続・校長室のカリキュラムマネジメント
続・校長室のカリキュラムマネジメント[第2回]言葉と学校経営
学校マネジメント
2020.12.16
続・校長室のカリキュラムマネジメント[第2回]言葉と学校経営
東京学芸大学准教授
末松裕基
本連載のタイトルにもなっている「カリキュラム・マネジメント」という言葉は、教育界にも徐々に浸透し、学校現場でも当たり前に使われるようになってきているようです。
たとえば、2016年12月21日中央教育審議会答申では、カリキュラム・マネジメントの3側面として、教科横断、データに基づくPDCAサイクル、人的・物的資源の効果的活用が挙げられたほか、2017年学習指導要領総則でもその重要性が指摘されました。
また、個人的には「カリキュラム・マネジメント」の社会への浸透を違和感とともに次の三つの場面で記憶しています。
まず、授業では一切触れていないものの、教職課程のレポートにおいて、学部生が「これからの学校はいま求められるカリキュラム・マネジメントに一丸となって取り組んでいく必要がある」と書いたことです。
次に、学部一年生の教職入門という授業において、ゲストスピーカーとして講義を担当いただいた現職小学校教員が、教師に求められる役割に「カリキュラム・マネジメント」を迷いなく挙げたことです。
そして、ある自治体の中堅教員研修について企画打ち合わせをしている際に、「カリキュラム・マネジメント検討用シート」が準備されており、「カリマネ」という略語表現が当然のように多用されていました。
学校経営を担う者は、これらの言葉の浸透をどのように受け止め、向き合っていく必要があるでしょうか。言葉をどのように使っていくか、意識していくかは学校経営と実は密接なつながりがあると思います。今回は、普段のわたしたちの言葉の使い方、向き合い方、そして付き合い方について考えていきましょう。
言葉にどう向き合うか
詩人の長田弘さんは、「戦後という時代での一コの経験をとおしていえること。これがホンモノだと揚言されるものほどあやういものはないし、信じられない」とかつて述べました(『一人称で語る権利』平凡社、1998年)。
教育界にも、ある日突然、降って湧いたように特定の言葉が登場し、学校でも当然のように使い始められます。キャリア教育や金融教育、プログラミング教育など「○○教育」の多発の問題はよく指摘され、問題視されるところですが、「生きる力」をはじめ、「アクティブ・ラーニング」「コミュニティ・スクール」「組織マネジメント」「チーム学校」そして「カリキュラム・マネジメント」など、例を挙げれば切りがないほどです。
未来志向で教育をより良くしようとするには、新たな言葉や取組によって、慣習を打破する必要があり、その際に新たな言葉が現状に勢いを与えることがあります。そのため、新しい概念や言葉が、教育界でも必要になる時もありますし、それによって、様々な関係者の意識を変えたり、新たに資源を集める原動力になったりすることもあります。
ただ、新たな言葉やその使われ方によって、かえって、従来うまくいっていたことができなくなったり、また、それらを使うことによって、実際はなにも取り組んでいないのに、なにかに取り組んだ気になったり、実は十分な取組ができなくなったりしていることも多いものです。わたしたちは、言葉にどのように向き合っていく必要があるでしょうか。
言葉とどう付き合うか
先の長田弘さんは、前掲書において別のエッセイ「言葉とつきあって」のなかで、自らが言葉とどう向き合っているかを赤裸々に語っています。
なぜ、そこまでこだわる必要があるのかと時には読み手が不思議に思うくらい、言葉との向き合い方をしつこく論じています。彼はその理由を次のように述べています。「ただ言葉は、選択である以前にまずわたしたちにとって時代というか状況センスによる一つの「方向-意味」(センス)をもってしまっていることを無視すべきではない、といいたいまでなのです」と。
そのように述べる彼は「じぶんにたいする徹底した疑い」をもつことの必要性を指摘しています。もう少し彼がなににこだわって、ここまで強い口調でこの問題を論じようとしているかを確認していきましょう。
彼は次のようにも言います。「いいたいことをいい、書きたいことを書くための言葉そのもののなかには、じつは『暴力』がその根底のところにひそんでいる(中略)言葉は、わたしにとっては、なによりまず言葉の根っこのところにひそめられる『暴力』というものを明るみに出すことによって、言葉なんです。」
長田さんは、自らを言葉の正しい書き手であるとは思ってはおらず、そういう正しさからは自分は遠い所におり、常に不安を抱いているとも吐露しています。そして、そうした不安を自覚的に引き受けることで、改めて言葉を自ら選び直すほかないと常々考えているというのです。彼は、このように自らの言葉への向き合い方を述べた上で、次のような決意を明らかにしています。
「じぶんたちの時代をつくっている言葉のいかがわしさ、うろんさ、うさんくささを率直にみとめることと、時代に追従していかがわしくうろんなうさんくさい言葉を引きまわすことは、まったくべつの行為、べつの言語行為です。
わたしは、わたしたちの時代の言葉のそなえるいかがわしさ、うろんさ、うさんくささをみとめます。それを荷担するしかないとおもいます。そこから繰りかえし、いくどでも言葉にむかって出発するという方法しかないとおもいます。」
学校経営を進めるにあたっても、同じような姿勢が必要になると言えます。たかが言葉、されど言葉です。
われわれは、日常の仕事の仕方を言葉によって規定していますし、言葉によって物事を考え、言葉の使い方によって学校の経営のなされ方が決まってくると思います。
いま一度、目の前にある教育をどのような言葉によって進めようとしているのか、自らが携わり、教職員とともに行っていこうとする学校経営がどのような言葉とともにあるのか。日常的に使われている言葉にあまりに無関心、無意識になっていないか。このようなことを確認することから、学校を語る言葉が紡がれていくと思います。
Profile
末松裕基(すえまつ・ひろき)
専門は学校経営学。日本の学校経営改革、スクールリーダー育成をイギリスとの比較から研究している。編著書に『現代の学校を読み解く―学校の現在地と教育の未来』(春風社、2016)、『教育経営論』(学文社、2017)、共編著書に『未来をつかむ学級経営―学級のリアル・ロマン・キボウ』(学文社、2016)等。