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教育実践史のクロスロード

小川英彦

教育実践史のクロスロード[リレー連載・第4回] 石井亮一 特別支援教育の先駆的実践遺産から学ぶ―障害の発見と障害に応じた指導法開発

NEWトピック教育課題

2021.01.25

教育実践史のクロスロード[リレー連載・第4回]
石井亮一
特別支援教育の先駆的実践遺産から学ぶ
―障害の発見と障害に応じた指導法開発

愛知教育大学幼児教育講座教授 
小川英彦

『新教育ライブラリ Premier』Vol.4 2020年11月

 わが国の障害児の教育と福祉は、戦前からの先駆的実践者の文字通り血の滲むような開拓的な努力のもとに向上・発展してきて今日に至っている。その歩みは、いばらの道そのものであったはずである。

 ここでは、教育福祉という観点で、最初の開拓者である石井亮一(1867〜1937年)の実践遺産から今日の特別支援教育を拓くヒントを考えてみたい。

「白痴児」(知的障害児)との出会いを大切に

 今日までの特別支援教育の歩みをふりかえると、1979年に養護学校義務制が施行され、重度の障害の子どもたちを、2007年に特殊教育から特別支援教育へと新しい制度になり、発達障害の子どもたちを、教育対象に加えた。教育現場では、特別なニーズのある子どもたちとの出会いを大切に、障害のほかにアレルギー、病弱、外国籍、貧困、被虐待などの多様性を受け入れる時代になりつつある。インクルージョン教育の課題である。

 ところで、石井と障害児との出会いはどのようであったろうか。1891年、立教女学校の教頭として在任中に濃尾大地震が起こり、家庭を失った女児が醜業者によって人身売買され、転落していくことに大きな衝撃を受ける。石井はこれを看過できず、「普通の女子教育には世間その人あり、余はそれらの不幸なる少女を引き取り家庭教育と学校教育の調和を計らん」(日本精神薄弱者愛護協会『石井亮一伝』)と決意して、20余名の孤児を引き取り、「聖三一孤女学院(せいさんいちこじょがくいん)」を1891年12月に東京下谷西黒門町の萩野吟子医院を仮校舎として開設している。

 石井が目指したのはペスタロッチ主義によるものであった。当時の孤児救済団体は6歳以上の入所を一般としていたのに対して、聖三一孤女学院は入所資格のない幼児から対象としていた点に特徴がある。当時、岡山孤児院の施設長であった石井十次と名古屋で会ったことを契機に、三つの定則を掲げている(『女学雑誌』301号)。

 この開設にあたっては、キリスト愛に基づくことはもちろん、当時の児童問題への鋭い洞察、幼児期から学齢期を対象とする考えがあった。「女子に生の尊さを知らせずして何が女子教育だ」という述懐からして女子教育者の強い使命を考えさせられよう。教頭職の傍らで、おむつ交換やミルクを飲ませるといったエピソードが残っている。

 対象とした孤女の中に、太田徳代という子がいた。他の子どもたちとは違ってどうにも指導できないと助教師が訴えてきた。そこで石井はその「白痴児」の指導にあたることになったのが、知的障害への対応の始まりである。

「生理学的教育法」(障害児教育方法)を求めて

 本稿で注目したいのは、「白痴」という障害の事実を知らずに取り組むのはいかに徒労に終わらざるをえないかということである。石井はそれゆえに教育方法の樹立のために1896年にアメリカに渡っている。

 当時のアメリカでは、知的障害児の学校が設立されていた時代であった。フランスからアメリカに来ていたエドワード・セガンによって、生理学的教育法を受けることで知的障害児への教育が可能となることが証明されていた。この生理学的教育法は、身体活動を含めて教育を行うという点に主眼点があった。セガンは、知的障害児(者)を治療と教育と福祉の対象としてとらえ、一生を彼らの問題改善・解決に尽力した人物である。

 石井は、この生理学的教育法をセガンの未亡人から学んだほか、ヘレン・ケラーとも会っている。その際にヘレン・ケラーが石井の前でハムレットの一節を朗読し、石井はたいへん感動したという逸話がある。約7か月の渡米中に、代表的な知的障害児の学校を訪問するなど、最先端の教育現場や文献から知的障害についての知識を学んでいる。いわゆる実地研修とでも評価できよう。海外の研究の吸収とわが国への適用という成果は、1904年に『白痴児、其研究及教育』という体系的専門書として刊行されることになる。全く対応がなされていない状況での石井の卓見と研究姿勢は、まさしく特別支援教育の礎石であり、大いなる偉業として後世に伝えたいものである。

障害児教育の試行 孤女学院から滝乃川学園へ

 滝乃川学園は精神薄弱児施設で戦前わが国の都市に存在した20の施設の嚆矢であり、劣等児等を対象とした小学校に併設された特別学級とも区別される。福祉施設の性格を有しつつ、その活動は教育的な営為であったと理解できよう。教育福祉の両面を見出せるのである。

 石井の「白痴」教育とその施設構想は、府下滝野川、巣鴨、谷保(現国立市谷保)へと移転する過程で、徐々に実現されていく。まさしく教育方法の近代化であった。1896年に帰国した石井は、「白痴児教育部」を計画し、翌年1月の『基督教新聞』に「白痴」女児募集広告を大須賀亮一の名前で載せている。募集条件は女児の「白痴」で12歳以下とした。1897年に学園名を「孤女学院」から「滝乃川学園」に改称している。最初は5〜6名の女児でスタートしているが、1899年の入園希望児は男子3名と女子1名というように、男児の受け入れを可能としている。さらに、1901年は200名を超える希望児が殺到している。これは、1900年に第三次改正小学校令によって知的障害児の就学義務が免除されたことに起因する。すなわち、福祉の機関が教育の受け皿としての役割を果たしていたと理解できよう。この後、滝乃川学園は孤児を新たに受け入れることをやめて、本格的に知的障害児教育へと再出発している。二度目の渡米研修を実施しており、その意気込みが感じられる。

 学園では「白痴」を対象とした特殊部のほかに、震災孤女への女子教育も行われ、学齢児には初等、中等教育を行い、中等修了者には保母養成部にて、精神薄弱児に関する特殊の教育及取扱法を学ばせ、卒業後の自立に繋げる構想を展開した。今日的に言えば、特別支援教育へ制度変更した中で、養成校での教員免許状取得学生に発達障害の基本的知識と指導法を教える発想に似ており、興味深いものである。

 この女子教育は、静修女学校校長、華族女学校仏語教師であった渡辺筆子が担当した。筆子は男爵渡辺清の長女として1861年長崎大村で生まれた。1880年に小鹿島果と結婚し3人の女児を授かるが、長女の幸子は「白痴」と告げられ、次女の恵子は病弱で亡くし、三女の康子も同様に病弱であり、この頃の筆子の悲しみはいかばかりであっただろうか。さらに、1892年に夫は肺結核で帰らぬ人となっている。

 石井は学園の経営難から静修女学校で教鞭をとっていたこと、互いが聖公会のクリスチャンであることから、学園の支援者であり園児の保護者であった筆子と1903年に麹町聖愛教会で結婚する。二度目の渡米後に二人の娘を学園で預かりたいという石井の言葉に深く感動し、筆子は渡米のために必要な書類を整え、資金作りをしたという秘話が残されている。近代女子教育の先駆者であり、筆子の内助を得て、まさしく二人三脚で石井の事業は発展していくことになる。

 この頃の障害児教育方法について、1904年刊行の『白痴児其研究及教育』をながめてみると、「生理学上の原則を応用したる器械と方法とによりて、健全なる児童の成長発育する順序を追ひ、以て其微弱なる身体と精神とに、有意的感化を加ふる、の謂ひなり」と定義している。これは先述したセガンの生理学的教育法を取り入れ、「児童の運動、知覚、反射、自発的活動等の諸機能を発達」させるために「生理学上の原則を応用したる方法と器械」を用い「五感の訓練」を行うというものである。ここからは、一人ひとりの発達の状態を把握して、健常児の発達段階をふまえつつ、障害に応じた指導法を明らかにして実践を進めていこうとすることを今日に投げかけている点を見落としてはならない。

 加えて、同書によると「白痴」はすべて遺伝に起因するという原因論に批判的見解であり、遺伝説を否定するためにかなりのスペースを割いて、病理学視点と教育学視点の両方から「白痴」の分類をしている。さらに、後者の視点から障害児教育方法を考案しているが、言語の教練、覚官の教練、実物教授、幼稚園、算術、読方教授、訓練を柱立てて、その方法の実際が述べられ、教育効果が大きいことが力説されている。

 基本的な発想は「精神の発育を障礙せられたる児童の教育保護につきては仏蘭西語のメディコペダゴヂック(治療教育)こそ、最も能く其意を言明するものと云うべく、実に其進歩発達は、教育と医療と看護との協力によって、初めてこれを見るを得べきなり」としている。ここには、ヨーロッパでなされていた治療教育学に目を向けたという先駆性があるが、教育・福祉・医療・心理などの専門性の補完が障害児のより一層の発達には欠かせないという指摘であり、今日的には、地域での連携、包括的支援の着眼につながると評価しておきたい。

滝乃川学園の新たな出発 巣鴨への移転、そして谷保へ

 1906年に学園は滝野川村から北豊島郡西巣鴨村庚申塚に移転した。1908年に第1回感化救済事業講習会で「白痴児教育の実験」と題して講演を行っている。ここでは、「白痴」の状態を、身体発育の状態、運動の状態、精神の状態、感覚の状態、記憶、本能、言語の特性から取り上げて従来の見解に加えられている点が特徴である。「脳をして益々健全ならしむる」と教育の可能性を強調している。それは、生理学、病理学、心理学、教育学の当時の学問水準にかない、さらに、キリスト愛からなるという裏づけによるものであった。「精神発達ノ障害ト身体発育ノ制止トハ相伴フ」と心身の相関関係にも言及しているが、これは「痴児ニ就テ」(『児童研究』第12巻第10号、1909年)での長年に及ぶ実態調査に基づいていた。

 この頃の明治40年代になって、わが国でも師範学校(岩手、姫路、福岡女子、東京高等師範)の附属小学校での特別学級の開設が始まるようになった。乙竹岩造の欧米視察やドイツのマンハイムシステムの導入によるところが大きいとされる。さらに、就学率が90%を超える中で知的障害児が学校教育の枠外にはじき出されている教育免除が問題とされたり、日清・日露戦争を契機に急速に発展してきた資本主義が国民の生活のしくみを変え、障害児問題を家庭内だけで私的に解決することが困難になったりしたことで、明治政府、内務省が講習会を開き啓蒙する必要となったわけである。

 石井は1918年に東京府に設置された児童鑑別委員会の委員に高島平三郎らと共に委嘱されている。同年に発表された「白痴教育発達史」(中央慈善協会『精神異常者と社会問題』)によると、「児童各個の精神状態を研究して、その特異なる性質並びにその能量を研究して、その現状を知ると共にその将来に於ける発達の程度をも予定し、かくて得たる事実を基礎として」こそ、初めて科学的な障害児教育方法が生みだされるという学問の信念へと深化していっている。この石井の研究姿勢からは、児童一般の心理を問題とする教育心理学ではなく、臨床心理学であった点を導くことができる。換言すれば、「白痴」の研究は教育のための研究であるものの、学園の子どもたちは研究のための材料ではないということになる。

 1920年に園児の失火により園児6名が死亡する事故が起き、蒐集した外国専門書、雑誌、外国製教材なども灰燼に帰した。石井夫妻は責任を感じて学園の閉鎖を決意するが、貞明皇后をはじめ、心ある人々から激励と義援金が贈られ、事業の継続をあらためて決意する。事業の安定をはかるため財団法人化し、財界からは渋沢栄一が支援に乗り出した。ただ、財団法人認可後も依然として財政は厳しく、昭和恐慌の影響下で莫大な負債を抱え、第3代理事長の渋沢も没し、学園運営はさらなる困難を迎えていた。

 火災後、児童研究も再開され、東京府は小石川鑑別所を発展させて児童研究所とする構想を立て、学園の児童研究所に東京府代用児童研究所を併置することを1920年に依頼し、翌年実現している。ここでは、東京府下の要保護児童の診断と相談を行っている。このまとめが『東京府(代用)児童研究所報告』である。今日的にいえば、地域のセンター的役割を始めた画期的な業務であったと位置づけられよう。

 1919年、1920年に発表された「白痴低能児の処遇に就て」(『東京府慈善協会報』第7号)では、「精神薄弱」という用語をかなりの頻度で使用している。これまでの白痴、痴愚、魯鈍の三つの程度に中間児を加えているが、その包括する概念として使うようになっている。発達障害という、知的障害がないものの特異な行動がみられる子どもへの今日の着目と共通して、対象拡大を行っている点は興味深い。

 1928年の谷保への移転は、16歳以上の園生が3分の2を占めるようになり、付属の農園設置構想によるものであった。経営の厳しさは続くものの、礼拝堂を敷地の中心に据え、キリスト教主義の事業は現在まで継続している。石井の功績は高く評価され1928年に勲六等瑞宝章が授けられている。1934年に現在の日本知的障害者福祉協会の初代会長に就任、1937年に亡くなっている。享年70歳であった。まさしく特別支援教育の金字塔である。

■参考文献
・津曲裕次『シリーズ 福祉に生きる 51 石井亮一』大空社、2009年
・小川英彦「石井亮一の知的障害児教育福祉思想に関する歴史研究」愛知教育大学幼児教育講座『幼児教育研究』第12号、2005年

 

Profile
小川英彦(おがわ・ひでひこ)
1957年生。愛知教育大学大学院教育学研究科修了。同大学幼児教育講座教授。障害児教育と障害児保育の歴史と内容を研究。単著に『障害児教育福祉の歴史―先駆的実践者の検証』『障害児教育福祉史の記録―アーカイブスの活用へ』など(シリーズ全6巻)。2012年より愛知教育大学附属幼稚園長併任。

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