職員室の人間関係づくり
職員室の人間関係づくり[第3回] いま、「先生」の学びを創る
トピック教育課題
2020.12.21
職員室の人間関係づくり[第3回]
いま、「先生」の学びを創る
東京聖栄大学教授
有村久春
(『新教育ライブラリ Premier』Vol.3 2020年10月)
発想の転換
つい先日(夏休中)、A校の校内研究会にオンラインで参画したところです。PC画面上で、先生方と講師役の私が学び合います。コロナ事態の日々、疎になりがちな職員室の空気に〈学びの空間と時間を漂わせたい〉との校長先生の願いがあります。
先生方は研修室に3密を避けながら位置し、マスク着用です。モニター画面を通じて、そのリアルな情景が伝わってきます。いただいた演題は「人権教育の課題」です。本題に入る前に、PP資料にした画面で2つの図版※1をみていただきました。
本題の目的と導入のための意見交換を行います。
私:この①と②をご覧ください。どのように見えますか?
先1:まず①の方は、女性の横顔が見えます。②の方は、見ようとするとなぜか目を細めてしまいます。そして、真ん中のまるが浮いて見えます。
先2:私には、①の絵に怖そうなおばあさんが見えます。魔法使いのような……。②は中の円がゆらゆら動いて見えます。少し気持ち悪さも感じますけど……。
先3:画面は揺れていないのに、どうして真ん中の円が揺れ動くのか不思議です。眼の錯覚でしょうか?
先4:ええ?私には①のおばあさんが見えません(「見たくないのかも……」の笑いの声あり)。若い女性しか見えません。どうしておばあさんが見えるのか……?
私:みなさんのご意見の通りだと思います。先4の先生の疑問にヒントを差し上げてほしいのですが。
先5:はい。女性の頬のラインが老婆の鼻で、ネックレスを唇に見るとわかると思いますが、どうですか?
先4:なるほど、見えます。ありがとうございます。そうです。いま、娘と老婆の両方が見えます。
先6:2つの絵の見え方、とても面白いです。なにかハッとするものがあります。この絵を見ることで、有村先生が私たちに伝えたいことは何なのでしょうか?
私:ありがとうございます。まずは面白いと感じていただけること、うれしく思います。本日の演題に即して言うなら、人権教育の基本は「ちがいを大切にする」こと、「多様性に学び合うこと」だと考えます。今日の状況でいえば、先の見えないコロナ事態にあって、先生方にもパラダイムの転換が必要であると思います。いかがでしょう?
先7(教務主任):よくわかります。子供個々の言動を大切にすることですね。また、学習指導要領の実施でも見方・考え方を変えることを求めています。いや、そしてコロナのこともあって、授業時数確保も大変です……。
私:そうですね。このコロナ事態で学習の遅れがとても気がかりだと思います。これまでの人権教育でよく問われたいじめ問題や虐待などの課題から、今日では〈学力の保障〉を子供の学習権の観点から重視する必要があります。ですから、いま子供たちも私たち教員も「学びを問う」ことの意義や価値を改めて考え直したく思います。(この後、本題の人権課題について学び合う:以下略)
ファクターX
いまのコロナ事態にあって、日常的に気づいたり使ったりする意識による言動だけでは、その正体に立ち向かえそうにありません。数値化された情報(例;感染者数108人、昨日の半分など)に偏った個人の判断と行動が、ウイルスたちを勇気づけているかも知れません。例えば「収束の方向だ。外出を楽しもう」「友人との食事、少しの時間だからいいかも」「自分は大丈夫」などの無自覚な欲望です。
それらを躱(かわ)すような自己規制のある言葉と実際の行動が、いま私たちに求められているのでしょう。とりわけ私たち日本人にあるとされるファクターXの存在※2でしょうか。私たちが有している日本人としての無意識的な倫理観でしょう。
子供たちに向けて言うなら、自らを律する力量の育成です。いまこそレジリエンス(resilience)の獲得※3が求められます(図1)。こころの強さ、回復力、立ち直る力などを意味します。「いまは我慢が大切です」との言い方でしょう。この力量の高い子供は自己理解の一致度が高く、その振る舞いや言動に安定感があります。そして、先生が求める学習力や学校生活を楽しむ精神力にも確かさがあります。
このレジリエンスには、ファクターXと同じような特性があると思います。もちろん私たち教員も獲得しておきたい力量でもあります。専門職たる〈先生としての哲学〉をもつことなのでしょう。
A校の教務主任が話すように、子供個々の言動を大切にすることや日々の授業を的確に行うことは教師の職務遂行の基本原理でしょう。そこには学習指導要領の内容をしっかりと実施しようとする先生としてのファクターXが作用していると思われます。これからも引き続き、コロナ対策や授業時数の確保など、教員個々にとって気の休まらない事態の繰り返しが予測されます。それらを乗り越える〈見えない知恵〉がその存在Xにあるように思います。
空気の浄化
感染症対策の基本は、空気の循環です。教室などでもエアコンを入れながら窓を開けている状況がみられます。ある種の不合理さがあるでしょう。
いま、先生方の職員室でもアクセルとブレーキの両方を踏みながら空気を浄化していると思います。この事態を人間に強いるのが「コロナ」の特性でしょう。それ以前とは異なる〈新たな空気〉が漂っています。それと共存しながら〈職員室の空気〉を変えようとする2つの事例を紹介します。
①机の配置換え
コロナ事態の理不尽さが、職員室の人間関係にマイナス連鎖しては困惑が生じます。B校では全員が窓側と壁側を見る位置に職員室の机を配置換えしてみました(教頭の提案)。互いに対面していません。また、椅子だけを180度回転すると、全員が楕円形に内側に向き合い対面するカタチも可能です。
疎であり個である状況と、対面になる相互の状況にメリハリが見られるようになったようです。落ち着いて仕事に集中できる、必要な時に情報交換できる、互いの役割と専門性が一層明確になった、などまずまずの声が聞こえています。いままでの島型の職員室とは異なる空気感が漂い始めています。
②情報掲示板
子供の学習状況や生活上の変化などをポストイットにメモして、掲示するホワイトボードを職員室の隅に置いています。日々の控え目な会話不足を補うことが目的です(教務主任・養護教諭の提案)。
メモをあまり見ないのでは?との危惧も……。しかし、学年別色替え効果もあって、職員室に降りて来ては〈見る・貼る〉の動きがあります。「保健室登校のMさんが3時間目に美術の授業を受けている」「黒板に自分の意見を書かせている。発言の苦手なS君が積極的になってきた」「放課後の15分を質問タイムにしている。無口なKさんとマスク越しに筆談的なやり取りができる」などが見られます。
形式知と暗黙知
多くの先生が日々認識しているように、先生の仕事は子供個々が自らの学びを創生していくよう扶(たす)ける営みです。あえて学習指導要領に即していうならば、持続可能な社会の創り手として3つの力量形成を図ることです※4。すなわち、①知識・技能の習得、②思考力・判断力・表現力等の育成、③学びに向かう力・人間性等の涵養の3点です。
これらは、単にカリキュラム(教育課程)に即してマニュアル(指導案)通りに教えれば身に付くとするものではありません。すでに先生方が周知しているとおりです。子供個々に3つの力量形成が定着するには、「形式知」(見えやすい客観的な知)と「暗黙知」(見えにくい主観的な知)が先生の援助でバランスよく機能することが重要です(図2)。
とくに、暗黙知について基礎的な概念を示しているマイケル・ポランニーの言葉に学ぶところがあります※5。「我々は、語れる以上のことを知っている」「知識の大部分は言葉におきかえることができない」と彼は言います。言語や文面などには現れにくい内面的・精神的なこころの動きが、私たちの学びや理解を創ることを主張しています。先行きの見えにくいいまのコロナ事態にあって、とくに「先生」に求められる思索の在り方ではないでしょうか。
とりわけ、子供が〈こう考えてみよう〉〈なるほどわかった〉などとする「学びに向かう力」を獲得するとき、子供の学習活動のベースに〈暗黙知〉がその価値を存分に発揮します。この時間と空間がより〈確かな形式知〉を形成していくのです。
このような理解ができる背景には、私たちが専門とする教育学にある特有の論理があるように思います。例えば、教育学は「教育現象を社会諸科学の手法を用いて研究する経験科学である」との論です※6。独立した学問体系としての教育学というより、諸科学の学問知を統合している学問との言説です。
まさに子供の学びの一つ一つを臨床的に研究する学問であると考えます。私の理解では図2に示すように、方程式:教育学=哲学×社会学×心理学で表現できると思います。例えば、ランゲフェルド(蘭)が主張する子供を人間の本質的なものとして思索する「人間学」※7の考え方です。きわめてリベラルアーツ(liberalarts)の要素を強くもち、日々の実践的な学び合いと体験による学問なのです。
〈わからない〉の価値
私が教師の仕事を始めたころ、先輩から「子供に『先生、わからない』と言われたら、それこそチャンスだ。自分が先生として一人前に成長している証だ」との指導を受けたことを思い出します。
子供の〈わからない〉の表出に、図2で示した暗黙知と教育学の基本的価値を発見できると考えます。先生が日々執り行う授業は、本誌の本連載:第1回「授業構成の要素」※8の図表に記したように実に多様な要素から成り立っています。ですから、子供の発言や考えを安易に切り捨てたり聞き流したりすることは、〈先生の授業〉ではナシです。
授業中の一つの出来事(学び)には、子供と先生相互にある複雑多岐な思考や感情が錯綜しています。その面白さと謎解きが〈授業〉なのかも知れません。このことを黒澤映画の『羅生門』※9に学んだのが、イリノイ大学のアトキン氏です。彼はこの映画の視聴からカリキュラム論のあり様を「羅生門アプローチ」と称して、私たちに紹介しています※10。
龍之介の小説『藪の中』※11をモチーフにした映画作品です(短編『羅生門』との合成)。三船敏郎と京マチ子が主演です。ある山中で、殺人事件が起きます。それに関与する者の証言が〈いかにして食い違うのか〉を問うことがこの映画のテーマです。
そこに人間の多彩なエゴ(ego)が渦巻きます。欲望や虚偽であったり自己防衛や自己美化であったりします。観る者に自尊心とは?正直とは?真実はどこに?などを問いかけています※12。そして、〈わからない〉をそのままにして銀幕を閉じます。
子供と先生が学び合う授業も、まさに〈わからない〉の追究ではないか?との発想がアトキン氏の研究にあると思います。一般論としても、授業場面での学習過程の実像はきわめて複雑な展開をするものです。そこにこそ学びの実感があります。その思考の拡がりも無限です。予定調和的な授業はどこか〈つまらなさ〉を醸し出すことがあるでしょう。
アトキン氏はこの映画にヒントを得て、その報告書(注10)の中で2つのカリキュラム論(工学的接近と羅生門的接近)を提案しています(図3:彼の論をもとに筆者が図表化)。多くの「先生」はこの2つのアプローチを止揚させながら、〈学びのわからなさ〉を子供と一緒に探究していると思います。
[注]
1 ①の図版:「婦人と老婆」(作者不評)、②の図版:「オオウチ錯視」(Ouchi、1977)。両方ともネット情報からの引用
2 山中伸弥教授(京都大学)のHP:「ファクターX」(日本の感染者数や死亡率が諸外国よりも低い要因)。その候補として徹底的なクラスター対応、マスク着用や入浴などの衛生意識、ハグや握手などが少ない生活文化、日本人の遺伝的要因、BCG接種等の公衆衛生政策などを挙げている。
3 参考:「子どものレジリエンス」『児童心理』2014年8月号、金子書房
4 参考:文部科学省「学習指導要領(第1章総則)」2017年3月31日
5 マイケル・ポランニー著『暗黙知の次元』紀伊国屋書店、1980年、p.15
6 参考:岡崎友典他著『教育学入門』放送大学教育振興会、2015年
7 M.J.ランゲフェルド著、和田修二訳『教育の人間学的考察』未来社、1966年、p.35~(第二章)
8 本誌Vol.1 第1回連載 p.88(図3)
9 映画『羅生門』(黒澤明監督)ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞、1950年公開
10 文部省大臣官房調査統計課「カリキュラム開発の課題-カリキュラム開発に関する国際セミナー報告書」1975年、pp.15-19
11 芥川龍之介著「藪の中」『地獄変・偸盗』に所収
12 佐藤忠男著『映画の真実』中公新書、2001年、pp.9-24参照
Profile
有村久春(ありむら・ひさはる)
東京都公立学校教員、東京都教育委員会勤務を経て、平成10年昭和女子大学教授。その後岐阜大学教授、帝京科学大学教授を経て平成26年より現職。専門は教育学、カウンセリング研究、生徒指導論。日本特別活動学会常任理事。著書に『改訂三版キーワードで学ぶ特別活動生徒指導・教育相談』『カウンセリング感覚のある学級経営ハンドブック』など。