教育実践史のクロスロード
教育実践史のクロスロード ActII [リレー連載・第5回] 無着成恭 子どもたちの生活の現実から社会の「問題」を考える言葉をつむぐ――「なぜ」を問いかける、学習の原点を振り返る
学校マネジメント
2022.04.15
教育実践史のクロスロード ActII [リレー連載・第5回]
無着成恭
子どもたちの生活の現実から社会の「問題」を考える言葉をつむぐ――「なぜ」を問いかける、学習の原点を振り返る
兵庫教育大学大学院准教授 福田喜彦
(『新教育ライブラリ Premier II』Vol.5 2022年1月)
いつも力を合わせて行こう
かげでこそこそしないで行こう
いいことを進んで実行しよう
働くことがいちばんすきになろう
なんでも なぜ? と考える人になろう
いつでも もっといい方法はないか 探そう
出典:学級文集「きかんしゃ」創刊号(1949年7月発行)より一部抜粋
無着成恭の教育観の原点にあるもの
教師、「全国こども電話相談室」のパーソナリティ、住職。いまを生きる人々に無着成恭の生き方はどのように映るだろうか。無着は、1927年に山形県南村山郡本沢村の禅寺である沢泉寺に生まれた。
お寺の跡取りであったためにいつかは住職に就くことを親から期待されていたが、旧制の山形中学校を経て、1948年に山形師範学校を卒業すると同時に、新制の山元中学校に赴任した。戦前は師範学校を卒業すると、学校での勤務が義務づけられていた。
無着も最初は家を継いで住職になるための一時の教師生活と考えていたようだが、子どもたちの関わりに魅せられて教師生活の6年間を山元中学校で過ごすことになる。ここでの子どもたちとの取り組みが冒頭に掲げた学級文集「きかんしゃ」に始まる『山びこ学校』の教育実践であった。この『山びこ学校』は初版が1951年に青銅社から刊行されると、戦後民主主義の花形の教科であった「社会科」の典型例として高く評価される。
翌年の1952年には、今井正監督のもとで日本教職員組合の製作によって映画化された。『山びこ学校』は、その後も出版社を変えながら繰り返し増し刷りされ、現在は岩波文庫の一冊となっている。
残念ながら、舞台となった山元中学校は2009年に廃校となったが、『山びこ学校』の子どもたちの作品は今も何かしら私たちの胸中を打つものとして刻まれている。NHK番組『戦後史証言プロジェクト日本人は何をめざしてきたのか』の「第5回 教育〜“知識”か“考える力”か〜」では、「上から教えない『山びこ学校』の実践」というタイトルで無着自身が「山びこ学校」に至る教育実践について回顧している(2015年11月28日収録)。NHKアーカイブスでは、無着の教育の原点として学生の時に読んだ『アメリカ教育使節団報告書』に衝撃を受けたことが語られている。
以下はNHKアーカイブスから引用したものである。
出典 : https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0001810412_00000
無着は、山元中学校を退職すると1954年に上京して駒澤大学仏教学部の3年次に編入学した。
ここからが無着の第二の人生の教師生活のスタートラインである。1956年に駒澤大学仏教学部を卒業すると、私立明星学園で再び教壇に立ち、学園の教頭にも就任している。
明星学園では、国語科の教育実践を中心に教育科学研究会でも活躍した。学園を舞台にした「山びこ学校」に続く取り組みは、『続・やまびこ学校』(むぎ書房、1970年)としてまとめられている。
しかし、単なる教師としての教育活動に留まらないのが無着の底知れぬ魅力である。禅寺の子息という経歴も影響したのか「問い」への探究心が無着は人一倍強かった。
1964年からはTBSラジオ「全国こども電話相談室」の名物回答者として33年間出演している。ここでの活躍が教育者としての無着のスケールの大きさを感じるものである。
1983年に明星学園での教職を辞した後は、別の私立学校の設立に関わる誘いもあったようだが、1987年に千葉県香取郡の福泉寺、2003年に大分県国東市の泉福寺の住職を歴任して余生を過ごしている。
『山びこ学校』と生活綴方運動の断絶と継承
無着が教師として初めての実践を行ったのが山元中学校である。1934年は冷害で米がとれず、松の皮を餅にして食べるほど厳しい年であった。無着の担任したクラスの子どもたちが生まれたのは、1935年から1936年にかけての年であり、全校で最も数が少ない43名の学級であった。東北地方は、大正自由教育期に鈴木三重吉によって1918年に創刊された『赤い鳥』に始まる綴方運動の影響を受けて、戦前から生活綴方がとても盛んな地域であった。
1929年に北方教育社が設立されると、文芸主義的な綴方運動への批判に端を発した『綴方生活』の広がりに呼応した地方の生活綴方教育運動を担う秋田県の青年教師たちが中心となって、『北方教育』が1930年に創刊された。
昭和の初め、東北の農村は疲弊の一途を辿っていた。この厳しい生活の現実を綴方にして社会科学の眼差しから学ぼうとしたのが北方性教育運動であった。そして、1934年には北日本国語教育連盟が結成され、翌年には、『教育・北日本』が生み出された。
子どもたちの生活への意欲と知性を引き出すこうした生活綴方の実践は、国分太一郎や村山俊太郎といったすぐれた綴方教師が中心となって進められた。しかし、その子どもの生活に根ざした実践も治安維持法による厳しい弾圧によって長くは続かなかった。
無着が『山びこ学校』を実践した山形県もこうした生活綴方の伝統を受け継いだ地であった。だが、戦後の新教育を実践しようとした無着のような青年教師たちにとって、戦争による教育実践の空白の痛手は大きなものとなっていた。
『山びこ学校』の映画でも教育実践の創造に若い教師たちが思い悩む姿が描かれている。しかし、無着らを導いてくれるはずの中堅の教師たちは戦争や弾圧で多くが活力を失っていた。
今日の教育史を振り返ってみれば、無着の『山びこ学校』の実践は北方性教育運動の流れを受け継いだもののように見えるが、戦後の混乱した時代を生きた無着にとっては、こうした優れた先達の教育実践もまったく見知らぬものになっていたのである。
無着は、師範学校を卒業した新米教師として、目の前の子どもたちとどのような学びを作っていくかを考えることに毎日無我夢中になっていたが、具体的なそのやり方がわからずに日々試行錯誤していた。
そんな無着の教育実践にある助言から一縷の望みとなって現れたのが「生活綴方」と社会科であった。
無着も後に自著である『無着成恭の昭和教育論』(太郎次郎社、1989年)において、綴り方倶楽部が編集した『調べる綴り方の理論と指導実践工作』や平野婦美子の『女教師の記録』や『綴る生活』などから生活綴方の手法を学んだことを振り返っている。
このように無着の教育実践は、こうした戦前の生活綴方の実践記録を読み直すところから『山びこ学校』につながる授業のアイデアが構想されていった。
この北方性教育運動の先駆者で後に『山びこ学校』の解説を書くことになる国分太一郎は、無着の実践が出版された1951年を「生活綴方復活の年」と呼んでいる。国分は、『山びこ学校』の解説で、戦前の生活綴方を総括しながら、日本の教育実践の遺産に学ばない戦後の新教育の流れも批判的に捉えていた。
こうした戦後の混乱の中、紆余曲折した新教育がしっくりときていない教師たちにとって『山びこ学校』は期待の星となって共感を得ることとなるのである。
子どもの生活のリアリティと初期社会科の学び
戦後の社会科教育史では、無着の教育実践が営まれた時代を「初期社会科」と呼んでいる。教育の民主化を掲げたGHQが戦後の占領政策の中で、教育改革の基軸に据えたのが新教科「社会科」であった。
1947年と1951年に『学習指導要領』の試案として作成された社会科の2つのバージョンが教育課程に位置づけられていた時期が「初期社会科」である。
この初期社会科で新制中学校の代表的な実践の一つとして語られているのが『山びこ学校』である。
『山びこ学校』が出された時期の1947年版の第七学年から第十学年までを対象にした『学習指導要領社会科編(II)(試案)』では、「一般社会科の意義」として、そのねらいが以下のように書かれている。
無着も山元中学校での新しい社会科授業のために、『山びこ学校』の子どもたちにとってどのような学びがよいのか、『学習指導要領』も読んで考えていたに違いないだろう。
しかし、『山びこ学校』(青銅社、1951年)に綴られた子どもたちの記録には、文部省が想定していた学びとは違う生活の現実が記されている。
川合ヤエノの「教科書代」という綴方では、「14円20銭」の社会科の教科書代を母親にお願いしたら、ヤエノの母は次のように彼女に返答している。
ヤエノと母との会話には、貧しい生活の中で学校の学費をどのようにすればよいのかという学びが綴られている。こうした学びこそが無着が直面した山元中学校での初期社会科授業のリアリティであった。
『山びこ学校』の記録には随所に初期社会科の学びが記録されているが、最もまとまった綴方は「学校はどのくらい金がかかるものか」である。
「まえがき」には、山元中学校の子どもたちがこの問いを考えるに至った理由が次のように続けて述べられている。
子どもたちは、この問いかけをきっかけにして、山元村の人口や生業の統計、小・中学校の生徒数、1949年の山元村の総予算や学校の予算などを調べ自分たちはどのくらいのお金を一年間に使ったのか考えていく。この切実性のある問いこそが『山びこ学校』で展開された初期社会科の原動力となったのであった。
子どもたちの「問い」がつまらなくなっていく時代
無着が第二の教師生活を送ることになる東京での教育実践は、『山びこ学校』で経験したものとは大きく変わっていた。高度経済成長期に入った日本は戦後復興を果たしながらめざましい発展を遂げ、地方と都会の格差も広がっていた。無着も、山元中学校で関わった子どもたちとは生活の現実が全く違う環境の中で自らの教育実践を見つめ直していくことになる。
無着が関わった「全国こども電話相談室」での試みはそうした時代の転換期にあった子どもたちとの対話を重ねるきっかけとなるものであった。TBSラジオの「全国こども電話相談室」が始まったのは1964年。ちょうど東京オリンピックが開催された年であった。この記録をまとめた『TBSラジオ全国こども電話相談室①』(小学館、1997年)には、無着を中心に「教育というのは、知識を詰め込むのではなく、『なぜだろう』『どうしてかな』という子どもたちの好奇心を満たし、伸ばすことではないだろうか」という発想で、経済優先の当時の日本に対するアンチテーゼとしてこの番組が誕生したことが記述されている。先に挙げた書籍から紐解いてみよう。
経済成長が華々しい時代において、奇しくも、無着が「なんでもなぜ? と考える人になろう」と山元中学校の子どもたちに問いかけていた言葉が忘れ去られようとしていた。そうした中で、「全国こども電話相談室」でのパーソナリティの仕事は時代を生きる子どもたちに「なぜ」を考えさせる時を共有する大切な教育実践となっていた。無着は長きにわたって番組で子どもたちの「なぜ」に答えるために奮闘した。子どもから寄せられた問いを取り上げてみたい。
(5歳、男子)
この子どもの問いをもとにして、どのような授業ができるだろうか。社会科はもともと子どもの問いを大切にして授業をつくってきた。しかし、いまは暗記詰め込み型の教科として子どもから嫌われる教科になってしまってはいないだろうか。子どもが発する素朴な問いに耳を傾けて一緒に考えていくことは容易なことではない。教師の幅広い教養と絶え間なく積み重ねられた教材研究があればこそ子どもたちの深奥な問いに答えていくことが可能だろう。5歳の子どもに対する無着の答えを私たちはどのように考えたらよいだろうか。無着の答えは以下である。
学校の授業で時間をかけて子どもたちの問いに答えるのとは違って、ラジオ番組の場合は2、3分で答えなければならないので、よほど社会に対する関心が高くなければ話をするのは難しい。無着が『山びこ学校』で私たちに問いかけた子どもたちの「なぜ」から始まる社会科学習の原点とは何か。その問いかけに答える作業はいまだに私たちに残されたままである。
Profile
福田喜彦 ふくだ・よしひこ
1976年生まれ。鹿児島大学教育学部卒、広島大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。兵庫教育大学大学院学校教育研究科准教授。昭和戦前期の初等教育実践史を、東京女子高等師範学校附属小学校の『児童教育』や奈良女子高等師範学校附属小学校の『学習研究』などの実践記録から読み解く実証研究をしている。