次代の学びを創る知恵とワザ 第1章 9 「見方・考え方」のルーツを探る
授業づくりと評価
2024.04.02
第1章 コンピテンシー・ベイスという思想
9 「見方・考え方」のルーツを探る
上智大学教授
奈須正裕
三つの視点と学力の三層構造論
知り合いの指導主事から、二〇一七年版学習指導要領を巡って、多くの先生方が「よくわからない」って首をひねっている言葉の最右翼は、「各教科等の特質に応じた『見方・考え方』」だって話を聞いた。
それがどんなものかってことは1-8に書いた通りで、まあわかってしまえばそんなに難しくはない。それに、「見方・考え方」という概念や言葉自体は、「科学的な見方・考え方」のように、ずっと以前からしばしば使われてきてもいる。
とはいえ、正確を期するのは大切なことだから、ここではそのルーツを確認しておこう。二〇一七年版学習指導要領で用いられている「見方・考え方」の直接的なルーツは、二〇一二年一二月から二〇一四年三月までの足掛け三年もの長きにわたり、「次期学習指導要領に向けての基礎的な資料を得る」べく「資質・能力」について検討を進めた、「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」に求めることができる。
文部科学省内に設置されたこの検討会は、二〇一四年三月三一日に「論点整理(主なポイント)」を出すんだけど、そこでは「日本でも比較的早い時期から『生きる力』の理念を提唱しており、その考え方はOECDのキー・コンピテンシーとも重なるものであるが、『生きる力』を構成する具体的な資質・能力の具体化や、それらと各教科等の教育目標・内容の関係についての分析がこれまで十分でなく、学習指導要領全体としては教育内容中心のものとなっている」とし、「より効果的な教育課程への改善を目指すためには、学習指導要領の構造を、育成すべき資質・能力を起点として改めて見直し、改善を図ることが必要」であると結論づけられている。これがまあ、二〇一七年版学習指導要領の改訂作業における基本的枠組みになったと考えていいだろう。
そして、「現在の学習指導要領に定められている各教科等の教育目標・内容を以下の三つの視点で分析した上で、学習指導要領の構造の中で適切に位置付け直したり、その意義を明確に示したりすることについて検討すべき」としている。
ア 教科等を横断する汎用的なスキル(コンピテンシー)等に関わるもの
①汎用的なスキル等としては、例えば、問題解決、論理的思考、コミュニケーション、意欲など
②メタ認知(自己調整や内省、批判的思考等を可能にするもの)
イ 教科等の本質に関わるもの(教科等ならではの見方・考え方など)
ウ 教科等に固有の知識や個別スキルに関するもの
注目すべきは、「ア 教科等を横断する汎用的なスキル(コンピテンシー)等に関わるもの」と、「ウ 教科等に固有の知識や個別スキルに関するもの」の間に、「イ 教科等の本質に関わるもの(教科等ならではの見方・考え方など)」が位置付いているという構造それ自体だろう。つまり、コンピテンシーとコンテンツという、ともすれば対立しかねない二つの学力側面を、教科等の本質が仲立ちし、有機的に結びつける関係になっている。このことは、三つの視点が、単に検討すべき視点が三つ存在することを示す以上に、学力をこのような三層構造で考えるという、学力論に関する新たな視座を提供していることを意味している。
教育学には、コンテンツ重視の系統主義とコンピテンシー重視の経験主義の対立という頑迷で厄介な図式があるわけなんだけど、三つの視点が示す学力の三層構造は、この図式を軽々と乗り越え、アウフヘーベンしてしまう潜在的な力がある。そんなわけで、僕はこの三層構造論にすっかり惚れ込んでいて、さらにこれを発展させるべく、仲間と共に学術的・実践的にあれこれとやってきた。関心がある人は、『知識基盤社会を生き抜く子どもを育てる』『教科の本質から迫るコンピテンシー・ベイスの授業づくり』を読んでみてほしい1。
[注]1 奈須正裕・久野弘幸・齊藤一弥(編著)『知識基盤社会を生き抜く子どもを育てる ― コンピテンシー・ベイスの授業づくり』ぎょうせい、二〇一四年
奈須正裕・江間史明(編著)『教科の本質から迫るコンピテンシー・ベイスの授業づくり』図書文化社、二〇一五年
学力論のグローバル・スタンダード
検討会が解散した後、二〇一四年一一月二〇日に大臣諮問があり、学習指導要領の改訂作業がスタートする。そして、二〇一六年一二月二一日に中央教育審議会の答申が出され、二〇一七年三月から順次、学習指導要領が告示されていった。
中教審での議論は、もちろん先の検討会の結論を踏まえて行われたわけなんだけど、結果的に学力論としては「資質・能力の三つの柱」、つまり「知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力・人間性等」という表し方を選択する。
三つの視点と三つの柱は、イメージしている学力それ自体に大きな違いはない。これは両方の議論に参加した当事者として、しっかり言明しておきたいと思う。
では、三つの視点と三つの柱では、なぜこうも違ってくるのか。学力というのはいわば立体的な構造物だから、その表現に際しては、何らかの角度でもってスライスして見せる必要がある。つまり、三つの視点と三つの柱では、同じ学力という構造体を、どの角度から切って見せるか、その切断面の角度が違っているんだよ。
三つの柱を生み出す角度が選択された最大の理由は、学校教育法三〇条二項に規定された、いわゆる「学力の三要素」、つまり「基礎的・基本的な知識・技能」「知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等」「主体的に学習に取り組む態度」との整合性だろう。もちろん、それ自体は妥当な判断だといっていい。
それどころか、同様の把握はOECDなんかでも提起されているし、この章を通じて見てきたように、子どもの「学び」や「知識」に関する科学的な知見とも合致している。したがって、僕としても三つの柱を採用したことそれ自体には、まったく異論はない。
「教科等の本質に関わるもの」から「見方・考え方」へ
ここで改めて、三つの視点と三つの柱の関係を見てみよう(図1-4)。三つの視点の「ア 教科等を横断する汎用的なスキル(コンピテンシー)等に関わるもの」は、メタ認知をも含めた、認知的・情意的・社会的なすべての汎用的スキルを含むものとなっている。さらに、明示こそされていないけれど、汎用性のある価値や態度に関わる学力要素も、ここに位置付けられていると解釈していいだろう。
これに対し、三つの柱の「思考力・判断力・表現力等」には、主に認知的な汎用的スキルが、「学びに向かう力・人間性等」には、情意的・社会的なスキルに加えて、価値や態度に関わる学力要素が位置付けられると考えられる。つまり、三つの視点と三つの柱は、この部分について、ほぼ一対二の関係でそれぞれ整理されているというわけなんだ。
一方、三つの視点の「ウ 教科等に固有の知識や個別スキルに関するもの」は、三つの柱の「知識・技能」とキレイに対応している。かくして、三つの視点の側においてのみ、「イ 教科等の本質に関わるもの(教科等ならではの見方・考え方など)」が残る。
それを、二〇一七年版学習指導要領では「各教科等の特質に応じた『見方・考え方』」として、三つの柱とは別建ての形で学力論の構造の中に位置付けたと考えれば、すべてが整合的に理解できるだろう。
二〇一七年版学習指導要領では、各教科等の目標の記述様式が大幅に刷新された。たとえば、小学校算数科の目標は次のような文言になっている。
数学的な見方・考え方を働かせ、数学的活動を通して、数学的に考える資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
⑴ 数量や図形などについての基礎的・基本的な概念や性質などを理解するとともに、日常の事象を数理的に処理する技能を身に付けるようにする。
⑵ 日常の事象を数理的に捉え見通しをもち筋道を立てて考察する力、基礎的・基本的な数量や図形の性質などを見いだし統合的・発展的に考察する力、数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表したり目的に応じて柔軟に表したりする力を養う。
⑶ 数学的活動の楽しさや数学のよさに気付き、学習を振り返ってよりよく問題解決しようとする態度、算数で学んだことを生活や学習に活用しようとする態度を養う。
具体的な表現は各教科等により微妙に異なるんだけど、基本的な構造としては、まず第一の文において、各教科等の特質に応じた「見方・考えを働かせ、○○な活動を通して、△△する(のに必要な)資質・能力を次の通り育成することを目指す」と宣言される。そして、その後に⑴~⑶として、資質・能力の三つの柱に基づき、「知識及び技能」「思考力、判断力、表現力等」「学びに向かう力、人間性等」に関する具体的な記述が列挙される。
つまり、三つの視点における「イ 教科等の本質に関わるもの(教科等ならではの見方・考え方など)」から姿を変えた「各教科等の特質に応じた『見方・考え方』」を働かせた学習活動を通して、資質・能力の三つの柱を育成するという構造になっているんだよ。
このように、二〇一七年版学習指導要領では学校教育法等との整合性を確保しつつ、三つの視点が示した学力の三層構造の理念を発展的に継承しているんだ。
「見方・考え方」を働かせたからこそ存在している
では、具体的に「各教科等の特質に応じた『見方・考え方』」を働かせて「資質・能力の三つの柱」を育成するとはどういうことなのか、考えることにしよう。これは、一見とんでもない難問のように見えるんだけど、実は非常にシンプルなことだって僕は思う。
先に1-8で、「各教科等の特質に応じた『見方・考え方』」とは、その教科等ならではの対象に対する独自なアプローチの仕方なんだって話をした。このことをひっくり返して考えるならば、その対象に対してアプローチするに際して、その教科等ならではのアプローチに「制限」をかけたからこそ、今日その教科等で教えることになっているさまざまな知識や技能が生成されたという事実に気付くだろう。
たとえば、1-8でも述べた通り、理科は自然の事物・現象という対象に挑むに際し、近代科学という「見方・考え方」にそのアプローチを厳格に「制限」している。だからこそ、輪廻転生は理科では教えないし、国語科の教科書のように、キツネやタヌキがしゃべることもない。もちろん、キツネの気持ちについて延々と議論することも、理科ではやらない。
つまり、理科で教える特定の知識を前に、どうやってこんな知識を人類は獲得してきたのかと問えば、それは理科ならではの対象に対するアプローチ、「見方・考え方」を働かせたからだろう。したがって、子どもたちがその知識を学ぶ際にも、そのような「見方・考え方」を働かせて、その知識に彼らがたどり着くように、授業を設計するのが望ましい。というか、教科書も含め、すでに通常の理科の授業はそうなっている。
ただ、現状では、なぜこの教科の教科書なり通常の授業がそうなっているのかという極めて大切な事柄について、当の教師が明晰に気付けていないことがあまりにも多い。したがって、なぜ実験なり観察をするのかについて何らの問いも納得も持たず、ただただ実験なり観察を子どもたちにやらせてしまっている。その結果、子どもたちも一種の「儀式」として実験や観察をこなしていて、その「儀式」が知識生成において持つ意義や限界について、およそ明確な自覚や深く構造的な理解が生じていない。
こういった状態を、僕は典型的なコンテンツ・ベイスの教育として強く糾弾したい。資質・能力の育成とかコンピテンシー・ベイスの教育というのは、何も現行のものとはすっかり異なる授業づくりを求めるわけじゃない。現行の教科書や従来の授業づくりにおいて、どうしてそうなっているのかを教師がしっかりと理解し、自覚すれば、一気に資質・能力の育成へと向かう場合も少なくないんだ。
そのためにも、まずはその教科等で教える個々の知識が、その教科等ならではの「見方・考え方」を働かせたからこそ今ここにあるという点を常に押さえて教材や内容の研究を進めることが、僕は資質・能力育成の第一歩なんじゃないかって本気で思う。
この知識生成の筋道なり論理が教師にしっかりと見えてくると、次にはそれを子どもにも見えるようにしようと考えるだろう。そして場合によっては、すでに教科書すらそのことをしっかりと踏まえていることに気付く。すると、同じ教科書であっても、その使い方、活かし方はすっかり変わってくるだろう。授業のどこで立ち止まり、何を子どもたちに意識させようとするかも、まったく違ってくると思うんだ。
そして、それだけの違いであっても、同様のことが毎時間繰り返されていくならば、次第に子どもたちはその教科等ならではの「見方・考え方」を感得するようになるだろうし、個々の知識や技能も、ばらばらのものではなく、「見方・考え方」を拠点として関連付けられ、意味的に統合された知識へと高められていく。
資質・能力の育成というのは、たとえばそんな風に進めていくことができるし、そこでは常に「各教科等の特質に応じた『見方・考え方』」を存分に働かせていくことが重要になってくる。二〇一七年版学習指導要領の各教科等の目標に「○○な見方・考え方を働かせ」、とあるのは、実にそういったことなんじゃないかって、僕は思うんだ。
奈須正裕(なす・まさひろ)
上智大学総合人間科学部教育学科教授。博士(教育学)。1961年徳島県生まれ。徳島大学教育学部卒、東京学芸大学大学院、東京大学大学院修了。神奈川大学助教授、国立教育研究所室長、立教大学教授などを経て現職。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会会長。主な著書に『子どもと創る授業』(ぎょうせい)、『「資質・能力」と学びのメカニズム』(東洋館出版社)、など。編著に『新しい学びの潮流(全5巻)』(ぎょうせい)、『教科の本質から迫るコンピテンシー・ベイスの授業づくり』(図書文化社)、『教科の本質を見据えたコンピテンシー・ベイスの授業づくりガイドブック』(明治図書)など。