次代の学びを創る知恵とワザ 第1章 8 「見方・考え方」を働かせて学ぶということ
授業づくりと評価
2024.03.26
第1章 コンピテンシー・ベイスという思想
8 「見方・考え方」を働かせて学ぶということ
上智大学教授
奈須正裕
対象と方法
ごく普通に「この教科は何をするんですか」と尋ねると、理科なら「自然の事物・現象を扱う」、国語科なら「言葉や文章について必要な事項を教える」といった答えが返ってきそうだ。しかし、各教科等は取り扱う対象や領域と共に、それらにどうアプローチするかという認識や表現の方法、二〇一七年版学習指導要領でいう「各教科等の特質に応じた『見方・考え方』」によっても明確に特徴づけられる。
たとえば、理科は自然の事物・現象を対象とするけれど、輪廻転生は教えない。「だって、輪廻転生は間違っているから」と理科教師は言うんだろうけど、近代科学主義なり実証主義という認識論的立場に立つからそういう判断になる。哲学や宗教、文学や芸術から見れば、輪廻転生というアイデアには大きな可能性があり、現にそれに依拠して美的創造を成し遂げ、あるいは幸せな人生を送った人々は、歴史的に見ても膨大な数に上るだろう。
実際、同じ学校教育でも国語科なら佐野洋子作の『一〇〇万回生きたねこ』を教材文にし、「どうしてねこは死んだのか」を学習問題に議論したりするんだけど、これはファンタジーという世界観なり方法論を基盤にしてこそ成立する。一方、サイエンスに立脚する理科では、それは荒唐無稽な議論として退けられるし、国語科でも教材文がネコに関する説明文であれば、やはりそうはしないだろう。
このように、それぞれの教科等には、知識や価値や美を生み出す独自にして根拠のある方法論がある。しかも、それらの間に優劣をつけることなんかできやしない。サイエンスから見れば、ファンタジーは荒唐無稽な絵空事に映るかもしれないけれど、ファンタジーという形式や方法でしか描くことができない人生における重要な真実もまた、確実に存在する。また、だからこそ学校ではさまざまな教科を教えているんだ。
文部科学省は「各教科等の特質に応じた見方・考え方」の英訳として、a discipline-based epistemological approachを用いてきた。disciplineには規律や訓練といった意味もあるんだけど、この場合は学問分野を意味する。しかも、同じ学問分野でも対象や領域ではなく、その分野に固有な原理原則や独自な方法論を強調する表現がdisciplineなんだ。
また、epistemologicalとは認識論的、つまり世界をどのように見るか、そして知識や価値や美をいかに生み出すかということになる。したがって、a discipline-based epistemological approachとは、その教科に独自な方法論を基盤とした認識論的アプローチという意味になり、話してきたような理解と符合する。そして、それこそが「見方・考え方」が具体的に指し示すものなんだって考えればいい。
対象適合的な「見方・考え方」
ところで、なぜ理科は近代科学的な「見方・考え方」で自然の事物・現象にアプローチするんだろう。それは、永年にわたって人類が自然の事物・現象に対しさまざまな挑み方をした末の現状における到達点として、こと自然の事物・現象に関する限り、どうも近代科学的なアプローチがもっとも多くの豊かな実りをもたらすらしいとの認識が、広く社会的なコンセンサスを得ているからなんだ。
つまり、各教科等の「見方・考え方」は、その教科等が主に取り扱う対象に対し、現状においてもっとも適合的なものが選択され、体系化されている。この対象適合的な「見方・考え方」を働かせて個別・具体的な対象にアプローチするからこそ、それに見合った「思考力、判断力、表現力等」や「学びに向かう力、人間性等」が培われ、もちろん「知識及び技能」もまた、適切かつ着実に習得できる。
と同時に、理科の学習を通して育まれる近代科学という認識論や方法論は、自然の事物・現象以外の、たとえば社会事象に対しても大いに有効でもある。実際、僕たちは自然科学のような厳密なやり方ではなく、多分に擬似的かもしれないけれど、「条件制御」や「系統的な観察」など近代科学が編み出した知識生成の発想や道具立てを、社会事象の理解や予測にも日常的にさまざまに適用し、随分とその恩恵にあずかってきた。それどころか、汎用的スキルと呼ばれるものの多くも、その実相は、特定の教科等の「見方・考え方」として鍛えられたものの、他の領域や対象への適用にほかならない。
このように、その教科等の学びを深く豊かなものとし、資質・能力を十全に育むために、まずは各教科等の中で、しっかりと「見方・考え方」を育むことが大切なんだ。さらに、それらを当初の領域や対象以外にも適用する機会を設け、どのような場合に、どのような理由でそれが効果的なのかを感得できるようにすることで、その教科等ならではの「見方・考え方」は、さまざまな問題場面で自在に活用の効く汎用的スキルへと進化を遂げていくだろう。
『大造じいさんとカルガモ』
では、その教科等ならではの「見方・考え方」を存分に働かせて対象に肉薄し、学びを深める子どもの姿とは、たとえばどんな様子なんだろう。また、その際、教師はどのように子どもを支援していけばいいのか。具体的な事例で考えてみたい。
五年生のその子は、生き物が大好きな典型的な理科少年だった。とりわけ鳥に関心と造詣が深く、社会科で水産業の勉強をしている時にだって、漁師さんが海鳥の様子を手がかりに漁場を決めるなんてことを調べてきて、授業の中で報告するくらいなんだ。
そんな彼が国語科の『大造じいさんとガン』の学習に際し、この作品をまずは生物学的に考察しようと思い立ったのは、ごく自然なことだったに違いない。
ところが、いざ探究を始めてみると、さまざまな疑問がわいてくる。まず、二年間にわたり、大造じいさんはタニシを餌として罠を仕掛けるんだけど、ガンは基本的に草食性で、タニシを食べることはまずない。また、ガンと戦ったとされるハヤブサは、最大翼長一二〇センチの中型の猛禽類で、一・八キログラム以下の獲物を捕獲する。
一方、ガンは最大翼長一六五センチ、体重二キログラム以上にも達する大型の鳥であり、ハヤブサの餌としては大きすぎる。
彼は大いに思案し、ガンと似た水鳥でタニシを食べるという条件には雑食性のカモが該当すること、さらにハヤブサに襲われるという点を勘案すると、カモの中でも小型で雑食性の強いカルガモの可能性が高いとの結論に達した。つまり、彼によると、この作品の表題は『大造じいさんとカルガモ』でなければならない。家庭学習ノートに、彼は次のように記している。
「大造じいさんとガンで、一番読者の心に残るのは、ハヤブサとガン(残雪)の戦う場面でしょう。しかし、ハヤブサとガンが大きさ的に戦うわけがなく、きっと、大造じいさんはカルガモをガンと間違えたのでしょう」
科学的に迫ったからこそ立ち上がる問い
このように考える子どもは、物語学習が暗黙の前提とする文学的な世界観やその独自な論理展開といった「見方・考え方」に馴染むことができず、国語嫌いになりやすい。ところが、彼はその後のノートに、次のように書いている。
「椋鳩十の書く話は生物学的に言えばおかしい点もあるが、文学的に読むと、かなりおもしろいです。どうしておもしろいかというと、椋鳩十はすぐれた文章力を持っているからです。
椋鳩十の話はいきいきとしていて、命の輝きが感じられます。読者をぐいぐいと話へ引き込んでいく。僕もそんな文章が書きたいと思い、大造じいさんとガンを読んでみると、面白いことに気が付きました。椋鳩十は、セリフに印象的な言葉をたくさん入れているのです。これは『片耳の大鹿』でもそうです。(中略)
明らかに椋鳩十の文章は他の文章と違います。椋鳩十と同じく動物ばっかり書いているシートンとも違います。終わり方も印象的です。椋鳩十はセリフの用い方が特殊で、その特殊なところがいいんです」
主要な登場人物であるガンをカルガモと取り違えるという過ちは、彼の感覚からすれば致命的であり、その一点において、この作品の価値が無に帰す可能性すらあっただろう。にもかかわらず、一旦作品を読み始めると、そんな自分が「ぐいぐいと」話へ引き込まれていくのを体感する。
ここに、彼ならではの問いが生じた。なぜ、「生物学的に言えばおかしい」作品に引き込まれるんだろう。この切実な問いに答えようとする中で、科学的なアプローチとは異なる対象への迫り方、具体的には文学的な「見方・考え方」に、自分が知らず知らずのうちに立っていたことに気付く。
だからこそ、あえて「文学的に読むと」と断っているんだよ。ハナから文学的に読んでいる子どもからは、この表現は決して出てこない。まずは生物学的に読んだ彼だからこそ、文学的に読もうとしている自分が意識化されたんだ。
そして、文学的な「見方・考え方」を働かせて作品に迫ったからこそ感じられるおもしろさがある。それは科学的な「見方・考え方」でアプローチした際に得られるものと同じくらい価値あるものであり、さらに両者は併存しうる。
このことに気付いた彼は、さらに鋭角的に探究を深めていく。そして遂に、椋鳩十の「セリフの用い方」に着目し、その「特殊なところ」によさがあると結論付けたんだ。これは、椋鳩十が書いた『大造じいさんとガン』というテキストを、「セリフ」という根拠を挙げつつも、彼が彼ならではの観点と感性から解釈し価値付けた読みであり、国語科でいう「読者論」的なアプローチといえるだろう。
しかし、探究はそれで終わらない。この発見が真実かどうかを、さらに別の角度からも検証していくんだ。そして、特殊な「セリフの用い方」は、『片耳の大鹿』など他の椋鳩十作品にも共通する特質であり、しかも「同じく動物ばっかり書いている」シートンなど他の作家とも異なることを見出す。
この追加的分析は、国語科でいう「作品論」「作家論」的な読みであり、トータルで見た場合、文学的な方法論を存分に駆使した、国語科の王道を行く探究といえるだろう。と同時に、科学的な「見方・考え方」を働かせる迫り方を基本とし、身上とする彼だからこそ成し得た探究でもあるように、僕には思えてならない。
そこを起点に伸びていく
興味深いのは、生物学的に検討するという、国語の物語学習としては異例というか異端ともいうべき迫り方をしたことが、かえって文学的なアプローチを採ることの意味の自覚化を促し、結果的に国語科的に見ても執拗にして的確な探究をもたらしたことだろう。
注目すべきは、最初の家庭学習ノートに対する教師の朱書きだ。「ハヤブサが大きさ的にガンと戦うわけがなく、きっと、大造じいさんはカルガモをガンと間違えたのでしょう」と書いてきた彼に対し、担任は「よく調べましたね。〇〇くんらしい学びのつくり方です」と称賛している。
単に調べたという事実を称賛しているんじゃない。それがこの子らしい「学びのつくり方」、つまりここを起点として、彼ならではの筋道でさらに学びを深めていくことを期待し、またそうなるよう支援していこうとしているんだよ。
物語に対しては、ハナから文学的に読もうとする子が大多数だろう。しかし、中には科学的に迫ろうとする子もいる。ここで、それは物語の読み方としてふさわしくない、あるいは間違っていると言い渡し、文学的に読むよう指導する教師は、決して少数派ではない。それどころか、真剣な眼差しで「科学的に検討したい」と言ってきた子どもに、それはナンセンスだと決めつけ、笑ってしまう教師もいるかもしれない。
しかし、本人は至って真剣であり、それを否定したり笑ったりすることは、せっかく育とうとしている「学びに向かう力」を削ぎ、後にその教科等ならではの「見方・考え方」へと意識を向かわせる可能性を閉ざしかねない愚行なんだ。
むしろ、この事例が示唆するように、その子ならではの「見方・考え方」を存分に働かせた対象に対する迫り方を、そこを起点に今まさに伸びていこうとしている育ちのエネルギー源、かけがえのなさとして大切に扱いたい。そして、今後この子が学びを深めていく筋道を予測し、寄り添い、必要に応じて支えていくことが、教師として真に為すべきことなんじゃないかって、僕は思う。
奈須正裕(なす・まさひろ)
上智大学総合人間科学部教育学科教授。博士(教育学)。1961年徳島県生まれ。徳島大学教育学部卒、東京学芸大学大学院、東京大学大学院修了。神奈川大学助教授、国立教育研究所室長、立教大学教授などを経て現職。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会会長。主な著書に『子どもと創る授業』(ぎょうせい)、『「資質・能力」と学びのメカニズム』(東洋館出版社)、など。編著に『新しい学びの潮流(全5巻)』(ぎょうせい)、『教科の本質から迫るコンピテンシー・ベイスの授業づくり』(図書文化社)、『教科の本質を見据えたコンピテンシー・ベイスの授業づくりガイドブック』(明治図書)など。