教育実践史のクロスロード
教育実践史のクロスロード ActII [リレー連載・第1回] 西郷竹彦 「教育的認識論」が主観と客観を結び、子どもたちを世界へと導き入れる―新学習指導要領を相対化するために
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2021.08.23
目次
教育実践史のクロスロード ActII [リレー連載・第1回]
西郷竹彦
「教育的認識論」が主観と客観を結び、子どもたちを世界へと導き入れる
―新学習指導要領を相対化するために
大阪経済大学准教授
樋口太郎
(『新教育ライブラリ Premier II』Vol. 2021年4月)
新学習指導要領を相対化するために
今回、西郷竹彦氏に関する文章を執筆する機会に恵まれた。私自身、修士論文の成果をまとめた樋口太郎「西郷竹彦の文学教育理論に関する一考察」(『京都大学大学院教育学研究科紀要』49号、2003年)以来、氏の文学教育論、国語教育論からは遠ざかっていた。しかし、新学習指導要領やその先の教育の潮流までを見通した視点からその実践の意味づけを行うという企画趣旨に触れ、樋口太郎「能力を語ること」(松下佳代編著『〈新しい能力〉は教育を変えるか』ミネルヴァ書房、2010年)以来考えてきた「能力と教育」というテーマに氏の議論がまさしく関連するものであると再認識した。それは、新学習指導要領を冷静に見つめ、批判的に捉え直す契機ともなるだろう。こうした現代的意義という点から、本稿は読者の要求にまず一つ応え得ると考える。
もう一つは、一人の教育研究者・教育実践家の理論形成史に触れることで、読者が教師生活において培ってきた理論知、実践知を顧みる契機にし得るという歴史的意義である。西郷竹彦(1920-2017)は、文学理論や教授学などの諸学の理論に学ぶとともに、自らが主宰した文芸教育研究協議会(文芸研)の教師たちとの授業実践の交流を通して、戦後の文学教育・国語教育理論の展開に多大な影響を及ぼした人物である。『西郷竹彦文芸・教育全集』において、その理論は「文芸学」「文芸教育論」「教育的認識論」より成る体系として結実している。こうした提起に至るまでの西郷の歩みをともに追っていこう。
「文学体験」論─教育目的論の提起
西郷は、第二次世界大戦後のソビエトでの抑留生活より帰国ののち、民話や児童文学の分野で活躍していた。そのなかで、読者の思考と感情に強く働きかけるという文学の教育的意義を実感する。「生活体験」には作品を自分のこととして読むという良い面もあるが、作品世界を離れて自分の生活文脈だけで読んでしまう可能性もある。これに対し、読者を作品に対して関係づけ、読者を登場人物の立場に立たせるような「文学体験」の創造を教育目的としたのである(西郷竹彦『子どもの本』実業之日本社、1964年)。
さらに、「生活体験」に比して「文学体験」を重視する西郷の姿勢は、文学を虚構として捉えるという立場とも連関している。虚構の本質は「現実そのものより高次の『現実』(真実)を創造する」ものであり、文学という虚構世界の体験から、より本質的な現実の認識を獲得できるとするのである(西郷竹彦『文学教育入門』明治図書、1965年)。
「形象論」─指導過程論の提起
読者の「文学体験」の成立という教育目的に対し、西郷はまず指導過程論の開発に取り組んだ。その契機となったのが「形象論」である。文学とは言葉によって「形象」された芸術であり、その「形象」を読み解くためには、「ことばの概念に拠りながら、しかもそれを超えてひとつの表象をつくりあげてゆくという複雑な思考と想像の心理過程を経なければならない」(西郷竹彦「文学形象とその読みとり」『教育科学国語教育』80号、1965年7月)。
読者の「思考と想像の心理過程」に着目すれば、読む過程では「継時的に概念化⇔表象化」することが重要となる。まず「とおしよみ」においてものごとの関係性を頭の中で思い描く「表象化」に重点を置き、次に「まとめよみ」において登場人物の様子を言葉によって抽象化・一般化する「概念化」が行われることになる(『文学教育入門』)。
こうして、虚構世界と読者の心理過程を結びつけるものとして指導過程論が提起された。ここで、西郷が「教材を読みすすめるときに読者である子どもたちの視線が、だれに、どこに向いているか、だれと同化しているか」が重要な問題だとしている点に注目したい(同上)。この「読者の視線」と登場人物との関係から「文学体験」の原理を考えることが、次の「視点論」の提起へとつながっていく。
「視点論」・「人物論」─教育内容論の提起
「形象」に代わる文学の内的構造を説明する原理が「視点」である。西郷によれば、「文学の世界は、形象の相関関係が一定の視点との関係において構造化」され、「読者は視点を媒介として形象と向かいあう」。「視点」とは「作者と現実、作者と作品、作者と読者、また、読者と作品、読者と現実、読者と作者の関係を媒介する」ものなのである(西郷竹彦「文学作品の視点と教授=学習過程・方法」『教育科学国語教育』101号、1967年3月)。
まず、視点を置かれた人物と読者が体験を共有する「同化」、その体験を客観化する「異化」、両者の統一である「共体験」という「文学体験」論が提起された。これに、作品世界内の登場人物の視点に重なる「内の目」と、作品世界の外側に設定される「外の目」という「視点」概念を組み込んで、①「内の目」→「同化」、②「外の目」→「異化」、③「内の目」と「外の目」の重なり→「共体験」という図式が成立した(西郷竹彦「〈外の目〉と〈内の目〉による構成」『教育科学国語教育』108号、1967年10月)。
『ごんぎつね』であれば、読者はごんの「内の目」に寄り添いながら物語を読んでいく①の状態にあったものが、最終場面では兵十に「視点」が移り、③の状態に変化する。この視点の転換により、ごんはその命と引き換えにしか兵十と通じ合えなかったという作品の悲劇性が高まるのである。「文学体験」の形成という問題意識が、文学作品の内的構造を示す「視点」の概念と結びつくことで、「視点論」として体現したことがわかる。そして、この「視点論」を含む「文芸学」は教師だけでなく子どもも学ぶべきものとされた(西郷竹彦「文学理論の学習は必要か」『教育科学国語教育』105号、1967年7月)。「視点論」が教育内容論として提起されたのである。
しかし、話者による物語の情報制御のあり方を示す「内の目」「外の目」を、読者による登場人物の心情理解のあり方に結びつけることへの疑義が示された。これを受けて、「作者・話者・人物・読者」という四者の相関関係より成る「人物論」が提唱されることになる。その一つが、「人物と読者の関係」である(西郷竹彦「〈くりかえし〉がきざむ人物像」『教育科学国語教育』134号、1969年12月)。
『注文の多い料理店』を例にすれば、読者がはじめて読むときは、登場人物である「二人の紳士」が料理店の真実を知らず読者もそれを知らないという「人物も、読者も知らない」の関係にあたる。しかし再度読む際には、読者は結末を知っているため「人物は知らないが、読者は知っている」の関係に変化する。これにより、上述の疑義を乗り越えるとともに、「視点」に頼ることなく作品の構造を説明できる。このことは、「文芸学」を教育内容として教えるという志向をさらに強めるとともに、教育内容の精選という新たな方向性をもたらすことになる。