続・校長室のカリキュラムマネジメント
続・校長室のカリキュラムマネジメント[第9回]なにを目指して教育するか
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2021.02.03
続・校長室のカリキュラムマネジメント[第9回]なにを目指して教育するか
東京学芸大学准教授
末松裕基
本連載の第4回でも述べましたが、エビデンスだけでなく、科学的合理性が重視される医療の世界でも、最後の最後はどんなに手を尽くしても人は死ぬという事実からは逃れられません。
そのため、患者やその家族が、医者や看護師、医療スタッフに向かって「ありがとうございました」「この病院で最期を迎えられてよかったです」と思えるかどうかが、医療行為にとっては大切になると言えます。
確実性が乏しく、科学的合理性を突き詰めることにも限界がある教育行為の場合は、医療の世界以上に、そのような感情や温かさが目指されるべきではないでしょうか。
前回、人間形成の物語の重要性について述べましたが、人がどう生きるか(またはその裏返しで、どのように死ぬか)ということについては、正解はありません。
では、正解がないからといって、なにも考えなくてよい、または、不安に煽られて、わかりやすい答えに甘んじてよいかというと、それは人間としての思考停止、そして、社会の責任放棄につながりかねません。
「答えがないから考えなくてよい」ではなく「考えることが答えだ」。このようにも言えます。
研究者の中にも官僚的な人が増えてきましたが、官僚制の恐ろしさは歴史が証明していますし、官僚制の特徴は、問題があり、悪い状況が加速しているにもかかわらず、誰もなにも意見を言わず、悪化するシステムや失敗の動きを誰も止められないということです。無思考や無責任体制ほど人々を脅かすものはありません。
奥深い土地の温泉のよう
知人の三浦衛さんは、出版社を営むかたわら、小説や詩集も自ら刊行されています。先日、新たな詩集をご本人からいただき、わたしは毎日それを朗読するのを最近の愉しみにしているのですが、その詩集の「あとがき」に「陽子先生」と題した文章が掲載されています。
陽子先生は、三浦さんが小学校一年生のときの担任の先生で、その名のとおり、あたたかいお人柄だったそうです。
その先生の訃報が故郷の秋田から届いたことを受けて、陽子先生との想い出を三浦さんは訥々と語っています。
「学校といえば、今は、いじめや自殺の問題が連日マスコミを賑わし、学校受難の時代ともいえようが、学校生活の入り口で陽子先生に受け持ってもらったことが、小、中、高、大学までの、またその後の生活を決定づけたといっても過言ではない。寂しがりの私にとって、陽子先生のいる『学校』は、たとえば奥深い土地の温泉にゆっくりつかっているようでもあり、学校の行き帰り、ぽかぽかと温かくなるような気がしたものだ。」
(『鰰 hadahada』春風社、2019年、93頁)
陽子先生が亡くなったことを三浦さんの実家のご家族が知ったのは、故郷の新聞の「おくやみ」欄だったそうで、都会と違って、「おくやみ」欄は縁のあった一人ひとりを思い出し、思い浮かべ、冥福を祈るための大切な時間を提供してくれると三浦さんは述べ、次のように語ります。
「だれも数としてなど扱われたくはない。一人ひとりは、よくみれば、皆、だれとも似ていない取り替え不能な真実の物語をつむぎながら暮らしている。だれとも似ていない生を生き、死んでゆく。そのことの一端を地方紙は取り上げ、人の生き死にについて、人生について、しばし考える時を与えてくれる。」
三浦さんはこのように陽子先生を偲びながら「一年生の短い、また後から思えば長い、たとえば縁側に立ち、山の端から刻々昇り始めた朝陽をずっと眺めていた懐かしい時間と、六、三、三、四制の学校生活を色付けしてくださった陽子先生をすぐに思い浮かべた。その後の学校生活で、たとえテストの成績がふるわなくても、失恋しても、部活動で怪我をしても、いやな先生がいても、友だちを傷つけ、友だちに傷つけられても、そのことで学校に絶望するまでには至らなかった。学校のイメージにとって、小学校の先生がいかに大きな役割を果たすかを思い知らされた」と述べています。
一人ひとりの物語を
思想家の鶴見俊輔さんも、かつて小学校時代の校長が、入学してまもなく、休み時間などに、全校児童、一人ひとりに、固有名詞で話しかけている姿を見て、驚き感動したとさまざまなところで歳を重ねてからも何度も語っています。
学校がなにを目指すか、なんのために教育を日々行うか。決してそれは短期的な成果にはあらわれないかもしれませんが、三浦さんや鶴見さんのように、教育を受けた側にも、それぞれの学校体験を固有名詞で語れるような記憶が残るかどうかということが大切なのではないかと思います。
これは対子どもだけに言えることではないと思います。保護者や地域の人とも、具体的な固有名詞でどれほど語り合えるか。または、個々の人間関係上にどれだけ、エピソードや具体的な記憶が培われるかということです。
これは相手のことをどれだけ知っているかということだけが大切なのではなく、相手に関心をどれだけもとうとし、理解しようとしているか。その想像力を養うために、どれだけフィクションも含めて、われわれがさまざまな世界観、社会観に常日頃から触れているかということが問われます。読書によって教養が必要となるのはこのためです。
先日、教員免許更新講習で、学校の組織としてのあり方や学校経営の基本的な考え方について授業をする機会を得ましたが、その際には、先ほどご紹介した三浦さんの「あとがき」をその場で授業の締めくくりとして朗読しました。
そしてそこでお話しし、問いかけたのは、日々の業務ややらないといけない仕事に忙しく追われているとは思いますが、たとえば、成人式を迎えて、仲間と再会した若者が、小学校や中学校の想い出をどのように固有名詞や具体的なエピソードとともに語りうるか。または、成人式の二次会に呼びたくなるような先生が彼らにどの程度いるか。そういうことが大切なのではないかということでした。
もう教育を受けた本人は高齢で、その恩師は亡くなっている場合でも、「あの先生に出逢えてよかったな」そんな風に想い出せる学校が多くあってほしいです。
Profile
末松裕基(すえまつ・ひろき)
専門は学校経営学。日本の学校経営改革、スクールリーダー育成をイギリスとの比較から研究している。編著書に『現代の学校を読み解く―学校の現在地と教育の未来』(春風社、2016)、『教育経営論』(学文社、2017)、共編著書に『未来をつかむ学級経営―学級のリアル・ロマン・キボウ』(学文社、2016)等。