次代の学びを創る知恵とワザ 第1章 2 今再び、コペルニクス的転回の時

授業づくりと評価

2024.02.22

第1章 コンピテンシー・ベイスという思想
2 今再び、コペルニクス的転回の時

上智大学教授
奈須正裕

次代の学びを創る知恵とワザ

コンピテンシー・ベイスの学力論へ

 学力という言葉から、あなたは何をイメージするだろう。国語、算数、理科、社会といった教科、さらには同じ算数でも、数と計算、図形などの細かく区切られた領域の中にお行儀よく収まっている、要素的な知識や技能を思い浮かべる人が多いんじゃないかなあ。

 つまり、カリキュラムを構成するそれぞれの領域にあらかじめ配分された要素的な知識や技能を量的にどれだけたくさん、また教わった通りの正確さで所有していて、それをテストの時に素早く再生できるかどうか。それが学力だというイメージなんだろう。こういった学力の見方は、いわゆる領域固有知識、従来の学習指導要領でいう「内容」、英語でいうと「コンテンツ」を基盤としているから、コンテンツ・ベイスの学力論と呼ばれてきた。

 ところで、子どもたちは、なぜあんなにも大量の領域固有知識を学校で学ぶんだろう。それは、将来出合うであろう人生のさまざまな困難に対して、学んだ知識を自在に活用し、適切に問題を解決していくために違いない。ところが、実際の問題解決を進める上では、単に領域固有知識をたくさん抱え込んでいるだけではまったく不十分だ。

 まず、目の前の問題に対し、所有する膨大な知識の何がどのように使えるのかを、迅速かつ的確に判断できないといけない。また、現実の問題場面では学校で教わった通りのやり方で知識を適用できることはまれで、多少なりともアレンジする必要がある。これら、いわゆる思考力や判断力と呼ばれてきた学力の側面が、まずもって欠かせない。

 さらに、問題解決に際しては、粘り強く問題解決に取り組む意欲や感情の自己調整能力といった、情意的な能力も大切になってくる。やっぱり最後はやる気なんだって経験は、誰しも持ち合わせているだろう。

 加えて、実社会での問題解決は、多様な仲間と力を合わせたり、利害や立場の異なる人たちと交渉しながら進めることの方が一般的だ。そこでは、直面する対人関係的困難を乗り越えるためのコミュニケーション能力や、人間関係の調整能力が決定的な役割を果たすことになる。

 このように、学校での学びを実社会・実生活で活かして生きていくには、単に知識を所有しているだけでは不十分で、さらに思考力や判断力、意欲や感情の自己調整能力、コミュニケーションや対人関係の能力が不可欠になってくる。二〇一七年版学習指導要領では、これらを総称して「資質・能力」と呼んでいる。

 資質・能力というのは、「有能さ」を意味する学術用語として、教育学、心理学、言語学、経営学などさまざまな学問領域において多様な意味合いで用いられてきたコンピテンシー(competencies)ないしはコンピテンス(competence)を訳出した行政用語なんだ。行政用語というのはいろいろと制限があって、学術用語として用いられていた時の意味合いや文脈をそのまま保持することは難しい。なので、各学問分野の専門家から見た場合、資質・能力という表現にさまざまな不満が出るのは、まあ無理もないことなんだけど、だからといって立ち止まっているわけにもいかないから、多少強引だけれど、ここは先に進むことにしよう。

 話を戻して、人生の中で出合うさまざまな問題場面を適切に解決していくには、知識の所有だけではまったく不十分で、さらに多様な資質・能力が必要になってくる。ならば、生涯にわたって優れた問題解決を現に成し遂げていくのに必要十分なトータルとしての「有能さ」、これがコンピテンシーなんだけど、それをこそ学力と考えた方がいいんじゃないか。あるいは、コンピテンシーを中心に学力論を組み直し、そこからカリキュラムや授業を生みだしてはどうか。これが資質・能力を基盤とした教育、コンピテンシー・ベイスの教育の基本的な考え方ということになる。

 このコンテンツ・ベイスからコンピテンシー・ベイスへという教育の原理転換は、学力論を大幅に拡張ないしは刷新する。そして、教育に関する主要な問いを「何を知っているか」から「何ができるか」、より詳細には「どのような問題解決を現に成し遂げるか」へと大きく転換することを、必然的に求めることになるだろう。

ホワイトによるコンピテンス概念の提案

 すでに述べたように、コンピテンシーなりコンピテンスという概念は、さまざまな学問分野で、またかなり多様な意味合いで用いられてきた。その中でも、今日、教育の世界で用いられている意味合いを考える時、決して見逃すことができないのは、ハーバード大学で動機づけを研究していた心理学者のロバート・ホワイトが、一九五九年に提唱したコンピテンス概念だろう

[注]1 White,R.W. 1959 Motivation reconsidered : The concept of competence. Psychological Review, 66, 297-333. 翻訳も出版されている。ロバート・W.ホワイト(著)佐柳信男(訳)『モチベーション再考 ─ コンピテンス概念の提唱』新曜社、二〇一五年

 まず、ホワイトは、人間は本来的に「有能さ」、つまりコンピテンスを拡大することに向けて動機づけられた存在として生まれてくるって考えた。今日の感覚では「そんなことは当たり前じゃないか」って思うかもしれないけど、当時の心理学では、お腹がすいたとか喉が乾いたといった欠乏状態なり不足感がないと、人間も含めて動物は行動を起こさない、つまり動機づけが生じないと考えていたんだ。

 でも、それでは物事を探究するとか、向上心を持って努力するといった行動を説明できない。それはどうにもおかしい。少なくとも人間の動機づけや学習については、もっと異なる説明が必要だって、ホワイトは考えた。

 こんな問題意識の下、本来的に人間はどういう存在かと考えるのに好都合なのが、まだ社会的にさまざまな影響を受けていない乳幼児の姿だった。実際、乳幼児を丁寧に観察してみると、お腹がいっぱいで十分に満足していても、自分を取り巻くさまざまなひと・もの・ことに興味を示し、進んで関わりを持とうとしている。ここからホワイトは、人間は生まれながらにして環境内のひと・もの・ことに能動的に関わろうとする傾向性を持っていて、この傾向性がもたらす環境との相互作用を通して、次第に環境に効果的に関わる能力を高めていくと考え、これをコンピテンスと呼んだんだ。

 もちろん、こういったことのすべてがホワイトのオリジナルというわけではない。このような思索の背景には、スイスの発達心理学者、ピアジェ以来の学習に関する発達心理学的な見方が存在している。

 たとえば、飴玉を見つけた赤ちゃんは、それを口に入れる。飴玉だと知っていて口に入れるんじゃない。環境内の対象への関わり方を心理学ではシェマと呼ぶんだけれど、赤ちゃんは口に入れるのと手でつかむくらいしか、シェマを持ち合わせていないからなんだ。でも、口に入れるというシェマは、こと飴玉に対しては食べ物であるという本質的理解をもたらす適切な関わり方だから、赤ちゃんは甘さを享受しながら飴玉の理解なり把握、いわゆる「同化」に成功する。

 別な日、赤ちゃんはビー玉を見つける。飴玉と同様に丸く光るものだから迷わず口に入れるけど、今度は同化できずに吐き出してしまう。ビー玉を同化するには、ビー玉という対象からの要求に突き動かされる形で、つかんだ手のなめらかな動きにより転がせるように、つまり赤ちゃんの方が変わらなくちゃいけない。これをシェマの「調節」という。

 このように、すでに持っているシェマによる対象の同化と、対象の要求に根差したシェマの調節を繰り返すことで、赤ちゃんは徐々に身の回りの事物・現象に関する個別的理解を深めていく。と同時に、さまざまな環境に対してより効果的なシェマを獲得・洗練・拡充させていく。実は、これこそが学習の原初形態なんだよ。

 ホワイトは、コンピテンスという言葉に二つの意味合いを込めたと解釈できる。それは第一に、生まれながらにして備わっている、環境内のひと・もの・ことに能動的に関わろうとする動機づけ的なエネルギー要因という意味合い。そして第二に、そこから生まれるひと・もの・ことと効果的に関われるという関係的で文脈的な認知能力だ。

 そこでは、「知る」とは単に名前を知っていることではなく、対象の特質に応じた適切な「関わり」が現に「できる」こと、さらに個別具体的な対象について「知る」(=関われる)ことを通して、さまざまに応用の効く「関わり方」が獲得され、洗練されていくことが含意されている。つまり、「知る」ことを駆動するエネルギー要因から、「知る」という営みのメカニズム、それを通して結果的に獲得される資質・能力までをも含み込んだ概念としてコンピテンスは提起された。まさに、「どのような問題解決を現に成し遂げるか」を問う概念として、コンピテンスは誕生したんだ。

常識を問い直し、生まれ変わろう

 「二〇一七年版学習指導要領の鍵概念である資質・能力、コンピテンシーがそもそもどんなものだったか、よくわかったよ。でも、妙に理論的というか学問的で、難しいなあ。学力論なんていっても、僕たち教師は授業づくりの基礎がわかればいいんだから、もう少しわかりやすく、簡単にならないかい」

 僕もできればそうしたいんだ。でも、今回に限っては難しいなあ。たとえば、二〇一七年版の学習指導要領改訂において、その基盤づくりを担った会議体、教育課程企画特別部会が最初に出した報告書である「論点整理」の八ページに、「検討の方向性を底支えするのは、『学ぶとはどのようなことか』『知識とは何か』といった、『学び』や『知識』等に関する科学的な知見の蓄積である」と書かれていて、実に画期的なことだと僕は思っている。

 というのも、すでに欧米では子どもの学習や発達、知識に関する科学的な理論や知見を共通の足場にカリキュラムや授業について議論するのは当たり前のことなんだけど、残念ながら日本ではまだまだ弱い。一九八〇年代くらいからだろうか、教育課程政策の立案に際して認知心理学や学習科学なんかの知見を参照し、時には明示することが、欧米ではごく普通になってきた。かつてイングランドやオーストラリアが、新たなカリキュラムの編成原理を「多重知能理論」に求めると、提唱者のハワード・ガードナーという個人名まであからさまに示して打ち出したのには、正直いって驚いたものだ。

 さすがに日本ではそこまでは無理かもしれない。でも、主に大人側の都合に基づいてなされる「これは教えといた方がいい」「いや、この知識だって大事なんだ」といった内容の重要性に関する議論に加えて、その内容を学びの主体である当の子どもがどのように学ぶのかという学習のメカニズムや、学ばれた後に子どもの中でその知識がどのような様相で息づいているかという、知識に関する動的な理解を十分に考えに入れることの共通認識化は、今後の教育課程政策にとって決定的に重要なことだろう。そして、先の文には、これを強力に推進しようという意思が明確に表現されていると、僕は思う。

 いずれにせよ、子どもの学びのメカニズムに適合した教育が大いに奏効するのは間違いのないところだから、ここは多少難しくても、がんばって勉強してほしいなあ。

 まあ、難しいというより、従来の常識に反するといった方が正確なんだけどね。それこそホワイトの理論でも、「知る」ということについて多くの人が抱いているイメージとは、随分と異なる世界が描かれていたんじゃないかなあ。でも、少し丁寧に子どもたちの様子を観察すれば、たちどころに納得がいくだろう。そして、一旦わかってしまえば、決して難しい理屈なんかではないし、それに基づく教育の具体だってイメージできるようになるに違いない。

 つまり、その時代、その社会における常識というのは、永く世界中で信じられてきた天動説が誤りであったように、時として事実に反する。でも、敬虔なキリスト教徒だったガリレオが自身の信仰との葛藤を乗り越えて真摯に語った通り、「それでも地球は回っている」んだからしかたがない。僕たちはそんな子どもの事実に寄り添っていくべきだし、思い切ってそうしてみた先では、「いったいぜんたい、これまで何を悩んできたんだろう」と肩すかしを食らったかと思うほどに、万事がうまく回り出すだろう。

 二〇世紀のはじめに、デューイは大人中心から子ども中心へという教育の原理転換を「コペルニクス的転回」と表現した。今、この国が取り組もうとしている学力論の拡張や、それに基づくカリキュラムと授業の刷新は、もちろん中身はデューイが論じたものとはいくらか異なるだろうけど、規模的には同等かそれ以上のものだと、僕は考えている。

 今こそ、あなたの中に二一世紀的なコペルニクス的転回を生じさせようじゃないか。それはきっと、あなたとあなたを頼りにしている子どもたちにとって、とてもステキな出来事となるに違いない。

 

 

奈須正裕(なす・まさひろ)
上智大学総合人間科学部教育学科教授。博士(教育学)。1961年徳島県生まれ。徳島大学教育学部卒、東京学芸大学大学院、東京大学大学院修了。神奈川大学助教授、国立教育研究所室長、立教大学教授などを経て現職。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会会長。主な著書に『子どもと創る授業』(ぎょうせい)、『「資質・能力」と学びのメカニズム』(東洋館出版社)、など。編著に『新しい学びの潮流(全5巻)』(ぎょうせい)、『教科の本質から迫るコンピテンシー・ベイスの授業づくり』(図書文化社)、『教科の本質を見据えたコンピテンシー・ベイスの授業づくりガイドブック』(明治図書)など。

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