特別寄稿 新学習指導要領における「思考力・判断力・表現力等」の目標について

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2021.04.22

特別寄稿 新学習指導要領における「思考力・判断力・表現力等」の目標について

立正大学特任教授
浅沼 茂

『新教育ライブラリ Premier』Vol.5 2021年2月

教育課程のパラダイム・シフト

 平成29年3月(高校は、平成30年3月)に告示された新学習指導要領は、これまでの学習指導要領とは、趣を異にしている。これまでも「探究学習」とか、「主体的・対話的・深い学び」とかいうような表現で、単なる知識や技能を超える理解や判断力を求める目標は明示されてきた。「習得」「活用」「探究」は、前の学習指導要領の3大目標であった。ところが、今回の改訂は、一気に一段上の「人間性」「知識」と並んで、教育の3大目標、一つとして一躍上に躍り出たということになる。これまでは、総合学習(総合的な学習の時間)の位置付けが、座りが悪く、特別活動的な扱いなのか、より進んだ個人探究的な扱いなのか、現場では何をすればよいのだと、いまだに議論が進行中である。

 このような中で、今回は、明確に「思考力・判断力・表現力」という言い方で、各教科の単元ごとにその到達目標が設定されている。これは、革命あるいは学習指導要領における、パラダイム・シフトといってもよい。しかも、画期的な点がある。学習指導要領はこれまで役所的な言い回しで、法規的な文章を読まされている感じであった。今回のホームページにある説明とグラフィックスは、明確に新時代のカリキュラム目標が何かを示している。全ての教科等を、 「①知識及び技能、②思考力、判断力、表現力等、③学びに向かう力、人間性等の三つの柱で再整理」と謳っているように、非常に明確である。

「思考力」目標の位置

 各教科の単元ごとに、三つの柱について説明している。たとえば、3年生の社会科には、「身近な地域や自分たちの市の様子」という単元がある。そして「イ 次のような思考力、判断力、表現力等を身に付けること」として、「(ア)都道府県内における市の位置、市の地形や土地利用、交通の広がり、市役所など主な公共施設の場所と働き、古くから残る建造物の分布などに着目して、身近な地域や市の様子を捉え、場所による違いを考え、表現すること」とある。あるいは、「(4)市の様子の移り変わりについて、学習の問題を追究・解決する活動を通して」「イ次のような思考力、判断力、表現力等を身に付けること。(ア) 交通や公共施設、土地利用や人口、生活の道具などの時期による違いに着目して、市や人々の生活の様子を捉え、それらの変化を考え、表現すること」とある。

 いずれも、「考え、表現する」こととなっているが、これは、とても難しい。市役所や公共施設の場所と働き、建造物の分布などに着目して、「身近な地域や市の様子を捉え、場所による違い」を「考え、表現すること」とある。これは、どう「考え」たら、「考え」たことになるのだろうか。やはり、各単元において具体例を示す必要がある。しかし、学習指導要領では、そこまで配慮にいたらなかったようだ。

「思考力」とは何か

 そもそも「思考力」とは何であろうか。この問題についての説明には、やはり、哲学者の参加が必要であった。しかし、日本の哲学者の多くは、「考える」ことについて「考える」者はほとんどいない。皆、多くは、西洋哲学者についての翻訳あるいは解説者であって、その哲学の考え方を日本の学校の生徒がどのように考えれば、「考え」たことになるのかを教えてはくれない。

 パラダイム・シフトという言葉は、ほぼ日本語として多くの者が使っている。しかし、この言葉の張本人トーマス・クーンがそもそもこの言葉を使ったのは、物理学の歴史を教えていて、物理の「発見」が実は発見ではなく、それを言い出した者の「発明」によるものであり、新しい「発見」は、言い出した者がパラダイムを「発明」せずしては成り立たないものであった、というのである。たとえば、天動説は、人間が太陽を眺めてそう見えたからに過ぎない。どう見ても、地球という天体の上に人間が乗っかって太陽の周りを回っているとは見えない。けれども、遠くの天体を見ると天体の周りを別の天体が回っているではないか。地球もそうではないのか、と思い込むためには、人間主体の側にそう見ようとする「意思」がはたらかなければ、見えてこない。それは、犬も歩けば式の発見ではなく、「発明」して、それを信じ込もうとする意思がないと成り立ち得ないものである。

 さらに、パラダイム・シフトには、「そういう考えもあるけど」という妥協はない。地動説が成り立つためには、「天動説」は、排除されねばならない。けれども、地動説は天動説がなぜ、そのような間違った説明を信じるようになったのか、を説明することができる。その逆はない。

 クーンの説明は、さらにニュートンの万有引力の法則にまで及ぶ。引力は、地球上だけであれば、同じ引力によって均等に重力が働く。しかし、それが、月であったり、あるいは、2つの動く天体の間では、物体の動きは均等ということはなく、いずれも加速度的に動くことになる。よく引き合いに出される例は、2台の電車が違う線路を走っているとき、自分の電車が走っているのか、隣の電車が走っているのかわからなくなるときがある、というような例である。

 さて、ここで、考えるとは何かを、考えたい。クーンの例は、物理学における地動説と万有引力の話である。ここでは、知識項目は、トーマス・クーン=パラダイム・シフト、あるいはニュートン=万有引力の法則と=で結ぶだけである。ここに、思考はない。

「たとえば」の重要性

 ここで、必要とされる思考は、「たとえば」という具体例に即して、「具体的」に、その原理や法則は何かを「考える」ということである。

 たとえば、小学校3年生の社会科の「市役所など主な公共施設の場所と働き」は、公共施設一般では、何も考える対象と内容が出てこない。それは、たとえば、「消防署」とか「警察署」とかいうような具体的な施設の建造物とそこで働く人が出て来るまでは、何を考えたらよいのかわからない。

 そして、消防士さんの仕事は何か、というような「問題」形式ではないと何も「考え」ない。消防署=火事では、ただの知識であり、刺激=反応に過ぎない。消防署の仕事には、火事になったら、火を消すだけではなく、そのためには何が必要か、「想像力」が必要である。高い建物が火事になったらどうするか。長いはしご車が必要だ。でも超高層ビルだったらどうする。また、消防車も入れないような、狭い、密集する家屋が集まっていたらどうする。消防署の人はなぜ、あんなに体を鍛えるのか。救急隊員は、コロナ禍の中で、重病人が出たらどうするのか。このような疑問が問いかけられて、初めて「考える」のである。そして、この疑問は、個別に問いかけられねばならない。さもなくば、集団の誰かの中で「考えない」ことになる。このような無責任体制は、口裏合わせで思考はない。

 そして、自分で考え出した答えには、対抗や葛藤、何のつまずきもない場合、考えが止まる。答えのディテイルをああでもない、こうでもないという、「仮説的推論」(チャールズ・サンダース・パース)のプロセスが必要である。自分の仮説を試すというプロセスが「思考」を深化させる。

 科学哲学者のカール・ヘンペルは、科学的思考における、この仮説的推論の過程をIf-then公式で説明した。つまり、「……ならば、……だろう」という極めて当たり前の公式である。ここにおいて「ならば」は、仮説である。「だろう」は、推論である。科学において、大切なのは、「だろう」は実験的に、あるいは「経験的に」試されねばならないということにある。その答えを誰かが与えてくれたら、そこで思考は止まる。思考とは、この「ならば、であろう」のシミュレーションを繰り返すことにある。新型コロナのワクチンがなかなか出来上がらないのは、この試行錯誤の思考を何千、何万という検体において繰り返さなければならない、というせいである。しかも、初めの「ならば」が、全くの間違いであったならば、その後のシミュレーションは、すべて水泡に帰す。水泡ならば、まだよいかもしれない。命を落とす科学者がいる。野口英世は、まだ、ウイルスが千倍程度の顕微鏡では、見えないほどの相手とは知らず、自分が開発したワクチンを過信し、黄熱病にかかり「これは何だったのか」と言って死んでいったという。だから、「ならば」をシミュレーションすることの重要性は、そしてその本物に出合うことが「思考」には重要なのである。

「こまかいこと」の重要性

 このように、思考とは、何か形を決めることが重要なのではない。思考は、考える「対象」によって規定されるのであって、何かの公式があるわけではない。このことは、現象学において重要な「意識」と「志向性」という概念によって説明できる。現象学においては、「志向性」という概念がある。志向性とは、ものそのものに取りついた意識を指す。たとえば、2本の等しい長さの平行線は、線の端に取りついた線の形が<であるか>であるかによって長さが違って見える。頑張って目を細めれば同じに見えないこともない。けれども、私たちの現実生活では、この2本の等間隔の平行線は、異なる長さに見えるのである。ここで、頑張って目を細めて同じ長さだと見るのが偉いのだろうか。それとも、あるがままに自分の目を信じて、遠近法を超えて、見えるように見るのがよいのだろうか。これは、善悪の問題ではないが、自分たちの意識は、そのものと一緒にあるということを言いたいのである。つまり、意識する対象を離れては、意識はありえず、それ自体が何かを考えるのでは、意識とは何かというものは、ないのである。つまり、意識は、常に「何か」に「ついての」「意識」であり、意識一般ではありえない、ということなのである。

 このことは、学習指導要領についても言えることである。「思考力」は、主要3大教育目標の一つとして掲げられたが、それ自身では、何が思考力であるのかは、見えてこない。「身近な地域や自分たちの市の様子」も思考力の対象となるには、「たとえば」という問いに答える必要がある。「身近な地域や自分たちの市の様子」では、考える対象が何が何だかわからないので、「思考」がないのと同じである。「たとえば何を」という問いがあって、初めて思考が成り立つ。

具体例

 新しい学習指導要領では、文科省のホームページの中でこのニーズに応えている。以下の文章は、ホームページからである。

 「社会に出てからも学んだことを生かせるような学校教育を目指します。 各教科等を通じて得た力は、将来どのように生かされるのでしょうか? 『オリンピック・パラリンピックのメダルづくり』というテーマで例を示してみました。」

 「学校での学びを活用してメダルをつくってみよう。どんなメダルにする? どんなデザインにしよう?[図画工作、美術] どんな性質の材料を使う?[理科] どうすれば開催地の特徴を出せる?[社会]何枚必要で、予算はどれくらいかかるだろう?[算数、数学] どんなメダルがいいか、外国の人にも聞いてみよう![外国語、外国語活動] 過去の事例やデータを調べたり、製作者の話を聞いたりしよう![総合的な学習の時間] みんなの意見をまとめて、どんなメダルにするか決めよう![特別活動] どう加工すれば、いつまでもきれいなメダルになる? どんな材料が環境にやさしい?[技術・家庭] 表彰式でメダルを受け取る選手がうれしい気持ちになるのはどんな音楽だろう?[音楽]」

 文科省のここまでのサービスは、まさにパラダイム・シフトといってもよい。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1383986.htm

 ここで、重要なのは、「考えよう」ではない。「オリンピック・メダル」という具体である。しかも、この具体例は、例示が難しい、教科横断的に総合学習的に実践する内容をわかりやすく提示している。

 また、「○○市元気いっぱいプロジェクト!」 では、「地域と連携し、よりよい学校教育を目指す 自分の思いを自信をもって伝え合える子供を育てよう!」を掲げ、「地元の夏祭り」が具体となる。

 文科省のホームページは、これまでになく、このような「具体例」が豊富である。ただし、それは、各教科の各単元になるとその具体例までは出てこない。「思考・判断・表現」の主目標も「考える」止まりである。学習指導要領には、法的拘束力があるとされている。法律の文章には、そのような抽象的な表現が必要なのかもしれない。けれども、「具体例」のない「考える」は、「何を」「どのように」考えたらよいのか、わからないのではないか。

 このような、具体例を各単元に示すことによって、初めて実効性のあるものとなる。このような具体例は、ホームページ上に、一つや二つではなく、各単元において多く示されているならば、「思考力」をより深めることになる、と考える。

 

Profile
あさぬま・しげる ウィスコンシン大学マジソン博士課程修了、Ph.D.専門はカリキュラム論。著書に『カリキュラム研究入門』(安彦忠彦との共著、勁草書房、1985年)、『カリキュラムと学習過程』(奈須正裕との共編著、放送大学、2016年)、『思考力を育む道徳教育の理論と実践』(編著、黎明書房、2017年)

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