学制150年の歴史を振り返る
学制150年の歴史を振り返る 第2回 ― 明治・大正から昭和の中教審46答申まで ―
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2022.11.24
今年(令和4年)は、明治5年(1872年)に日本の近代教育法令である「学制」が公布されてから、ちょうど150年目の佳節に当たることから、『学制百五十年史』市販版の刊行を前に、学校制度を巡る150年の歴史を7回に分けて簡単に概観する連載をしています。
今回は、学制公布から昭和の中盤までの約100年間の概説となります。
明治時代は近代学校制度の骨格づくり
我が国の近代教育は、明治5年(1872年)の「学制」公布により開始されました。これは、当時の欧米諸国をモデルとする文明開化政策に起因するものですが、「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」との理念が広く国民に定着するまでには、様々な試行錯誤や紆余曲折を経なければならなりませんでした。文化的な風土と伝統を有する社会に新たな制度を導入するには、いつの時代も強い意思と改革努力の積み重ねが必要となります。
「学制」は尋常小学校への就学義務、中等教育、大学教育等を定めたものでしたが、公布後も、相当の間、児童の就学率は低く、学校も政府の求める水準にはなかなか達しませんでした。制度の定着を図るため、その後、新たな教育令、校種別の学校令の制定・改廃、教育勅語の発布、実業学校の制度化、小学校の授業料無償化など様々な努力が積み重ねられました。そして、明治35年(1902年)以降になって初めて就学率が90%を上回り、さらに、明治の末頃までに、各地の帝国大学や高等師範学校が設立され、国定教科書制度も整うなど、学制公布から約40年の歳月を経て、ようやく近代学校制度の基本的な骨格が整えられるようになったのです。
大正時代に進学意欲の高まり
大正期には、第一次世界大戦後の世界で起きた新たな自由教育運動を勘案しながら、内閣直属の諮問機関として「臨時教育会議」が設置されました。当時既に、尋常小学校だけでなく、高等小学校にも多くの生徒が進学するようになりつつありましたが、臨時教育会議の答申に基づく改革と国民の進学意欲の高まりを背景として、高等女学校や実業学校をはじめ多様な校種で拡充が見られ、また、大学の学部制への移行、単科大学の創設などの制度改革も実施されました。ただ、進学率が上昇したとはいえ、学校系統の分岐が加わった複線型の教育制度の下で、高等学校や大学、師範学校の上級学校に進学できたのは、同年代のごく一部の者に限られていました。
昭和初期の戦時下教育
昭和期に入ると、世界情勢の変化を踏まえ、次第に戦時下教育としての性格が強く示されるようになりました。
この時期に重要な役割を果たしたのは、昭和12年(1937年)に内閣に設けられた「教育審議会」でした。その答申に基づいて、小学校が「国民学校」へ改編されたほか、厳しい戦局の中で国民としての任を果たす人材を育てるための教育の基本精神と内容・方法が一貫して示され、次々と実行に移されていきました。また、現場では、勤労奉仕の強化や修業年限の短縮、集団疎開、学徒動員の実施など、通常の教育活動を制約される様々な困難に迫られることとなりました。
終戦による戦後教育への刷新
昭和20年(1945年)、第二次世界大戦の終結に伴い、学校を平時の体制へ戻すため、疎開児童の復帰や授業の再開等が始まりました。連合国軍の最高司令官総司令部(GHQ)からは教育改革指令が出され、教育内容、教職員、教材等の刷新に関する包括的な指示とともに、軍国主義的、極端な国家主義の排除が示されました。その後、内閣に設置された「教育刷新委員会」(後の教育刷新審議会)からの学制等に関する建議に基づいて、教育基本法、学校教育法などが公布され、
① 個人の尊厳を重んじ、人格の完成を目指す教育 ② 教育の機会均等と男女平等 ③ 6・3・3・4制(6年制の小学校、3年制の中学校、3年制の高等学校、4年制の大学)の単線型の学校制度 ④ 無償の義務教育9年制 ⑤ 民主的な教育行政 ⑥ 大学での教員養成 等を骨格とする戦後教育の仕組みが確立したのです。
組合運動、大学紛争
その後、学校整備のための関係者の多大な尽力により、戦後の経済復興と高度経済成長を経て、我が国の学校教育は著しい発展を遂げました。6・3・3・4制の単線型学校制度は、昭和40年代までに、高等学校が進学率約90%、大学・短大進学率が35%近くに上昇するなどの著しい量的発展をもたらし、それに伴って、過大規模校の発生や受験競争の激化などが問題となっていきました。
また、昭和20年以降、いくつもの教職員団体が結成され、日本教職員組合等では、教職員の待遇その他の労働条件の向上と教育政策をめぐるストライキの実施、選挙運動その他の政治的活動に傾注していきました。さらに、昭和30年代から40年代後半にかけて、全国で激しい学生運動が行われ、大学改革や政治的要求を求めるデモやストライキ等の大学紛争が各地で発生しました。
中教審46答申
このような激しい時代状況の下で、文部大臣の諮問機関である中央教育審議会は、昭和46年(1971年)に「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」の答申、いわゆる46答申を提示しました。
これは、中高一貫など学校間のくぎりを変える先導的試行、教員の資質向上、特殊教育(現在の特別支援教育)や幼稚園教育の拡充、高等教育機関のタイプ別の種別化、奨学事業の充実、国公立大学の法人化、長期教育計画の策定など、後の時代を先取りする様々な抜本的改革方策を含むものでしたが、先導的試行や高等教育の種別化などについては、時代的に、関係者の合意が得られない状況だったことから、改革が進捗しない面も生じました。
この46答申は、経済社会の発展による人材需要の増大、国民の生活水準の向上で、特に後期中等教育・高等教育への進学希望者が増大し、教育が量的に拡大しつつあることを念頭に置きつつ、個性の伸長を図るための「教育の多様化」等の視点から、戦後教育の見直しを模索しようとしたものだったと思われます。
●Profile
中澤貴生(なかざわ・たかお)
京都大学法学部卒業。昭和62年文部省入省。大分県教育委員会総務課長、初等中等教育局小学校課課長補佐、内閣官房中央省庁等改革推進本部参事官補佐、岐阜大学教授、内閣官房行政改革推進室参事官、日本学術会議参事官などを歴任。令和2年より『学制百五十年史』の編纂事務に携わる。令和4年、定年退職。