interview 挑む 〜チャレンジャーの目線〜 大野 悠 氏 とこなつ本舗 大野屋 商品開発担当
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2021.09.30
目次
interview 挑む 〜チャレンジャーの目線〜
大野 悠 氏
とこなつ本舗 大野屋 商品開発担当
(『新教育ライブラリ Premier II』Vol.1 2021年4月)
受け継ぎ、積み重ねてきた“想い”でしなやかに挑戦し続ける
天保9(1838)年から富山県高岡市で和菓子屋を営んでいる大野屋。その歴史は実に180年以上。素材選びにこだわった和菓子作りに定評があり、地元でこよなく愛されている老舗だ。そんな大野屋には、ちょっと変わったお菓子がある。落雁の木型を利用して作ったラムネ、「高岡ラムネ」だ。開発に携わったのは大野悠氏。大野屋9代目社長の娘だ。2012年に開発された高岡ラムネは、その発想のユニークさや可憐な見た目、優しく懐かしい味などが話題となり、大野屋の名前をたちまち全国へと広めた。
繊細で、舌にのせるとふわりと溶ける。優しさの中に、どこか凛と芯の通った強さも感じられる高岡ラムネの味は、氏の仕事に対する姿勢そのものだ。「高岡ラムネ」を生み出した彼女が大切にしているものとは──。高岡ラムネ誕生秘話と氏の仕事への想いを聞く。
歩んだ家業以外への道 ■地域に愛される老舗に生まれて
──老舗に生まれたプレッシャーを感じたことは。
小さい頃は、プレッシャーを感じたことがあまりありませんでした。甘いものもあまり好きじゃなくて興味もなかったので、他人事みたいに考えてましたね。両親も家業を強く押し付けることはせず、まずは自分のやりたいようにさせてくれました。
大人になってから、歳を増すごとに責任やプレッシャーが重くのしかかってきた感じがあります。県外での生活や、異業種での経験を経て「あまり軽い気持ちでできるものじゃないな」という責任に気付いた感じがありますね。
──富山を離れて、家業とは別の道に。
布とか糸を扱うのが好きだったので、金沢の美大で織物を学んだ後、東京のアパレル会社に就職しました。アパレルのブランドなんですけど、どちらかというと天然の素材にこだわっているブランドで、どうしても入りたくて。自分の力でしっかりと歩んでみたい、北陸を出て働いてみたいと思って進路を選びました。
──富山を離れるときの気持ちは。
富山以外で生活できる喜びが大きかったですね。当時は、古いものに価値を見いだせなくて、早く一人暮らしがしたい、他の街に行きたいという気持ちが強くありました。小さな街なので、街を歩くと「大野屋さんのところの娘さん」というようにすぐに目についてしまう。今となっては、その距離の近さも人の温かみだと思えますが、当時は、すごく嫌でした。
離れて気付いた“当たり前にいた環境”のすばらしさ ■家業を客観的に見つめて
──家業の「和菓子屋」を客観的に見て感じたことは。
今まで当たり前だった「和菓子屋」というもののすばらしさに気付いたのは、就職してからです。職場にうちのお菓子を差し入れするとすごく喜んでもらえて。その笑顔を見ていると、お菓子も悪いものじゃないな、っていうのは感じましたね。
あと、東京で働いていた当時、老舗の染物屋さんとか織物工場の社長さんと関わる機会が多くありました。そういうところの物づくりを見ていくうちに、それだけの時代を経て、物を作り続けることの貴重さや価値、家業のすばらしさに気付いたっていうところもありますね。
これは異業種を経験したからこそ気付けたことで、もし、強引に家業に入らされていたら気付けなかったかもしれません。
──家業を手伝うことにしたきっかけは。
母校の金沢美術工芸大学の恩師から、講師をしてほしいというお話を頂いて金沢で働くことにしたのがきっかけです。母校で講師をしながら、家業を手伝うようになりました。家業のことが気になってというよりは、両親も歳をとってきて心配で、手伝い始めたっていう感じですね。
恩師から声がかからなかったら、もっと東京で働いていたかもしれないし、巡り合わせ、ご縁だなって思いますね。
──手伝い始めて感じたことは。
異業種を経験して、古いものの良さや価値に気付いていたので、木型などのお菓子の道具に工芸品的な美しさや日本の文化をギュッと凝縮した財産のようなものを感じて、これは絶やしたらダメなんじゃないか、これを守るのは自分がやらないとっていう想いが芽生えました。
一方で、手伝えば手伝うほど、不安や問題も感じてきて。売上も一時期に比べればかなり落ち込んでいたりとか、お客様も若い人がほとんど見られなかったりとか。ただただ古いものを作り続けていくってなると、ものの良さが色褪せていくのではないかと感じました。古いものを大切にしつつも、少しずつ、自分ができるところからリニューアルしたり、新しいものを取り入れたりしていこうと思いました。
人、地元、家業……様々なものへの想いから生まれたお菓子 ■「高岡ラムネ」の誕生
──作ろうと思ったきっかけは。
木型が蔵にたくさん置いてあるのを見て、感動して、「木型を使ってなにかできたらいいな」っていう話を大学時代の同級生にしたのがきっかけですね。その友人は、いろいろな地方の物づくりをサポートして次の時代につなげていく仕事をしていて、「木型でラムネができるっぽいよ」と、「ラムネ」というキーワードをくれました。最初聞いたときは、半信半疑だったんですけど、素材を吟味して作れば、現代版の落雁みたいな感じで日常の時間に楽しんでもらえるものができるかもしれないと思い、その友人と共同開発で挑戦してみることにしました。
──こだわったところは。
目新しさに固執して奇抜なものを作るのではなく、「和菓子屋らしさ」や日本のいいものを伝える形にすることに一番こだわりましたね。原料も和菓子にとって欠かせない米粉を使ったり、味付けも科学的なものは使わず、国産の生姜や苺などを使ったりして、安心して召しあがっていただけるものになるように工夫しました。パッケージも種類ごとの色合いとか並べたときの美しさだけでなく、和をイメージしてご祝儀袋みたいに「包む」形を取り入れたり、柄も家紋のような雰囲気をデザインに取り入れたりして、友人がデザインしてくれました。
商品のラインナップも、和菓子に込められた想いや文化を伝えていきたいと思ったので、最初は「貝尽くし」と「宝尽くし」を作りました。縁起物は昔から人々に愛されてきたので、今の人たちにも伝わるんじゃないかなって思って。それから、日本の四季の美しさを伝える「春けしき」などの季節限定品や、地元の良さを伝える「御車山(みくるまやま)」「とやまKAWAII」を作りました。
高岡の「御車山祭」は、地元を離れたいと思っていた時期でも唯一、大好きなものでした。ラムネに同封されている「御車山祭」の説明書も私が一生懸命書きました。もっとたくさんの人が御車山祭に来てくれたらいいなという想いがあって、高岡ラムネのラインナップに「御車山」を加えました。
「とやまKAWAII」は、富山大学芸術文化学部の学生さんとのコラボ商品です。
──「ラムネを作る」と言ったときのお父様や職人さんの反応は。
父も職人も「何言ってんだ!」って感じで大反対に近かったです。「ずっと正統な和菓子を作ってきたのに、そんなわけのわからんもんを!」っていうのもあったと思いますし、自分の中にはない新しい意見が出てきたことに対する違和感もあったと思いますね。私も父も頑固なので、口論が絶えず、大変でしたが、説得は他人任せにせず、自分の考えていることをとにかく伝えました。意見が違っていても、親や職人にはなるべく嫌な思いをしてほしくなかったので、木型を使うことや科学的なものは使わずに作ること、落雁のようなイメージで「和菓子屋が作るラムネ」にすることなど、その都度説明しました。
──反対されても諦めなかった理由は。
開発に関わってくれた人たちのためにも、引くに引けない、何としてでもやり遂げるっていう感じでしたね。協力してくれた人の想いがあるので、父が何と言おうと妥協できないと思いました。
最初の試作では「ラムネってこんなまずかったっけ?」って顔がひん曲がるようなものしかできなくて、できるかどうか不安だったんですけど、商品がある程度形になったときに試験販売をしたら、皆さんがすごく美味しいと言ってくれて。そこで得た「伝わるところには伝わるんだな」という自信で、最後まで頑張れました。
──出来上がったときのご自身のお気持ちや周りの反応は。
嬉しい気持ちが一番でしたが、達成感とほっとした気持ちも大きかったです。これで全然ダメだったら、反対していた人が「ほら見ろ!」っていう感じになるので。
周りの反応は、「落雁の形をしているので、和三盆かと思ったけど、これ、ラムネだ!!!」っていう驚きと笑顔が多かったです。
父に関しては、しばらく納得していなかったんですけど、時を経て主力商品にもなり、今は納得してくれているのかな、と思います。
積み重ねた“想い”を大切に ■しなやかな姿勢で挑戦し続ける
──座右の銘は。
大学に飾ってあった「継続は力なり」という言葉が心に残っていて。そのときは「これを座右の銘にするぞ」とは思っていなかったですけど、時折、仕事でこの言葉の重みを感じることがあります。異業種から家業に入りましたが、感覚とか感性とか、人に対する想いとかっていうのは少しずつ積み重なっていて。自分自身の中で継続してきた気持ちとか想いがなければ、「高岡ラムネ」という形にはならなかったと思いますし。
今こうして文化が残っているのも、ご先祖様とか両親が激動の時代を経て、180年という歴史をつないで受け継いできたからこそだなっていうことも考えると、やっぱり「継続は力なり」だなって思いますね。
──仕事で大切にしていることは。
なんでも挑戦してみるっていうのは大切にしています。無茶振りされても、無茶振りと思わず、なるべく断らないで真剣にやり遂げるっていうのは昔から大切にしていて。東京で働いているときに先輩から「断るのは簡単だけど、可能な選択肢を作ってあげるとか、やり方は色々あるから」って言われたのもきっかけで。先の事を考えると「無理」って思う気持ちもあるし、やったところで自分にメリットはあるのかとかまで考えちゃうんですけど、なんでもやってみると、糧になってるなと思います。
それから、人とのつながりは大切にしていますね。自分だけの感覚や自分が見てきたものだけだと限りがあるので、いろんな人とつながってたくさん学びたいなと思っています。
弊社に、20代の職人がいて、私や古くからいる職人にはない感性を持っていて、それが新しい価値を生んでくれているというか。なので、積極的に取り入れていきたいなとも思いますね。
──今後の夢や抱負は。
うちには「とこなつ」という古くから大切にしているお菓子があるんですけれども、そういう「懐かしいね」って人の記憶の引き出しに入っているようなお菓子は大切にしつつも、先入観や「和菓子屋らしさ」に固執しすぎることなく、お菓子を買って食べてくださった方みんなが幸せになれるような、笑顔になってくれるような商品づくりをしていきたいなと思っています。
私はどうしても「こうしなきゃいけないかな」っていう思いもあるんですけど、別の老舗のお菓子屋さんの方が「そういうものって自分の中に嫌でも脈々と受け継がれているもの。流れている血がそうだから、どんなに奇抜なものを作ろうと思ってやったとしても、やっぱり大野屋さんらしいものになるんじゃないか」みたいなことをおしゃっていて。あんまり、伝統とか大野屋らしさ、大野屋の看板に無理に固執せずに、失敗を恐れずに自由に挑戦していきたいなと思っています。
(取材/編集部 兼子智帆)
Profile
大野 悠 おおの・ゆう
富山県高岡市に和菓子屋の長女として生まれる。金沢美術工芸大学工芸科で織物を学んだ後、アパレル会社のヨーガンレールにてテキスタイルの素材デザインの仕事に就く。その後、母校である金沢美術工芸大学に転職。テキスタイルの常勤講師として働く傍ら、家業である和菓子屋の手伝いを始め、ホームページやパッケージデザイン、商品企画等の仕事に携わる。現在は家業に専念し、高岡ラムネをはじめ商品企画や営業等の仕事に携わっている。