学制150年の歴史を振り返る
学制150年の歴史を振り返る 第3回 ― 臨教審の「個性重視」から中教審の「生きる力」へ ―
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2022.11.28
目次
『学制百五十年史』市販版の刊行を前に、学校制度を巡る150年の歴史を7回に分けて簡単に概観する連載をしています。
今回は、中教審46答申を受けた施策が展開される中、政府全体で教育改革を推進する「臨時教育審議会」が答申を行い、個性重視や生涯学習の推進が加速していく平成初期の頃までを概説しています。
中教審46答申は長く影響
昭和48年(1973年)の第1次石油危機(オイルショック)などを経て、我が国は安定成長の時代を迎えました。
石油危機等を機に生じた経済成長の鈍化により、我が国の財政は窮迫し始め、赤字国債の発行を余儀なくされます。国の臨時行政調査会からは「増税なき財政再建」の方針が示され、予算歳出の伸びを抑えるためのゼロシーング概算要求が昭和57年(1982年)頃から毎年続くようになり、教育予算の確保の制約要因となりました。
前回の連載でも述べたように、中央教育審議会の46年答申のうち、先導的試行や高等教育の種別化などについては、関係者の合意が得られていない状況でしたので、改革が進捗しない面が生じました。しかし、それ以外の学校教育の在り方などの事項については、財政緊縮の影響を受けつつも、数多く実施に移されています。
初等中等教育では、いわゆる「人材確保法」による教員の待遇改善、公立学校の学級編制・教職員定数改善計画の推進(昭和49年以降)、学校での主任の制度化(昭和50年)、教育内容の精選等を図るための学習指導要領の改訂(昭和52・53年)、養護学校の義務制の実施(昭和54年)などがあります。
高等教育では、「筑波大学」「放送大学」などの新しいタイプの大学の新設(昭和48年~)、高等教育計画の策定(昭和51年~)、上越・兵庫、鳴門の「新教育大学」の創設(昭和53年~)などがあり、大学入試の関係では、新たに「共通第一次学力試験」が昭和54年度入学者選抜から導入されています。
また、それ以降の時代においても、中教審46答申は、各種審議会の提言やそれを受けた教育改革の実施に直接間接に影響を及ぼしていることが少なくありません。例えば、初任者研修制度の本格実施(平成元年)、教育内容の精選を図る学習指導要領の改訂(平成元年、平成10年)なども、46答申以来、各種の審議会等で提案されたものが実現を見たものと考えられます。
臨時教育審議会の基本理念(①個性重視、②生涯学習体系、③変化への対応)
昭和50年代の中頃から青少年非行が急増し始め、学校でのいじめ、登校拒否、校内暴力など社会的に大きな関心を呼ぶ事件も発生しました。また、世界的には、欧米でも様々な教育改革が遂行されているなどの背景がありました。
このような状況の下、文部省という枠を超えた政府全体での教育改革を推進する観点から、内閣総理大臣の諮問機関として「臨時教育審議会」(臨教審)が法律に基づき設置されました。
規制緩和、競争原理、民間活力の導入等のいわゆる「教育の自由化」を求める第1部会と、初等中等教育の改革を担当する第3部会との間の意見相違と調整などを経て、「個性重視の原則」となり、昭和60年(1985年)から昭和62年(1987年)までの間に4次にわたる答申がなされました。
答申の主な基本理念は、次の3つです。
① 「個性重視の原則」
画一性、硬直性、閉鎖性を打破し、個人の尊厳、自由・規律、自己責任の原則を確立する ② 「生涯学習体系への移行」
学校中心の考え方を改め、生涯学習体系への移行を主軸とする教育体系の総合的再編成を図る ③ 「変化への対応」
時代や社会の絶えざる変化(特に国際化、情報化)に積極的かつ柔軟に対応する なお、臨教審の設置根拠となる法律には「教育基本法の精神にのっとり」という文言が規定されたこともあり、答申に「教育基本法の見直し」のテーマは盛り込まれていません。
臨教審については、答申の内容もさることながら、内閣総理大臣の下で教育に対する大きな国民的関心を呼び起こした点が特筆されます。
その後、この答申を踏まえ、単位制高等学校の導入(昭和63年)、国立の大学院大学の創設(昭和63年~)、教員の「初任者研修」(平成元年)、生涯学習振興に係る新法の制定(平成2年)、「大学入試センター試験」の実施(平成2年)、学位授与機構の新設(平成3年)などが行われました。
組合運動は変化し、55年体制も終焉
昭和50年代以降も、日本教職員組合のストライキ闘争は続き、主任制度化・主任手当支給阻止闘争等により、ストライキが反復実施されました。しかし、このような長期にわたるストライキ闘争により懲戒処分を受けた教職員は多数に上り、その支援のための組合費負担も大きくなり、労働運動に対する無関心層の増加とあいまって、日本教職員組合の加入状況は低下していきました。
そして、労働界再編を機に生じた内部分裂や組織率の低下等を経て、平成2年(1990年)頃から次第に従来の対決路線を見直し、「参加・提言・改革」の現実路線へ転換していく兆候が見られるようになりました。
また、平成5年(1993年)から平成6年(1994年)にかけて、日本新党等を中心とする細川連立内閣の成立による与野党の政権交代、衆議院の小選挙区比例代表並立制導入のための法改正、与野党大連立による村山内閣の発足など、昭和の55年体制の終焉となる政界再編も起きています。
日本教職員組合では、従来の対決路線から現実路線への変化が一層鮮明になり、文部省との協調路線(歴史的和解)へと方針転換が顕著となっていきました。
少子化への対応を模索
平成4年(1992年)頃から我が国社会はバブル経済の崩壊を機に、低成長の時代に入りました。
既に平成に入って以降、少子化による児童生徒数の減少や市町村合併に伴って、徐々に全国各地で学校の統廃合が進み、廃校施設や余裕教室が生じるようになっていきました。また、教育の個性化を推進する観点から、ティームティーチング(複数教員による教育指導)等の新しい指導方法の導入により、単純な自然減にとどまらない教職員定数改善の工夫も模索されています。一方、高等教育では、将来の少子化を見越した臨時的定員増の扱いなどが課題となっていました。進学需要の高まりで大学・短期大学在学者数の大幅な減少には至らなかったものの、高等教育の質の確保が一層課題となっていきました。
学校週5日制の導入、中教審が「生きる力」の育成を提唱
生涯学習の時代に、人生初期の学校教育では、どのような資質能力の育成が図られるべきでしょうか。
臨時教育審議会の答申を踏まえた様々な取組が行われる中、学校週5日制が平成4年(1992年)9月から月1回、平成7年(1995年)4月以降は月2回と、段階的に導入されました。また、業者テストに依存した高等学校への進路指導からの脱却や総合学科の創設など、生涯学習の視点から、偏差値依存や過度の受験競争の是正を目指す施策も進められました。平成6年(1994年)には、児童の権利に関する条約も発効しています。
一方、平成6年(1994年)から平成7年(1995年)にかけてのオウム真理教事件、平成9年(1997年)の神戸市連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)など社会に大きな衝撃を与えた事件の発生によって、心の教育の在り方が議論となるとともに、平成8年(1996年)、大阪府堺市などで発生した病原性大腸菌O(オー)―157による集団食中毒を受け、学校給食の衛生管理の徹底が求められるなど、学校での安心・安全も課題となりました。
中央教育審議会や教育課程審議会答申では、「生きる力」をゆとりの中で育成する学力観が提示され、それに基づいて、教科の枠にとらわれない「総合的な学習の時間」の創設、教育内容の大幅な厳選、選択学習の幅の拡大等を内容とする学習指導要領の改訂が平成10年(1998年)、11年(1999年)に告示されています。
規制緩和と地方分権が影響し始める
さらに、平成8年(1996年)発足の橋本内閣による六大改革(行政改革、経済構造改革、金融システム改革、社会保障構造改革、財政構造改革、教育改革)が進められ、中央省庁等改革による内閣機能の強化、民間能力の活用、簡素かつ効率的な行政の実現を目指す制度改革が始まりました。
そして、①規制改革の流れを受け、公立小中学校の通学区域の弾力的運用による学校選択の幅の拡大、大学への飛び入学制度の導入(平成9)や、②地方分権改革の一環として、国から地方への機関委任事務の撤廃、教育長の任命承認制の廃止(平成11)などが実施されました。
検定教科書、国旗国歌
一方、このような流れの中で行われた平成8年(1996年)公表の中学校教科書検定で、戦時中の慰安婦について記載した各社の教科書が検定合格となったことなどを契機に、「新しい歴史教科書をつくる会」などの民間団体が新たに発足するなど様々な動きが起きました。
また、平成11年(1999年)には、広島県の県立高校で校長が日の丸・君が代の扱いを苦に自殺する事件が発生したこと等を機に、「国旗及び国歌に関する法律」が国会で成立しています。
これらの影響は後の時代にも続いていきます。
●Profile
中澤貴生(なかざわ・たかお)
京都大学法学部卒業。昭和62年文部省入省。大分県教育委員会総務課長、初等中等教育局小学校課課長補佐、内閣官房中央省庁等改革推進本部参事官補佐、岐阜大学教授、内閣官房行政改革推進室参事官、日本学術会議参事官などを歴任。令和2年より『学制百五十年史』の編纂事務に携わる。令和4年、定年退職。