次代の学びを創る知恵とワザ 第1章 3 テストの成績は人生の成功を予測しない
授業づくりと評価
2024.02.27
第1章 コンピテンシー・ベイスという思想
3 テストの成績は人生の成功を予測しない
上智大学教授
奈須正裕
知識の所有は十分条件ではない
前節では、二〇一七年版学習指導要領の中核概念である資質・能力、英語でいうコンピテンシーのルーツについて、ホワイトの考え方を紹介した。本節では、そのホワイトに依拠しつつも、コンピテンシーという言葉を今日広く使われている意味へと転化したデイビッド・マクレランドの仕事を紹介したい。
マクレランドも感情や動機づけを研究する心理学者だったんだけれど、どうも世の中の多くの人たち、わけても教育関係者は、感情や意欲なんかより知識をどれだけたくさん身に付けているかが人生において決定的に重要だと考えていることに気が付いた。でも、本当にそうなんだろうか。誰一人として、そのことを確かめてはいないじゃないか。
こう考えたマクレランドは一九七〇年代に、この問題の実証的検討に着手する。そして、領域固有知識の所有を問う伝統的なテストや学校の成績、資格証明書の類いが、およそ職務上の業績や人生における成功を予測し得ないという、まさに常識に反する驚くべき結果を繰り返し確認した。
たとえば、アメリカ国務省は、海外の任地で図書館を運営したり文化的催しを企画する外務情報職員の人事選考を、経済学や行政学などの専門教養、語学、一般教養なんかのテスト結果、つまりコンテンツ・テストの成績で行っていた。まあ、公務員試験なんだから、そんなところだろう。ところが、それらのスコアと任地での仕事ぶりや業績との間には、ほとんど相関が認められなかった。コンテンツ・ベイスの教育がもたらす要素的知識の単なる所有は、およそ質の高い問題解決の十分条件ではなかったんだ。
非認知的能力の重要性への気付き
じゃあ、何が職務上の業績を予測するんだろう。このさらなる探究に際しマクレランドは、卓越した仕事ぶりを示す職員と凡庸な業績しか挙げられない職員を国務省に選んでもらうと共に、職員に詳細な面接を行った。その結果、次の三つが、卓越した職員と凡庸な職員を区別する要因として見出された1。
[注]1 McClelland, D. 1993 Introduction. In Spencer, L.M.& Spencer, S.M. 1993 Competence at work: Models for a superior performance. John Wiley & Sons. pp3-8. 翻訳も出版されている。ライル・M.スペンサー シグネ・M.スペンサー(著)デイビッド・マクレランド(序文)梅津祐良・成田攻・横山哲夫(訳)『コンピテンシー・マネジメントの展開(完訳版)』生産性 出版、二〇一一年
① 異文化対応の対人関係感受性:異文化に属する人たちが語り、意味することの真意を聴き取る能力、彼らがどう対応するかを予測する能力。
② 他の人たちに前向きの期待を抱く:敵対する人も含め、すべての他者の基本的な尊厳と価値を認める強い信念。さらにストレス下でもこの前向きの信念を保ち続ける能力。
③ 政治的ネットワークをすばやく学ぶ:そのコミュニティにおいて誰が誰に影響を及ぼしており、各人の政治的、権力的立場がどのようなものかをすばやく察知する能力。
①は、高度なコミュニケーション能力なんだろう。もちろん、相手が話す言葉の単語的意味や文法構造の理解は不可欠だよ。でも、ただただそれを量的に高めていけば、対人関係感受性もそれに伴って高まってくるほど単純なものじゃない。一定程度の単語なり文法の知識を前提としつつも、それとは異なる質のものとして、相手の意図や心情を推し量りながら傾聴する態度なり能力を育成する必要があるに違いない。でも、そんな教育を英語科で、それ以前に国語科で、僕たちはどれほどやってきただろうか。
②は、他者に対する寛容さや公正さ、人権意識や倫理感等に加え、意欲や感情の自己調整能力といった、多分に情意的な資質・能力を含んでいる。今後、いよいよグローバル化が進む社会において、どうしようもなく大切なものに違いない。でも、こういった能力の育成を、僕たちのこれまでの学校教育、道徳や特別活動、あるいは社会科や保健体育科あたりまで含めて考えてみても、それで十分といえるだろうか。
③も対人関係的、社会的な態度なりスキルだ。近年、学校では地域教育力の活用が進んでいるけれど、まずどの町会長や役員さんに話を持って行くか。これを間違うと、とんでもなく厄介なことになる。したがって、教頭先生には必須の能力だと僕は思うんだけど、教頭試験でこんなことを見ている都道府県は、まあないだろう。でも、それはマクレランド的に考えれば、大いにバランスを欠いているのかもしれない。
いずれにせよ、これらは大学教育まで含めて、およそ学校で育成されるもののリストには含まれてこなかったか、少なくとも中核的ではなかっただろう。でも、実際の仕事ぶりを左右したのはこれらの要因だし、マクレランドはこれらを、ホワイトに従ってコンピテンスと呼んだ。とりわけ、そこでは意欲や感情の自己調整能力、コミュニケーション・スキルや対人関係能力などの非認知的能力の重要性が強調されている。
マクレランドの発見は、当然の帰結として企業の人事管理や組織経営の在り方に多大な影響を与えていった。コンピテンシーという言葉は、だから経営学なんかでは日本でもごく普通に使われているし、ある程度の規模の企業で経営や人事を担当している人なら、知らない人はいないだろう。大学でも勉強はよくできるし、したがって成績もいいにもかかわらず、就職活動になると思いのほか苦戦する学生がいるけれど、それはすでに企業がコンピテンシーを人事採用の拠り所にしているからなんだ。
こういった変化は、企業に人材を供給する高等教育機関のカリキュラムや評価にも、徐々に影響を及ぼしていく。大学は学問をするところだし、それでいいって僕なんかも思う。少なくとも、企業就職のための予備校になるのは、まったくよくない。
でも、よくよく考えれば、学問を深める途上において、他者の発言の真意を聴き取る力や、すべての他者に前向きの期待を抱くなんて姿勢を身に付けることは不可能ではないし、そういった資質・能力が身に付けば、学問だっていっそう深まるに違いない。大学教育が伝統的にゼミでの討論を大切にしてきたのも、そういったことと無縁ではないだろう。こういった取組みをもっと自覚的に、あるいは組織的に進めていくことで学生たちにコンピテンシーを育んでいくというのは、だからそんなに無茶な話でも、すっかり新しい話でもないんじゃないかって僕は思うんだ。
ガイダンス・カリキュラム
「なるほど、たしかに現実の職業的な生活や市民としての生活を考えてみれば、むしろ非認知的能力の影響力の方が大きいというのは、実感としてもよくわかる。実際、中学や高校で教科の成績が振るわなかった人だって社会人として立派に暮らしているし、職業的、経済的に成功を収めている人も大勢いるよね」
そうなんだ。もちろん、学校は教科を中心として学問・科学・芸術といった文化遺産を教えるために生まれてきた。でも、それだけでは人は社会的に生きてはいけない。実は、今に連なる学校が誕生した百年から二百年前には、今日でいう非認知的能力は、地域社会における共同体的な暮らしや労働の中で大いに培われていた。そこに、古くは読み書き算、さらには近代科学を学ぶ必要性が生じ、あるいは国民統合や産業振興の観点から、近代国家が学校制度を生み出していった。
そう考えると、学校では領域固有知識を主力とした認知的能力の育成が中心になっているんだけど、それは、学校の外で非認知的な能力が自然と培われていたからでもあるんだ。そして、今日では地域社会にそれを期待することは、残念ながら困難になっている。
でも、そういった資質・能力はマクレランドがいうように、どうしたって必要なものだろう。すると、もはや学校で育成するしか手はない。
「そこまで学校がやる必要があるんだろうか」という気持ちはわかるけれど、仮に学校で育成しないとすれば、こういった資質・能力はそれこそ家庭環境の影響をもろに受けてしまうから、そこには大きな格差が生まれかねない。そして、すでに見てきた通り、非認知的能力は職務上の業績や人生の成功を大きく左右するから、その格差はそのまま社会的・経済的・文化的な格差となり、さらに世代を超えて再生産され続け、あるいはいっそう拡大してしまうだろう。
近年、道徳や特別活動、総合的な学習の時間あたりを核に、さらに教科をも関連づけながら、ガイダンス・カリキュラムなんて名前で非認知的能力の育成を計画的、統合的に進めようという動きがあるんだけど、ここで話してきたような意味合いから、とても大切なことに取り組んでいるじゃないかって、僕は考えている。
もっとも、すっかりのゼロからはじめなきゃいけないわけじゃない。実は非認知的能力の育成において、日本の学校教育は世界に冠たるものをたくさん持っているんだ。
たとえば、海外からのお客さんを日本の学校に案内した時、彼らが一番感嘆の声を上げるのは、小学校一年生の子どもたちが、自分たちだけで給食の配膳を整然と進めている場面だったりする。彼らはミラクルだっていうんだけど、僕らからすれば、長年にわたってやってきたことなわけで、時間をかけて丁寧に指導していければ、誰だってこのくらいのことはできるようになることを知っている。
でも、海外からのお客さんに指摘されてはじめて気が付いたんだけど、そこでは仲間や周囲の様子を見図りながら、今自分がやるべきことを見出し粛々と実行することが求められるわけで、子どもたちには、かなり高度な協働性や社会性、感情なり行動の自己調整能力が育っている。
だから、まずはそういった、すでに実現できている優れた活動や子どもの姿を丁寧に整理していこうじゃないか。すると、そこからおのずと現在の到達点が明らかになってくるだろうし、さらにどんなことに取り組み、何をこそ育てていくべきなのかも見えてくるに違いない。
奈須正裕(なす・まさひろ)
上智大学総合人間科学部教育学科教授。博士(教育学)。1961年徳島県生まれ。徳島大学教育学部卒、東京学芸大学大学院、東京大学大学院修了。神奈川大学助教授、国立教育研究所室長、立教大学教授などを経て現職。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会会長。主な著書に『子どもと創る授業』(ぎょうせい)、『「資質・能力」と学びのメカニズム』(東洋館出版社)、など。編著に『新しい学びの潮流(全5巻)』(ぎょうせい)、『教科の本質から迫るコンピテンシー・ベイスの授業づくり』(図書文化社)、『教科の本質を見据えたコンピテンシー・ベイスの授業づくりガイドブック』(明治図書)など。