自治体の防災マネジメント
自治体の防災マネジメント[50]新型コロナウイルス後の時代を考える
地方自治
2021.02.03
自治体の防災マネジメント―地域の魅力増進と防災力向上の両立をめざして
[50]新型コロナウイルス後の時代を考える
鍵屋 一(かぎや・はじめ)
(月刊『ガバナンス』2020年5月号)
新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、政府が緊急事態宣言を出し、「接触8割削減」を目標とした。これにより観光、宿泊、交通、飲食業など多くの業種で苦境に陥っている。一方、テレワークの推進、WEB会議など、わが国で遅れていたICT化が一挙に進んでいる。私たちは、大きな歴史の転換点にいるようだ。
では、次に何が起きるかを考えてみたい。そのとき、過去の歴史を遡って新型ウイルス感染症で何が起こったか、その後どうなったかが参考になるであろう。
スペイン風邪
1918年から1920年にかけて世界的大流行(パンデミック)となったスペイン風邪は、全世界で当時の人口の4分の1、5億人が感染し、死者は5000万人とも1億人とも言われる。
日本においてスペイン風邪の実態は、内務省衛生局編『流行性感冒』(1922年)によって明らかとなっている。翻刻された『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』(2008年)を平凡社が無料公開してくれている(*)。
第1次スペイン風邪の初発は大正7(1918)年8月上旬で山梨県となっている。他に、奈良、福島が8月、いくつかの県では不明となっている。大阪(275万人)が10月上旬、東京(364万人)では10月中旬に始まった。翌大正8(1919)年1月15日までに大阪では47万人以上が感染し1万1280人が亡くなり、東京では、52万人以上が感染し5030人が亡くなるというすさまじい状況になっている。最終的に2100万人以上が感染(人口の37%)し、25万7000人以上(致死率1.22%)が亡くなっている。
しかし、これで収まらなかった。第2回流行が大正8(1919)年9月に始まり、241万人が感染、12万8000人弱が死亡。さらに大正9(1920)年9月から第3回流行が始まり大正10(1921)年7月までに22万4000人が感染し、4000人弱が亡くなった。
スペイン風邪と新型コロナウイルスの対策
『流行性感冒』の解説を記している西村秀一氏(国立病院機構仙台医療センター臨床研究部ウイルス疾患研究室長)は、「これといった有効な武器をほとんど持たず、それでもこの流行の拡がりを少しでも食い止めようと、その持てる資源と英知でこの流行に立ち向かった当時の人びとの軌跡を具体的に知ることができる」と当時の人々の真摯な姿勢を讃えている。
また、「ただ、本当のところ、みなが熱心で基本に忠実だったわけではない。そうした県や地域による温度差といったものも見どころではある。その違いがいったいどこから来たのか、今後大いに研究の余地があろう。また、中央と地方との関係も、たとえば、衛生局と県知事との予算がらみのやりとりなど現代と通じるところがあって面白い」と、まるで今の状況を言い当てているようだ。
新型コロナウイルス対策では、たとえば「接触8割削減の目標達成には、一定の職種には休業が必要で、それには休業要請と補償がセットになるのが望ましい」となるが、誰がどこまで負担するかで時間が経ってしまう。その間に、対策は遅れ、どんどん感染者が増えていく。
私は、国全体で流行する感染症対策は、国が負担するのが筋だと思っている。スピードが求められる感染症対策では、経費負担でもめている時間がもったいない。
進め方としては災害支援に準じてはどうだろう。最初は少額で緩い支援から始めて、段階的に必要に応じた支援に移行するものだ。たとえば、災害時に避難所に入るのには被害も所得にも制限はなく無差別支援をする。これは、被災者感情に配慮した対策だ。その後、徐々に被害や所得に応じた支援制度へ移行する。これが公平性、実効性に配慮した対策になる。
スペイン風邪が目立たないのはなぜか
これだけ大きな犠牲者を出しているにもかかわらず、スペイン風邪の社会的インパクトは戦争や、他の災害に比して強いとは言えない。それはなぜだろうか。
西村秀一氏は、二つの社会的背景を挙げている。一つは、流行当時は第1次世界大戦のさなかにあって、そちらに人々の関心が向いていたこと、二つ目は、当時の疾病事情で流行性感冒以外の肺結核など呼吸器系疾患で亡くなる方が極めて多かったことである。
すなわち、他の大きな出来事に紛れて、事の重大さと人々の認識との間に大きなギャップが生じたのだ。人々の関心が薄いと、大きな政策課題になりにくく、研究予算や人材確保が難しくなる。せっかくの調査・知見が、次に生かされず、同じことを繰り返してしまう。
そこで、社会の課題解決を志す者は、人々の関心がまだ高い時に、すぐに新たな提案ができるよう、日頃から案を練っておかなければならない。自治体職員も、研究者も自らの職場や専門分野において、このような姿勢を持っていたい。
関東大震災以後
スペイン風邪の流行が収まってからわずか2年後、1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生する。地震発生時の強風により火災が拡大し、陸軍被服廠跡地(現在の墨田区横網町公園周辺)では火災旋風により約3万8000人が亡くなるなど、死者は約10万5000人。旧東京市の4割以上が焼失している。推計被害額は約45億円で、当時の日本の国内総生産(約150億円)の約3分の1に相当する。その後、膨大な復興事業が行われ、その資金を得るため国、企業の対外債務は急増した。
さらに震災不況、1927(昭和2)年からの昭和金融恐慌、1929年以後の世界恐慌と経済環境は厳しさを増していく。農村部では飢えに苦しんだ農民の娘たちの身売りが日常化し、都市には失業者が溢れ返る。
このような社会状況や軍予算の削減などに不満をもつ一部将校により1932年に5・15事件(犬養毅首相を殺害)が発生する。1933年に国際連盟脱退、1936年に2・26事件(高橋是清蔵相らを殺害)、1937年の盧溝橋事件を機に日中戦争、1941年には太平洋戦争に突入する。しかも、これらはすべて静かな、あるいは熱狂的な国民の支持を集めたことを忘れてはならない。
新型コロナウイルスと災害
日中戦争まで、スペイン風邪の流行から19年、関東大震災から14年に過ぎないことに驚かされる。歴史の教科書では、日中戦争の原因として関東大震災が挙げられることは少なく、スペイン風邪が挙げられることはない。しかし、歴史的な巨大イベントの背景には、社会全体の底流変化があり、それは感染症や大災害をきっかけとしているのではないか。
そう考えたとき、次の災害への備えがさらに重要になってくる。当面は、今年夏に発生するであろう風水害対応である。
避難所は感染症を拡げる3密(密閉、密集、密接)になりやすい。感染症予防の基本対策を徹底しただけでは足りず、避難する必要のない人は避難所に行かない、避難の必要のある人も余裕があれば遠くの親族などに行くなど避難者を少なくする取り組みが必要だ。また、要配慮者を受け入れる福祉避難所を拡充することも喫緊の課題だ。個人的には、ホテル・旅館が個室対応するのが良いと考えている。
そして、首都直下地震や南海トラフ地震など巨大災害への備えの強化である。ウイルス感染症、大災害から戦争に突き進んだ過去の轍を踏んではならない。
今が歴史の転換点だとすれば、良い方向に舵を切るため、不急の政策はいったん棚上げして、国レベルの危機管理に邁進すべき時機である。
Profile
跡見学園女子大学教授
鍵屋 一(かぎや・はじめ)
1956年秋田県男鹿市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、東京・板橋区役所入区。法政大学大学院政治学専攻修士課程修了、京都大学博士(情報学)。防災課長、板橋福祉事務所長、福祉部長、危機管理担当部長、議会事務局長などを歴任し、2015年4月から現職。避難所役割検討委員会(座長)、(一社)福祉防災コミュニティ協会代表理事、(一社)防災教育普及協会理事 なども務める。 著書に『図解よくわかる自治体の地域防災・危機管理のしくみ』 (学陽書房、19年6月改訂)など。