誰が作ったかなど気にせずに食べていた。しかし、政治家になり、そして「食べる通信」などを通じて初めて生産者の存在をはっきりと認識した。さらには仲良くなる生産者もできた。なぜ生産者になったのか、こだわりや苦労を知った上で食べると、それまでとは食べる意味が全く変わってくる。その食卓自体が豊かになる、そう感じた。
地方の生産地は人が足りなくなっている。一方で都市は、たくさん人はいるけれども、消費社会で作る喜びがない。生きるリアリティに飢えている人たちに出会った時、被災地や地方の問題だけを見るのでなく、都市の問題も包含するスケールで復興を考えれば、田舎も復興できるし、都市も再生できるのではないか──という最大の気づきを得た。それが、「都市と地方をかきまぜる」ということだった。
振り返ってみると、東日本大震災から直感で動き、思いひとつでひたすら“希望の解像度”を上げるために走り続けている14年だと思う。
㈱雨風太陽は、産地直送アプリ「ポケットマルシェ」、食べもの付き情報誌「食べる通信」、親子向け地方留学プログラムなどの事業を展開。2050年までに“2000万人の関係人口の創出”を目指し、社会にポジティブなインパクトを生み出そうとしている。
東北と能登
――東日本大震災を経験した高橋さんは、2024年の能登半島地震でも現地に入り、支援活動をしてきた。
東北と能登では、都市から離れた生産地であり過疎地という点では似ている。しかし、能登は高齢化率が49%で三陸よりも高齢化している。東日本大震災の時も社会は下り坂だったが、能登半島地震は、より国力が落ち切っているところで起きた。残念なことに世間の関心もあっという間になくなってしまっていると感じている。
それでも私は、同じ国で似たような経験をしたことがある人たちが、その時の経験や反省をこれから復興が始まる人たちにシェアしていけばもっと良い復興ができるはずだという思いを持ってきた。
ミクロでみると東北でも良い希望は生まれた。しかしマクロでみると、国費を34兆円も投入したにもかかわらず、東北の沿岸部から多くの若者が流出している現状をしっかり社会として見つめなおさなければならない。果たして便利で快適なまちを目指すことだけが本当の復興なのかが問われている。
震災時には勝手に関係人口が増え賑わう。バケツの中にわーっとはいってくるイメージだ。東北では、もともと底が空いているバケツに関係人口を入れてしまったため、そのまま底から抜けていってしまった。だから、能登では最初からバケツの底を塞いだ状態で関係人口を入れて、復興が終わったあとも残るようにしていかなければならない。
関係人口を見える化する
東日本大震災の時は、支援する側、される側で壁があった。地域に関わり続けるには、支援する側、される側という二分をやめるということだ。外や内ということではなく、地域をもう一度作り直すために一緒にやる。地域に残り続ける人、関わり続ける人は一定数生まれる。東日本大震災の時の気づきだ。
そして今、「新しい地方経済・生活環境創生会議」で提起した、特定の地域へ継続的に関わる「関係人口」を登録する「ふるさと住民登録制度」が地方創生の一手として、動きだしている。つながりの見える化は、事前復興としても有用だろう。
もはや政治家が声高に叫ぶ「強く豊かな日本」というフレーズは、この社会を生きる人たちには届いていないと感じる。これから幸せに、楽しく生きていくためには、都市の人たちが都市にいるだけでは難しいし、地方の人も地方にいるだけでは難しい。やはり互いが縦横無尽に融合することが大事だと思う。私は「一億総デザイナー時代の到来」と言っている。一人ひとりが自分の生活をデザインし、自分らしく、自らの選択において生き方を決められるような社会になればいいと思っている。
希望を示し、言葉を紡ぐ
――被災地で活動をしてきた経験から、災害時など非常時のリーダーとしての姿勢、心構えはどのように考えるか。
有事の時は考えていてはダメだ。一番大変なところへまず行く、ということが大事だろう。いろいろな材料が整ってからと言っていると決断が遅れる。ロスした間にダメージは大きくなる。大変なところへ突っ込んでいって、何が必要なのか、大事なのか自分で知って理解し、その上で仲間に呼びかける、そして動きながら考えることが大事だと思う。
プラスの希望を示すこともリーダーの最大の役割だろう。被災して、へし折られた気持ちをもう一度立ち上がろうという気にさせなければならない。そのためには、被災者の心に響くことを紡がなければならない。“奥の院”に座っているだけでは決してそれは紡げない。どんな心持ちでいるかというところに自らが入っていかなければならない。
そして、平時からこういう地域をつくるのだというビジョンを地域の人たちと交わりながら磨いていくことが重要だろう。
みなグラウンドに降りて
――最後に自治体職員、首長、議員へのメッセージを。
世の中が縮小している時は、住民の生活も窮屈になる。その時に叩かれやすいのが税金でご飯を食べている自治体職員や議員だ。
これまでは、住民に対して「みなさんは観客席にいてください、グラウンドの上は、自治体職員や議員が守りますから」というスタンスだっただろう。職員も議員も「まちは自分たちがつくります」とやってきた。しかし、行財政資源が枯渇していく中で、観客席からグラウンドに降りてきてもらう必要がある。一人ひとりが地域を維持していくために必要な役割を担い始め、生きがいを取り戻していったら、結果として行政コストが下がっていくだろう。そのためには、職員や議員が「地域をつくることは面白いことだ」と示していかなければならない。
職員も議員もファシリテーターだ。ファシリテーターは、地域の外と中の人、公と民間の人といった異質なものをつなぎ、融合させていくことが役割だ。プラスの効果を生み出すためには間に入る人が非常に重要になってくる。その役割を果たせるようなれば、地域にも活力が生まれ、それぞれのやりがいにもつながるのではないだろうか。
(取材・構成/本誌 浦谷收、写真/五十嵐秀幸)
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