異見・先見 日本の教育 コロナ後のオンライン教育のために
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2021.08.16
異見・先見 日本の教育
コロナ後のオンライン教育のために
社会学者・東京大学名誉教授
上野千鶴子
(『新教育ライブラリ Premier II』Vol.1 2021年4月)
リモート授業の裏にある現実
コロナ禍で教育のICT化がいやもおうもなく進んだ。現役の大学教員たちはオンライン化した授業の準備にたいへんだというが、できない、と言えば淘汰される。にわかIT研修に対応せざるをえない。とはいえ、思いがけない効果もあると聞いた。Zoomで少人数のゼミをやるとリアルよりうまくいくこともあるという。全員の顔が見えて、誰かが発言中は割って入る者もいないし、ふだん教室では発言しない学生がよく発言したりする。
ゼミではピアの形成が必須だが、オンラインでもミーティングを積み重ねていけば、あのひとはこういうときにこんな反応をする、とかこんなことには共感してくれるとかいうことが次第にわかって、ピアの形成ができる。
それに遠隔地に住んでいても、障害学生でも参加できる。以前勤務していた大学では、クルマ椅子学生がゼミにSkype参加していたが、オンライン参加が少数者対象の特別措置ではなく、すべての学生にとってあたりまえになれば、オンラインは例外やリアルの代用品ではなくて、ひとつの選択肢になる。その分、選択肢が増えたということだから、コロナ禍が明けても、オンラインとオフライン、ふたつの選択肢を組み合わせて使っていけばよいと思う。
だが、キャンパス入構禁止、全講義リモートの大学で、それに対応できない学生がいると知って、ショックを受けた。PCを持たず、Wi-fi環境がないためにリモート授業を受信できないのだ。大学生が?と驚いたが、きょうびの大学生はスマホで何もかも調達して、ちょっとしたレポートならスマホでちゃちゃっとつくって教師に送るのだという。どんなレベルのレポートなのだろう、と不安になるが、スマホユーザーは、スマホで何もかも完結して不便を感じていないらしい。
それだけではない。18歳人口の大学進学率49.7%(2018年)、なかには親の援助を一切受けず、奨学金とバイトで学費と生活費をまかなう苦学生もいる。コロナ禍は彼らを直撃した。あてにしていたバイト先がみつからず、下宿代や学費はかさむばかり、キャンパスに入れないなら学費を半額にしてくれ、とか免除してほしいと要求するのも無理はない。データはそのうち出てくると思うが、昨年度の大学中退率がどれくらいになるか、予測するのも怖ろしい。
PCとWi-fi環境のためには、インフラへの初期投資とコストがかかる。学生にとっては負担になる額だ。となれば親の経済力が影響する。大学は選考に際してPCとWi-fi環境を必須の条件にすることができない。したがって一部の大学では、リモート授業の開始にあたって学生にPCとWi-fiの貸与から始めたところもある。そこから手当てしなければ、リモート授業が成り立たないのだ。
ICT教育の後進性への憂い
日本の教育のICT化がおそろしく遅れていることはよく知られている。
大学に入れば否応なくリモート授業が待っている。なら、高校まではどうなのか。びっくりするような話をコロナ禍のもとでいくつも聞いた。そもそもPCの最小端末ともいうべきスマホを学校に持ってこさせないか、在校中は教師が預かる、または電源をオフにさせるという高校が多いと知って驚いた。スマホは子どもの安全のために緊急連絡用に持たせたいという親の悲願から、学校がしぶしぶ許可したものであるらしい。できれば学校にスマホを持ち込んでほしくない、というのが教師の本音のようだ。
「授業中、スマホを見ている子もいるので」と聞いたが、そんなことは、大昔からあった。退屈な授業なら机の下でこっそりマンガを拡げたり、本を読んだりしていた子どもはどこにでもいる。プリントメディアが電子メディアに変わっただけでやっていることは同じ。わたしにしてからが、つまらない教授会の最中に、iPadでよそのサイトをググっていた。「LINEのやりとりを子ども同士でしている」のもけっこう。昔から教師をくさしたりしたメモ書きの紙片が、ひそかに教室内に廻っていたものだ。そのぐらいは織り込みずみだろう。子どもたちを振り向かせたければ、集中力を要する授業のコンテンツを提供するのが、教師の役目だろう。
リモート授業をしたくてもできない事情はいっぱいある。まず学校に情報インフラが整備されていない。教員にスキルがない。そして子どもの家庭に受信環境がない。今でも一家に1台、父親のPCしかない家庭はいくらもあるし、子どもが自分のメアドを持たないので親のメアドを借用してメイルが来たりする。びっくりするのが、妻が夫のメアドを共用しているケースだ。これでは「通信の秘密」もへったくれもない。
さる高校でリモート授業のケースを聞いて、こちらも啞然とした。授業中、画面の前に坐る高校生に制服着用を指導する校長がいたとか。子どもに緊張感を持たせるため、というが、まったくカン違いもはなはだしい。オフラインのしきたりをそのままオンラインに持ってこようとしているのだろうか。オンラインはオフラインの代用品ではない、ということがわかっていないようだ。
リスクを知って道具を使いこなす
政府は今年から全児童に端末を配給するという。いまや通信機器は教科書なみの必須のインフラ、教科書無償が義務教育の前提なら、そのためのツールも無償でなくてはならない。だが……と思って、ふと、ある小学校の教師に聞いてみた。
「子どものiPad、学校にいる間だけ使って、家に持ちかえらないように指導していませんか?」「はい、そのとおりです」と予想した答えが返ってきた。何のための情報通信機器の配布だろうか。これでは意味がない。
かつてはノートと鉛筆が学習のツールだったように、いまは情報端末が学習のツール。肥後守で手を切らないように鉛筆を削るのが子どもたちのスキルだったように(今頃、肥後守といっても通じないだろうか)、ICTツールを自由自在に使いこなすのがこれからの子どもたちに求められるスキルである。そのためには、iPadを自分仕様にカスタマイズして道具にする必要がある。PCとはパーソナル・コンピューターの略語。パーソナライズされているからこそ使いこなせる。端末をさわりまくって何をどうすれば何ができるかを知るためには、長時間端末とつきあうほかないのだ。どんな道具でも身体の延長、情報端末も例外ではない。
そういえばただちにゲーム依存やアダルトサイトへのアクセス、児童ポルノの動画サイトへの投稿などの危険を指摘する声がある。どんな道具にもリスクはある。だからこそ、情報教育でリスク管理の教育も必要なのである。親たちも教師もひたすらリスクから子どもを防衛することばかりに気が向いている。だが、リスクもベネフィットもじゅうぶんに知ったうえで、道具を使いこなし、乗りこなす……。それを子どもたちに伝えることこそが教育の役目ではないだろうか。
情報格差から階層格差へ
コロナ禍のもとで、ついに「オンライン階級」という用語が登場した。世の中にはオンライン化できる仕事とできない仕事がある。対人サービス業などオンライン化できない仕事に就く人々は「エッセンシャル・ワーカー」と呼ばれて、にわかに注目が集まったが、だからと言ってその人たちの処遇が改善されるわけではない。
昨年12月に内閣府が実施した「第2回新型コロナウイルス感染症の影響下における生活意識・行動の変化に関する調査」によれば、本人のテレワーク実施状況は年収とみごとに相関している。テレワーク実施率の平均は21.5%、そのなかで年収1000万超の階層の人たちの実施率は51.0%と倍近い。この人たちは、オンライン化の恩恵をもっとも受けている人たちである。
コロナ禍が階層格差を拡大させるという陰鬱な予測を、多くの識者がしている。はさみ形進化とか、K字型格差とか呼ぶ。見てのとおり、先に行くほど開きが大きくなる変化をいう。
すでにコロナ禍の前から通信機器の利用状況について、メディア研究者が明らかにしてきた知見がある。それはPCユーザーとスマホユーザーとが分極化し、固定する傾向があるというものである。スマホユーザーはスマホでほとんどの用が足りるなど、自分では不便を感じていない。それにさまざまなサイトがサイト表示をスマホユーザー向けに工夫している。
「スマホで何が問題ですか?」という人もいるが、PCを使ってみると情報の受信と発信のスケールが変わることをユーザーは実感するはずである。スマホで2000字のレポートは書けても、4万字の卒論や10万字超の修論、20万字超の学位論文は書けない。添付ファイルにも限界があるし、プリントアウトもできない。相手のメアドを聞いて携帯メールのメアドだったりすると、この人はこのレベルの情報処理で用が足りているのか、と感じたりする。もちろん暮らしのためだけならそれでじゅうぶんだろう。だが情報生産のためには、スマホではじゅうぶんではない。そしてメディア研究者たちもまた、PCユーザーとスマホユーザーの情報格差が階層格差につながることを予見している。
情報社会、知識資本主義と言われて久しい。これからは情報生産性の高い人材育成をしなければならないのに、そのインフラすら整備されていない。ようやく情報端末が子どもたちに行き渡るようになったとしても、現場は制約だらけである。こんな状況で次世代型の人材育成など覚束ない。日本はすでに世界のICT化からとりのこされているが、このままではさらに後れをとるだろうと心配になる。
答えのない問いを立てることの大切さ
とはいえ、PCはしょせんツール。最近の高校では「総合学科」とか「探究科目」とかが流行りだが、そこで行われている教育実践を見ると、おやと首を傾げる内容が多い。先進的な高校では、高校生がパワポ技を駆使して華麗なプレゼンをやってのけるところもあるが、そのコンテンツがいかにも教師の与えたお題にそったありもの感がぬぐえない。たとえばSDGsのなかから「地球環境問題」とか「ジェンダー平等」とかの項目を選んで、ネットで検索して器用にレポートをまとめあげる。どこかで聞いたような二次情報ばかりで仕上げた自称「レポート」である。大学生もしかり。そのため最近では大学は盗作・盗用を検索するソフトを導入してチェックをかけているくらいだ。学期末のレポートぐらいなら罪がない。だが、学位論文がありものの切り貼りでは、評価する側の責任が問われるからだ。
わたしは学生がどこかで聞いたような大きな社会問題をテーマにする度に、こう言うことにしている。「地球環境問題について、専門家がすでに持っているデータや情報以上のものをあなたはゲットできるの? 専門家たちがすでに出している答えを超えるようなオリジナルな答えをあなたは出せるの? 無理だと思うなら、お止めなさい」と。「あなたにしか答えられない、まだ誰も解いたことのない問いを立てなさい」と。なぜならたとえどんなにささやかでも、そういう経験の中からしかオリジナリティは育たないからだ。そしていったん自分で問いを立てて自分で答えを出した経験があれば、そのノウハウはもっと大きな問いにも応用できるようになる。
ありものの情報をスマートにまとめるスキルは、官僚には向いているかもしれない。彼らがやっているのは研究論文では「先行研究の批判的検討」にあたる部分だ。せいぜい「よく調べましたね」という努力賞もの。しかもそれはしばしば「批判的」ですらない。なぜなら「批判」とは、問いを立てた者にしか生まれないからだ。それどころか、何が「先行研究」に当たるかさえ、実のところ、当人に問題意識がなければ探索できないものだ。そして正解のない問いを立てることほど、「探究」や「研究」にとって重要で、かつ教えることが難しいことはない(上野千鶴子『情報生産者になる』ちくま新書、2018年)。
なのに、といつも思うのは、今の大学が育成すべき人材のモデルにまったく反する選抜方式を採用していることである。現在の大学入試の学力試験は、正解のたったひとつしかない問いに対する正答率の高い学生を選び抜く選抜方式である。そういう学生が大学に来て、「これからは勉強ではなく研究をしてもらいます」と言われて面食らうのも無理はない。「答えのない問いを立てなさい」と言われても、「やったことがないから、わかりません」という答えが返ってくる。その度に、彼らが受けた18年間の教育は何だったんだろう、と思ってしまう。
わたしはそれを国民性や文化で説明したくない。日本人の同調圧力のなかで「他人と違う」ことを怖れて育つ子どもと、他人と変わったことをする度に「おもしろいね」「どうやって考えついたの」と周囲から認められ励まされて育つ子どもとは、18年経てば違った人格になる。情報とはノイズが転化したもの。ノイズのないところに情報は生まれない。日本の教育システムがノイズの発生を抑制し続けている限り、日本にオードリー・タンは生まれないだろう。
もういちどICTに戻ろう。ICTはただの道具ではない。双方向型の情報通信機器である。子どもたちにとって、いやオトナにとっても、自分の知らない広大な世界へとドアを開けてくれる入口である。寝たきりでも障害があっても、情報の受信と発信が可能な情報民主主義のツールである。それを日本の子どもたちが、自分のカラダの延長のように使いこなせるようになってほしい。そのツールが開く可能性は大きいはずだ。それを制約するような行為は極力やめてほしい。どんなツールもよいことにも悪いことにも使えるが、子どもたちをよい方向へと導いてほしい。
そして。この入口から、ほんものの未知のリアルワールドへと旅立ってほしい。世界はあなたが知らないことに満ちており、ほんとうに豊かなのだから。