職員室の人間関係づくり
職員室の人間関係づくり[第4回]規制改革は先生を笑顔にする?
トピック教育課題
2020.12.28
職員室の人間関係づくり[第4回]
規制改革は先生を笑顔にする?
東京聖栄大学教授
有村久春
(『新教育ライブラリ Premier』Vol.4 2020年11月)
今回は、規制緩和の問題を考えます。ご存じのように、国政では9月16日に新しい内閣が発足しました。新政権はこれを最優先するとしています。
教育に関しても法令の運用が緩和され、先生の学びと職務と在り方が〈ゆったり〉するでしょうか。
この議論が先生の思考と職員室の空気を変革する起爆剤になることを期待しています。「決まっている」との思い込みから、「どう使うか」の発想にその考え方をギアチェンジしてはどうでしょう。
その契機到来
コロナ事態の不安感に付き合いながらも多くの学校では2学期もほぼ中間点を過ぎたところです。
教育と政治は一線を画すべきとの論があります。しかし、この規制緩和の動きが陰に陽に私たちの教育活動に影響しそうです。これまでにも少なからず政治力に左右されてきた歴史があります。
新政権には期待感をもちたく思います。しかし、動向次第では教育の日常とりわけ〈子供の学び〉と〈先生の専門性〉に揺らぎが生じることもあるでしょう。それに翻弄される事態もあるでしょう。この度の菅政権は大胆な規制改革を打ち出すとしています。行政の縦割りを排し、悪しき前例主義も排除するなどのニュースが聞こえます。スピード感をもって国民のためになる政治を行うとの声も耳にします。民主主義を標榜する我が国では、だれもが理解できる当たり前の言葉として受容できます(いままでは当たり前ではない面もあったか?)。
この施策が、私たちの教育界にもしっかりと届いてほしいと願うところです。新総理の言葉に重ねると、「子供のためになる政治(教育)」を行うことでしょう。答えは明確です。子供一人一人が安心して学ぶことができるインフラ整備をすることです。
とりわけ子供の成長を脅かす〈学びのカベ〉を排除することです。この具現化により、子供は自ずと自らの学びをよりよく形成していきます。先生たちの専門性もよりよく発揮されます。職員室の空気感や対人関係にもホットな変化が生じるでしょう。
子供に学ぶ改革を
子供の学習活動と先生の教授活動に支障が生じる規制であれば、それらを排除する方向が求められます。子供が学びやすく、先生も教えやすくすることです。教育の基本的な原理でもあります。
規制改革の視点からは、「文部科学省(国)⇒都道府県教委⇒区市町村教委⇒学校⇒子供」とする教育のベクトルを〈逆向き〉にすることです。子供の学びの事実をベースにした改革のベクトルを最優先することです。図1のように「行政的思考」から「先生的思考」にシフトチェンジすることです。いわゆる〈通知・通達行政〉からの脱却です。
そのためには、日々子供たちと学び合っている「先生の力量」を信頼することです。今日のような成熟社会にある我が国では、この論の重視が優先されてよいと思います(現実には〈先生不信〉が存在している?)。いま私たちが実感しているように、社会全体がコロナの危機にあり、それとの共存が求められるときこそ不可欠な考え方ではないでしょうか。
そして、このような危機事態にあっては行政施策が前面に出てきます。これに学校や先生も大きな期待をします。頼ってもいます。「文科省や教委はどう考えているのか」「具体的な方針を早く出してほしい」「教員はどうすればいいのか?」などの言い方として……。子供の生命を預かっているからです。
図1は、この理解を学校教育との対比で検討したものです※1。図の左の先生的思考は子供たちと先生との学び合いを実践的に積み上げ、子供自らが学びの達成や成就感を得る営みを重視します(帰納的教育)。そこでは先生の専門性が十分に発揮され、個々の学びをゆっくりと援助するアプローチがみられます。子供と先生双方のありのままの姿と自己成長がみられ、より充実した「自立」を成します。
一方、右の行政的思考が優先されると、子供や先生の実践よりもある目標価値(例;学力テストの点数アップ)にその言動が集中することになるでしょう。ここでは数値的学力や教育マニュアルなどが期待されます。これに呼応する法規制や管理要件が強化され過ぎると、子供や教員がいわゆる「ゆでガエル」の状態※2に追いやられてしまうでしょう。
この思考が先の思考を上回ると、子供の落ち着いた学びが委縮してしまいます。教員も子供も言い難い疲労感を味わうことになります。このような悪しき循環だけは回避しなければなりません。
校長先生の自信と勇気
ある中学校のY校長先生のエピソードを紹介します。内緒話としつつも明解に語ってくれました。
いまのコロナの状況、生徒も教員もピンチだ。その実態を教委も共有してほしい。教委のマニュアルや指示がわかりにくい。その後の報告事項もとても煩雑化している。その手続きの処理に追われる。基本方針を示したら、『校長の判断で生徒の学びを保障すること。各学校の日々の実践を最優先されたい』との一言の通知を発すれば、それで十分ではないか。『あとは先生たちに任せますよ』とのメッセージが学校現場にほしい……」と。
(続けて、教員の具体的実践例も聞かせてくれた)
「自画像の制作過程を動画編集してHP発信する」「オンライン授業で電流・電圧の測定実験の実際を補助教員とのコラボで見せる」「教室でのタブレット学習の学びを家で復習する。それをプレゼン資料にする」「Zoom利用で生徒たちがリコーダーの合奏を楽しむ」など、教員の創造性が試みら
れているという。
Y校長先生の語りに学ぶと、行政当局や社会の〈先生の教育力への信頼〉がキーになると考えます。図1の先生的思考からすると当然のことです。
ただ一部に、近年の教員志望数の低下や〈先生の研究力と指導力〉の貧弱さを指摘する声も散見されます。ある種慢性的ともいえる過酷な勤務実態も「教職は専門職である」※3との視点から問わなければならないでしょう。先生の専門性は子供との学び合いを豊かにします。そして確かな教育効果として子供個々の内面に深く潜在化していくものです。
Y校長先生が紹介する実践例などは、規格品づくりに終始してきた感のある教育(教科書を教える教育)を抜本的に見直すチャンスになるでしょう。それと同時に、先生たち自身も学習指導要領等に忖度している現状に気付くこともあるでしょう。
これらの思考の打開に、新総理のいう「自助・共助・公助そして絆」の主張が何らかの支えになると考えます。これによる政治改革に高圧的な〈しめつけ〉は見られないものと思いますが……。ただ、この三つの〈助〉のバランスが崩れたり一つだけが強固になったりすると、子供や先生に〈負の力学〉が作用することがあります。同調圧力です。
そこには、子供にも先生にも〈いじめ〉が顕在化し、ストレスフルになることもあるでしょう。子供たちにあっては、子供個々の「自律」の育ちを見守り、その子の特性に応じる「自立」を見立てる〈助〉が求められます。この筋書きの予測に共感していただける先生方(読者)も少なくないでしょう。
いま改めて真の学びを追究する
コロナの事態が、常態化しようとしています。子供たちの学校生活の在り方にも、感染予防をベースにする学びの保障が求められます。即時的対応には子供個々へのタブレットの配布や学習支援員の増員、部活動指導員の確保などが措置されようとしています。行政上の対応として理解できるところです。
このような行政的思考にあって、先生的思考としては〈いま必要な教育とは何か?〉を先生自らが専門的視点から自問自答する必要があります。改めて「教育の本質」を振り返ることです。
一例ですが、〈社会的共通資本としての教育〉を論じる経済学の宇沢弘文(1923-2014)は、教育の目的を次のように語っています※4。
……ある特定の国家的、宗教的、人権的、階級的、ないしは経済的イデオロギーにもとづいて子どもの教育をするようなことがあってはならない。教育の目的はあくまでも、一人一人の子どもを立派な一人の社会的人間として成長して、個人的に幸福な、そして実りの多い人生をおくることができるように成長することをたすけるものだからである。
(下線:有村)
彼の20年来の持論であると読み解きます。あまたの「先生」も学生時代などに学び、研究したであろう先人の教育学(例:ルソー、デューイ、福澤諭吉)の論とも通じ合うものがあると思います。
一人一人の子供が安心して学び、自由と責任を享受できる社会に生きることの意義を提唱していると思います。国をはじめ社会全体が子供の学びと成長を扶け、その成果を子供個々の求めに応じて活かしていくことが経済の意味〈経国済民〉であるとの主張であると学ぶところです。新総理の〈三つの助〉もこれに通じ合うことがあるでしょうか?
文科省にあっては、コロナ事態も踏まえつつ次代の教育課程の在り方を検討して「中間まとめ」を出しています(中央教育審議会初等中等教育分科会〈令和2年10月7日〉)※5。例えば、個別最適な学びと協働的な学びを目指すICTの活用や教科担任制の問題、履修主義の見直し、STEAM教育の推進などです。半年前ぐらいまでは、9月入学や入試時期の課題なども噴出しましたが……。これらの背後には、次代を生きる子供たちの教育のあり様はこのままでいいのか? とする改革精神とデジタル化(DX)の動きの高まりがあると思われます。
この具現化には、聖域打破の大英断が必要です。まさに行政的思考の発揮です。思い切った政治判断にも期待したいところです。子供の人格の完成を目指す教育は国民生活の基盤です。それゆえ、その法的な規制も重装備化します。過去に見られたパッチワーク的改革による多少の緩和措置がどれほどの意味を成したのか? 疑問点もあります。
この60年の動きは?
いまの教育制度では、「学校の先生」にとって学習指導要領が法的な指針になっています。公教育としての教育水準維持の観点から、その位置付けは重要な意味を有しています。ここで改めて、その改訂の経緯(図2)※6を確認してほしいのです。
戦後8回のそれは〈中教審答申⇒「その改訂」⇒教科書採択⇒教育課程実施〉のルーティンを約10年ごとに繰り返しています。改革というよりマニュアル化が進行しているとの見方も否めません。
この経緯の読み取りから、教育の不易と流行を手堅く継承しているものと理解できます。【2】昭和33年の改訂で教育課程の骨格が法体系化され、その後ほぼ60年間そのままの構造で受け継がれています。
この間において、子供の生活実態は? 教科等の構成は? 子供の未来像は? 国際化・情報化への対応は? など、その時代の教育課題が論議されてきたと思います。しかし、子供や先生の思考に添う法令改革(規制緩和)は為されていないと考えます。
他方、子供たちはこれら改訂の動きをよそに楽しく充実した学びを先生と繰り広げていくのです。
ある教育現場の研究会の席で、授業研究に熱意のある先生が言葉を選びつつ「学習指導要領には大切な記述がされていることは知っている。子供との日々の学びはこの通りにはできにくい。この内容をいかに子供の学びと自分の教育の論理で焼き直すかが大切だと思う。そのための時間や専門的な力量がほしい。学問的な議論の必要性も痛感する」と語っていたことを思い出しているところです。
このように各学校は自校の教育計画による教育活動を展開し、子供個々の学びの保障と自己成長の援助を促進していきます。このプロセスを法令上の位置から見ると、図3のように考えられます※7。
この図の理解を図1(先生的思考と行政的思考)との関連で考えると、Bのベクトルが子供中心の教育活動を意図しているでしょう。もちろん、Aのベクトルとアウフヘーベンさせた教育活動の展開が不可欠であることも〈先生〉はよく理解しています。その具体的なカタチは、先生個々の手中にあります。
[注]
※1 佐藤郁哉編著『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』京都大学学術出版会、2018年、および近年の「中教審答申」などを参考にした。
※2 組織運営などで職員が息苦しくなる状態をいう。「カエルを熱湯に入れるとすぐに飛び跳ねて逃げ出す。しかし徐々に温度を上げるとそれに気づかずゆでられてしまう。そして死に至る」との比喩表現。
※3 ILO・ユネスコ:「教員の地位に関する勧告」(1966)の6項に〈教職は専門職と認められる〉の記載あり。
※4 宇沢弘文著『社会的共通資本』岩波新書、2000年、p.125
※5 中央教育審議会初等中等教育分科会:「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現〜(中間まとめ)」(令和2年10月7日)
※6 これまでの中教審答申、各改訂時の学習指導要領を参考にして筆者が作成した。
※7 文部科学省「小学校学習指導要領解説・総則編」平成29年7月、第2章の第2節を参考に筆者が作成した。
Profile
有村久春(ありむら・ひさはる)
東京都公立学校教員、東京都教育委員会勤務を経て、平成10年昭和女子大学教授。その後岐阜大学教授、帝京科学大学教授を経て平成26年より現職。専門は教育学、カウンセリング研究、生徒指導論。日本特別活動学会常任理事。著書に『改訂三版キーワードで学ぶ特別活動生徒指導・教育相談』『カウンセリング感覚のある学級経営ハンドブック』など。