次代の学びを創る知恵とワザ 第1章 4 そもそも「正解」なんかなかった
授業づくりと評価
2024.02.29
第1章 コンピテンシー・ベイスという思想
4 そもそも「正解」なんかなかった
上智大学教授
奈須正裕
農業社会から産業社会へ
前節の終わりの方で、「今に連なる学校が誕生した百年から二百年前には、今日でいう非認知的能力は、地域社会における共同体的な暮らしや労働の中で培われていた」と書いた。本節ではこのあたりの事情をお話ししながら、学校と学力論について少し歴史的に考えてみたい。
一八世紀末のイギリスに端を発する第一次産業革命は、それまで永く続いてきた農業社会から、工業生産を中心とした産業社会への移行をもたらす。農業社会では、気まぐれな自然に翻弄される不安定な状況下での生産・労働を余儀なくされていた。しかし、だからこそ人々は身の周りで生じるすべての出来事に注意を払い、自分の目や耳で丁寧に観察し、思慮深く考えを巡らせ、よりよい在り方を求めて常に工夫を怠らず、またお互いに協力して日々の生活や仕事の改善・創造にあたっていた。
農業社会では、人々はただただ誠実に懸命に暮らすだけで、今日でいう非認知的能力はもとより、思考力・判断力・表現力だって、さすがに時代的な限界があるから科学的・合理的というわけにはいかないけれど、結構な水準で身に付けていたと考えていい。このところ、農業生産を学校のカリキュラムに取り入れる動きがあるけれど、それはノスタルジックなものなどではなく、しっかりとした根拠のある取組みなんだよ。また、そういった認識の下、明確な学力論とそれを実現する手立てを携えて実践してほしいなあ。
一方、産業社会は人為に基づく計画的で安定的な生産・労働環境をもたらし、社会全体の富を大きく拡大する。でも、それは同時に、もはや自分の才覚をかけての工夫を求められも認められもしない在り方へと、人々の精神を導く契機ともなった。産業社会は、それを可能とした産業機械のように、単純で定型的な労働を淡々と遂行できる能力と心性を人々に強く求めたんだ。これは、教育に極めて深刻な変化をもたらすことになる。
ペスタロッチの夢
農業社会から産業社会へという変化と、それが子どもの教育環境に与えた影響について、ペスタロッチは教育小説『リーンハルトとゲルトルート』(一七八一~一七八七年)の中で、登場人物に次のように語らせている1。
[注]1 ペスタロッチ(著)田尾一一(訳)『リーンハルトとゲルトルート』玉川大学出版部、一九六四年(現在は絶版。なお、引用箇所の訳出については、さらに、梅根悟『世界教育史』新評論、一九八八年、二七七-二七八頁を参考にした)
「昔はすべてがずっと単純で、食べてゆくには百姓仕事だけでよかったのです。そうした暮らしでは、学校などいらなかったのです。百姓にとっては家畜小屋や籾打ち場や木や畑が本当の学校だったのです。そして彼の行くところ立ち止まるところ、いたるところにたくさんの為すべきこと学ぶべきことがあって、いわば学校なんかなくても、立派な人間になれたのです。だが今の糸紡ぎの少年たちや、座業やその他、型にはまった仕事でパンをかせがねばならない人たちの場合には、事情はすっかり違っているのです……。
貧しい木綿職人たちはどんなに収益が増え、どんなに保護を受けても、永久にその仕事からは腐敗した肉体と貧しい老齢の他に得るものは何もないでありましょう。そして領主様よ、腐敗した紡ぎ屋のおやじやおふくろが、そのせがれを、秩序のある、思慮深い生活者に育て上げるなどということはできるはずもありませんから、結局残るところは、木綿紡ぎが続く限り、この人たちの家政の貧窮を続かせておくか、それとも学校で、こうした家の子どもたちに、その両親からはもう受けられなくなっているが、しかし絶対に必要欠くべからざるところのものを両親に替って与えるような施設をつくるか、二つに一つしかございません」
ペスタロッチはこのように訴えて、産業革命がもたらした劣悪な教育環境に対応するには、生活教育に取り組む学校の建設によって、農業社会が内包していた教育機能を取り戻すしかないと結論づけた。
このアイデアは、ルソーの『エミール』に端を発するもので、それをペスタロッチが発展させ、さらにフレーベルやデューイへと受け継がれていく。そして、世界各地で草の根の実践運動として展開し、日本でいえば、大正自由教育から戦後の新教育を経て、今日でいう生活科や総合的な学習の時間にまで連なる壮大な流れの基底にある考え方なんだ。
しっかりと地に足をつけて人生を歩み、あるいは自身が主体となって、同じく主体である多様な他者と協働しながら、よりよい生活=社会を創造していく。そんな学びと暮らしが渾然一体となった活動を中心とした学校教育、それが生活教育というわけなんだよ。生活科や総合的な学習の時間は、この生活教育を、近代科学を基盤とした各教科との有機的なつながりをも図りながら共存・共栄させようとの試みと位置付けることができる。
もっとも、ペスタロッチの時代に実際に生み出された新たな学校の主流となる流れ、それこそが今日の僕らの学校にまで連なる近代学校なんだけど、それは産業革命によって失われたものを回復する方向ではなく、産業革命がもたらした社会構造をさらに先へと加速的に拡大するような学校だった。そして、そこで採用された原理こそが、コンテンツ・ベイスの教育だったというわけなんだ。
アダム・スミスの懸念
今日ごく普通に学校と呼び慣わしている教育機関は、単純で定型的な労働を淡々と遂行できる能力と心性という、まさに産業社会の新たな要請に応えるべく、近代というこの新たな時代のただなかに生まれてきたものにほかならない。そこでは、大人社会が定めた現状における「正解」の量的蓄積と、その型通りの運用を徹底することが中心的課題となる。自らの意思で工夫や創造を試みたり、いわんや疑問を差し挟んだりすることは、時に疎んじられこそすれ、あまり歓迎されはしない。教師に質問を繰り返したが故にわずか三か月で放校処分となったエジソンの逸話は、そんな近代学校に独特な風土を端的に象徴している。
興味深いのは、社会的分業を唱え、資本主義経済社会の理論的基盤を生み出したとされる当のアダム・スミスもまた、この危険性に気付いていたことだろう。彼は『国富論』の第五編第一章において、次のように指摘している2。
[注]2 アダム・スミス(著)山岡洋一(訳)『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上・下巻)』日本経済新聞社出版局、二〇〇七年
「分業が進むとともに、労働で生活している人、つまり大部分の人の仕事は、ごく少数の単純作業に限定されるようになり、一つか二つの単純作業を繰り返すだけになることも多い。そして、大部分の人はかならず、日常の仕事から知識を獲得している。ごく少数の単純作業だけで一生をすごし、しかも作業の結果はおそらく、いつも同じかほとんど変わらないのだから、難しい問題にぶつかることもなく、問題を解決するために理解力を活かしたり、工夫をこらしたりする機会はない。このような仕事をしていると、考え工夫する習慣を自然に失い、人間としてそれ以下になりえないほど、愚かになり無知になる。頭を使っていないので、知的な会話を楽しむことも、そうした会話に加わることもできなくなるだけでなく、寛大な感情、気高い感情、優しい感情をもてなくなり、私生活でぶつかるごく普通の義務についてすら、多くの場合に適切な判断をくだせなくなる」
経済学者としてのスミスは、社会的分業は必要であり有益だと考えた。祖国イギリスの発展を考えるとそれしかないと判断したからこそ、スミスは『国富論』を著したんだ。
けれど、同時に倫理学者でもあった彼は、それが人々の精神にもたらしかねない危険性について誰よりも敏感だったし、大きな懸念を抱いていた。残念ながらその懸念は、その後の二百年において、少なからず現実のものとなったといっていいだろう。今、僕たちがコンピテンシー・ベイスという表現でもって改革しようとしているのは、まさにこの部分なんだよ。
今再び「正解」のない教育
そして、今や社会構造は再び転換期を迎えている。産業社会から知識基盤社会へという新たな構造転換だ。知識基盤社会では、産業社会とは対照的に「正解」は存在せず、その状況における「最適解」をその都度自力で、あるいは多様な他者と協働して生み出すべく、知識を豊かに創造し活用する資質・能力がすべての人に求められる。
産業社会を牽引してきた製造業ですら、もはや基本性能の優秀さだけでは十分じゃない。さらに他社や他国との差別化を図るべく、マーケットの潜在的要求をいち早く察知してはそれに具体的な形を与え、あるいは斬新な提案によりマーケット・ニーズを創出する必要がある。そこでは、知的イノベーションこそが富の源泉なんだ。
さらに、今や僕たちの目前には、環境問題、食糧問題、資源・エネルギー問題、貧困と格差の問題、平和と人権を巡る問題など、国境を越えての力強い連帯と賢明な調整を不可避とする、やはり「正解」のない難問が山積している。もはや、世界の歴史は先進工業国家が第一次産業革命以来続けてきた奔放で競争的な開発を許さない段階へと突入していて、持続可能な開発を新たな原理とする教育、いわゆるESDへの移行は避けがたい。
そこでは、一人ひとりが自立した個人として、同じく自立した個人たる多様な他者と協働し、よりよい社会の在り方を不断に求め続ける中で新たな知識を生みだし、地球規模で流動する状況の変化に創造的に対応していく資質・能力の育成が求められる。
このように、知識基盤社会の到来という不可逆的な世界史的潮流は、教育の原理をコンテンツ・ベイスからコンピテンシー・ベイスへと根こそぎで転換することを、待ったなしで要請しているんだ。
もっとも、農業社会に生きる人たちが一面において高度なコンピテンシーを所用していた可能性を勘案するならば、むしろ産業革命以降の方が特殊な時代であり、今再びそれが本来の在り方へと回帰しようとしているだけなのかもしれない。近代学校の終わりの始まりという地点に今、僕たちは立っている。
もしかすると、はるか後世の人々が描く教育の歴史では、「正解」の量的蓄積とその型通りの運用を「学力」と見なし、さらに教科ごとに分断した上でわずか数十分のテストで測っては、そのスコアで人生の行方から時には人間の価値まで決めてしまおうなどという愚挙の世界的蔓延が、永い人類史上一八世紀終盤から二一世紀初頭にかけてのわずか二百数十年間にのみ存在した、と記されるかもしれない。多分にSF的ではあるけれど、カリキュラムと授業の今後を展望するには、今やこのくらいのイマジネーションを携えることが不可欠になっているんじゃないかなあ。
奈須正裕(なす・まさひろ)
上智大学総合人間科学部教育学科教授。博士(教育学)。1961年徳島県生まれ。徳島大学教育学部卒、東京学芸大学大学院、東京大学大学院修了。神奈川大学助教授、国立教育研究所室長、立教大学教授などを経て現職。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会会長。主な著書に『子どもと創る授業』(ぎょうせい)、『「資質・能力」と学びのメカニズム』(東洋館出版社)、など。編著に『新しい学びの潮流(全5巻)』(ぎょうせい)、『教科の本質から迫るコンピテンシー・ベイスの授業づくり』(図書文化社)、『教科の本質を見据えたコンピテンシー・ベイスの授業づくりガイドブック』(明治図書)など。