教育実践史のクロスロード
教育実践史のクロスロード ActII [リレー連載・第1回] 西郷竹彦 「教育的認識論」が主観と客観を結び、子どもたちを世界へと導き入れる―新学習指導要領を相対化するために
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2021.08.23
目次
「系統指導論」─教育内容の精選化
西郷は、1980年前後から「国語科教育の全体像」の追究を強く主張し始める。そして、「文芸学」から抽出した概念を教育内容とし、それを系統性の原理とする「系統指導論」が提唱された。「視点」という概念は「人物」という用語を用いて教えることができ、「人物」を軸として系統性を考える「めりはりのある授業」が重視されることになったのである。
具体的には、小学校の低学年では「人物」とは何か、中学年では「人物対人物の関係」「人物と物の関係」「人物と状況」「人物と話者」、高学年では「人物と読者の関係」「人物の表現方法・手段」を教えるとしている(西郷竹彦監修・岡山文学教育の会著『文芸教材の系統指導』明治図書、1980年)。
「教育的認識論」─教科横断的な指導へ
しかし、文学教材から導出された教育内容を国語科全体の系統指導に結びつけるには困難も伴った。そこで、教育内容から「ものの見方・考え方」へと系統性の原理を移行させ、それを「認識の方法」として教えることで、「認識の内容」という作品の「思想」的部分(本質・法則・真理・真実・価値・意味)を形成する国語教育論が提唱されることになる(西郷竹彦『文芸研国語教育事典』明治図書、1989年)。「ものの見方・考え方」として、小学校では「観点」「比較(類比・対比)」「順序、展開、過程、変化、発展」「理由・原因・根拠」「類別」「条件・仮定」「構造、関係、機能、還元」「選択・変換」「仮説・模式」「関連、相関、類推」、中学校・高校では「多面的・全一的・体系的」認識、「論理的・実証的・蓋然的」認識、「独創的・主体的・典型的」認識、「象徴的・虚構的・弁証的」認識が提案されている。
小学校低学年における「順序」であれば、『おおきなかぶ』における〈おじいさん→おばあさん→孫→犬→猫→ねずみ〉という人物の登場順を思い浮かべればよい。体の大きなおじいさんから始まって、最後に一番小さなねずみの登場によってようやくかぶが抜ける。この「順序」の認識が、小さな存在との連帯が大きな力を生むという「思想」の形成へと結びつくのである。また、四季を扱った説明文教材では、〈春→夏→秋→冬〉という「順序」をおさえることが文章理解において重要となるだろう。このように、「ものの見方・考え方」を系統性の原理として、各学年、各領域(文学作品、説明文、言語・文法、作文、読書など)の「関連・系統指導」を行うのである。以上が「教育的認識論」であり、他教科や総合学習との連携にもつながっていくことになる。
新学習指導要領を「教育的認識論」から捉え直す
新学習指導要領では、「知識及び技能」「思考力、判断力、表現力等」「学びに向かう力、人間性等」という「資質・能力の三つの柱」をもとに、内容ベースから能力ベースへのカリキュラム改革が行われている。しかし、系統性の原理としての「資質・能力」と「ものの見方・考え方」は似て非なるものである。後者は文学教育、国語教育の教材・教育内容研究の成果から導き出されたものだからである。
新学習指導要領にも、学習過程において「資質・能力」と相互に影響し合う「見方・考え方」という概念が存在する。中教審答申(2016年12月)の「別紙」では、「言葉による見方・考え方」として、「自分の思いや考えを深めるため、対象と言葉、言葉と言葉の関係を、言葉の意味、働き、使い方等に着目して捉え、その関係性を問い直して意味付けること」とある。しかし、この「見方・考え方」はあくまで「各教科等の特質に応じた」ものであり、系統性の原理として精緻にも見えない。新学習指導要領とは異なる系統性の原理を追究するために、「教育的認識論」は「教科横断的に認識能力を育てるという数少ない研究・実践」としての意義を有するのである(鶴田清司『教科の本質をふまえたコンピテンシー・ベースの国語科授業づくり』明治図書、2020年)。
ここで立ち止まってみたい。教育において能力形成がかくも重視されているのはなぜか。今井康雄はN.ルーマンの議論を引きながら、教育の課題領域をあらかじめ限定可能にする理念的指針が、116〜18世紀では「人間完成」、219世紀では「人間形成」、320世紀では「学習能力」へと変遷したとしている(今井康雄「世界への導入としての教育(一)」『思想』2018年12月号)。①は共同体や教会が教育機能の大部分を担っていた時代であり、それらが理想とする人間像に向けての「人間完成」に教育システムが依拠していた。②は学校教育の制度化が国家レベルで普及していく段階であり、特定の理想的人間像に縛られない「人間形成」を理念的指針とすることで、学術的な知を学校教育における教育内容に導き入れることが可能となった。③は学校教育への包摂がほぼ完了する段階であり、「学習能力」の形成が教育目的とされるようになる。新学習指導要領とも軌を一にするこうした傾向がなぜ生じるのだろうか。
それまで伝統や宗教の影響下にあった政治・経済・教育などの社会の諸機能が、近代社会においては機能分化し、自律化しつつ並び立つことになる。自律したシステムは、相互に影響し合いながらも、自らの作動における動力源を自ら調達する自己準拠的な連鎖を行う必要に迫られる。これにより、学習という教育システムを作動させる動力源に教育システム自身が関与する、つまり「学習能力」の形成に教育の課題が設定されることになるのである。
これは不可避の流れなのか。しかし、②の「人間形成」という理念、そしてそれを支える学術・学問が見失われたわけではない。つまり、「世界への導入としての教育」を対置するのである。人間の内部たる能力ではなく、人間を取り巻く世界という外部に教育の基盤を置き、そこへの参入のために世界について学ぶのである。教材・教育内容研究から導出された「ものの見方・考え方」は、この「世界への導入としての教育」への掛け金となるのではないか。能力と世界、内部と外部、主観と客観とは本来、相関的なのではないか(樋口太郎「評価規準の設定と評価・評定」田中耕治編集代表『シリーズ・学びを変える新しい学習評価理論・実践編2』ぎょうせい、2020年)。
西郷は、虚構世界から現実世界をより深く認識することに教育の目的を置き、文学教育へと足を踏み入れた。その理念は「教育的認識論」においても引き継がれている。系統性を志向しつつ能力形成を自己目的化しない、そうした「世界への導入としての教育」の一事例を西郷の歩みは我々に示している。
Profile
樋口太郎(ひぐち・たろう)
1977年生。京都大学教育学部卒。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得退学。大阪経済大学経済学部准教授。能力の育成を自己目的化しようとする教育に対する批判的視座の構築に取り組んでいる。