特別寄稿 だれひとりの性も取り残さない社会づくり

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2021.05.10

特別寄稿 だれひとりの性も取り残さない社会づくり


LGBTユースのための居場所にじーず代表
遠藤まめた

『新教育ライブラリ Premier』Vol.5 2021年2月

ムーミンママのひとこと

 筆者はLGBTの子ども・若者が集まれる居場所を運営している。LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーといった性的少数者を表す言葉の頭文字を並べた用語で、この10年ほどで日本でも徐々に知られるようになった。言葉自体は最近知られるようになったものの、LGBTに該当する人は、もちろんいつの時代にもどの社会にもいた。

 たとえば、『ムーミン』の作者として知られるトーベ・ヤンソンも、同性のパートナーがいたことを隠さずに生きた一人だ。1914年に生まれた彼女は、今日生きている私たちと比べ、LGBTへの偏見のずっと厳しい社会で生きていた。ムーミンのキャラクターの原型がはじめて登場するのはトーベが描いたナチスの風刺画の中だと言われている。ナチスはユダヤ人をガス室で殺したが、たくさんの同性愛者やトランスジェンダーの命も同じように奪った。やがて戦争が終わって自由な時代になったかといえばそうではなく、同性愛はいぜんとして精神疾患や犯罪と同一視され、迫害は続いた。そんな時代であっても、トーベは自由に生きようとした。国を代表するアーティストとして様々な公式行事に呼ばれると、トーベは同性パートナーと一緒に参加し、二人は仲良く晩年まで過ごした。

 彼女の作品に「猫を好きになる犬」の話がある。犬なのに猫を好きになるなんておかしいと思い悩んだ犬が、ムーミンママと出会って解放されていく話だ。犬は当初、自分を恥じて頭から袋をかぶって暮らしていた。そんな犬が必死の思いでムーミンママに秘密を打ち明けると、ムーミンママは「犬でも猫でも好きって気持ちが大事なのに」と言い、犬を好きになってくれる猫を探す旅にでる。犬はもう袋をかぶることはなくなったし、ひとりぼっちでもなくなった。ムーミン谷では型にはめることよりも、ひとりぼっちの小さな生き物がいないことのほうが大切にされる。このエピソードは、今から50年以上前に描かれたものだが、いまだに色あせないように思われる。私たちは型にはめることをやめられない生き物なので、ムーミン谷の物語はいつでも新しいものに感じられる。

 LGBTというカテゴライズも、後述するようにある種の型である。実際には性のあり方は十人十色で一人ひとりちがう。LGBTと、そうではない人という区分にばかり目を向けると、マジョリティとされた人の中にもある多様性はみすごされてしまう。自分にとってのフツーが友達にとってのフツーではなかったり、周囲から期待される「らしさ」が自分にとっては苦痛であったり、という経験をだれもがしている。このような観点では、この社会を生きるすべての人が「多様な性の当事者」なのである。

「思春期になると異性を好きになる」という教科書

 LGBTについての社会的関心が高まるにつれ、学校で子どもたちに講演をしてほしいと頼まれる機会も近年増えてきた。

 ある中学校で、私たちが日常で使っている言葉について振り返るワークをやったときのこと。スライドに大写しで「先生そんなやから彼女できひんねん」という言葉を出してどう思うかと生徒に聞くと、みんな笑った。ある子は「傷つくから言っちゃダメ」といい、別の子は「いじられたい人もいるから、関係性によるのでは」という。

 次に「女子力高すぎ!」という言葉についてたずねてみた。「ほめているから良い」という意見も「女子力という言葉が決めつけられているみたいでいやだ」という意見も出てくる。「女子力って言葉はあるのに、どうして男子力って言葉はないのだろう」と話し合っている子たちもいる。どの意見が正解ということはないが、こうやってクラスの中にも様々な意見があることを実感することで、生徒たちは自分のフツーが友達のフツーではないことを知り、自分もまた多様性の一部なのだと実感していく。

 私が学校で授業を行うときに、いつも心がけているポイントは「どうやって自分ごとにしてもらうか」だ。「LGBTという少数派の人たちがいてね」という解説で終わっても、他人事で終わってしまう。だれが当事者なのかという「当事者さがし」になってしまうこともある。それよりは、一人ひとりがちがうことを自分ごととして考えさせる授業のほうがいい。そのほうがクラスにいるであろう「当事者かも」と悩んでいる子にとっても安全である。

 「女子力」について、悪気なく使っているからいいじゃんと思う人もいれば、それがいやだと感じる人もいる。「彼女がいないこと」を自虐ネタにしていじられるのが好きな人もいるし、「彼女がいないこと」に触れてほしくない人もいる。「彼女ができない先生」には、実は本当は彼氏がいて、そのことを言っていないのかもしれない。感じ方がみんなそれぞれちがうのは意外性があって面白いし、面倒くさいし、大変だ。こうやって日常生活にあるたくさんの性に関するコミュニケーションをふりかえることが、LGBTなどの性の多様性について考えることに繋がっていく。

 ワークの最後に「思春期になると異性を好きになる、と書かれている教科書」についてどう思うか尋ねた。事前に同性愛をカミングアウトする中学生の動画を見てもらった影響もあって、生徒たちは「それはおかしい」と口をそろえた。でも、実際にきみたちが使ってきた小・中学校の教科書にはそのように記述があったはずだよ、と私は話した。教科書を読んだとき、ほとんどの子は違和感なんてもたず、すんなりと受け入れたんじゃないだろうか。日本中の子どもが、今日もその教科書で勉強している。きみたちのように、性の多様性の授業を受ける子どもはまだまだ少ない。上の世代の人たち、たとえばお父さんやお母さんたちは学校で多様な性について、こうやって学ぶチャンスもない中で生きてきた。こういうことについて、みんなはどう思うだろうか、と投げかけてみた。

 差別や偏見が、良くないことぐらい子どもたちだって知っている。でも、私たちが暮らしている社会は、知らないうちに同性が好きな人や性別に違和感をもつ人を「いないこと」にして、見えなくさせてしまう仕組みを内包している。仕組みに疑問をもってはじめて、私たちは自分たちの社会を見直すことができる。もしみんなが教科書会社の人だったら、なんて書くのか聞いてみると、いろいろな意見が出た。「思春期になると人を好きになります」という子も、「本当にだれもが思春期に恋愛をするのだろうか」と考える子も、「好きになる相手や好きになるタイミングは人それぞれ」と書きたい子も、「みんな違ってみんな良いという名言を載せたい」子もいた。

性はグラデーション

 ここで性の多様性について、あらためて解説をしておこう。

 人間の性は、大きく分けて4つの要素の組み合わせからできている。「生物学的な性」はある人が生物学的にオスかメスかを表したもので、大きく二分される。「性自認(ジェンダー・アイデンティティ)」は、ある人が自分の性別をどう認識しているかという内的なことがらを表す。「性的指向」は、ある人がどの性別の相手に対して恋愛や性的関心をもつかを表す。「性表現」は、ある人の立ち振る舞い、仕草、服装、趣味などが性別規範に照らして男らしいとみなされるのか、女らしいとみなされるのかを表す。生物学的な性、性自認、性的指向、性表現の4要素が組み合わさって、私たち一人ひとりのオリジナルな性のあり方が形作られている。

 LGBTのうち、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルは性的指向におけるマイノリティを表した言葉だ。レズビアンは女性同性愛者、ゲイは男性同性愛者、バイセクシュアルは両性愛者を指す。さまざまな調査があるが人口の3〜5%ぐらい、つまりクラス にひとりぐらいは同性に惹かれるとされている。異性を好きになる人にもヘテロセクシュアル(異性愛者)という呼び方がある。恋愛感情や性的関心をもたないAセクシュアルの人もいる。

 トランスジェンダーは生物学的な性とは異なる性自認をもつ人のことをあらわす。トランスジェンダーの人口は、国連の資料では300人に1人という数字が採用されている。トランスジェンダーの中には、自分の性自認がはっきり男性、あるいははっきり女性で、生物学的な性とは真逆なのだというタイプもいれば、Xジェンダー(男女どちらでもない、あるいはどちらでもあるという性自認)の人もいる。「男子として扱われるのは間違っていると感じるが、かといって女子として通学したいのかはわからない」などのタイプもいることに留意したい。

 ただ、LGBTなどの言語によるカテゴライズにも限界がある。異性愛者を自認する人の中にも、同性にときめいた経験のある人は少なからずいるし、トランスジェンダーでなくても「男らしさ」「女らしさ」の押し付けに悩む人はいる。LGBTとそれ以外の人、という明確な境界線があるわけではなく、実際にはあいまいだったり、よくわからなかったり、という複雑な部分を多くの人がもっている。性はグラデーションでみんな少しずつちがうんだよ、ということを肯定していけば、みんなが今よりも楽に生きられる社会になる。恩恵を受けるのは「LGBTの人」だけではない。

多様性を可視化する仕組みを

 昨夏、江戸川区に住む高校生が、性別によらずにスラックスかスカートかを選べる「制服選択制」の導入を求めて区長に面会した。1万名の署名簿を渡して、彼は自分がいかに中学時代にスカート制服に苦しんだのか訴えた。性自認が男なのに毎日スカートをはかされる苦しみ。先生に話しても「ガマンしろ」しか言ってもらえず、大人になる前に死んでしまおうと考えていたこと。制服のせいで、こんな風に苦しむ子どもをもう増やしたくないこと。区長も真剣に受け止めたようで「制服が原因で死にたくなったり学校にいけなくなったりするなんてあってはいけない」と、すみやかに制服選択制の導入検討をはじめることを約束した。

 近年、スカートやスラックス、リボンやネクタイなどを生徒が自由に選べる「制服選択制」を導入する学校が増えている。自治体の号令で変わったところもあれば、生徒の提案で導入を決めたところもある。江戸川区の高校生を含め、私の関わっているユースの中には学校や地域で声をあげている子が何人かいる。

 制服選択制の始まった学校では、防寒や自転車通学のためなど様々な理由で女子生徒はスラックスを選んでいる。制服選択制はトランスジェンダーへの配慮として各地で導入が進んでいるが、実際にはトランスジェンダー以外の生徒からも評価されているところが興味深い。

 似たような話として、ある保育園での誕生日会の実践がある。それまで毎月開かれる誕生日会では、子どもたちは男の子は青、女の子はピンクのリボンのついたメダルを首からかけてもらい、お祝いされる習慣だった。それを、リボンの色をたくさん用意するように変えたのだという。子どもたちは自分の好きな色のリボンを選んで、誕生日を祝われるようになった。緑が好きな子も、金色がいい子もいる。自分で選べるほうが、みんなうれしい。

 私たちの社会はすでに「多様性を見えなくさせる」制度や仕組みで溢れている。生物学的な性にそって制服やリボンを割り振るのは、人それぞれに好みや事情があることを見えなくさせる。なぜ街を見渡して同性カップルの姿が見えないのか考えてみてほしい。教科書に書いてあるように「人は思春期になると異性に惹かれるから」ではない。日本の婚姻制度は異性愛しか認めず、それ以外の関係性は、法律上はないことになっているのでカウントされない。当事者は差別と偏見をおそれて沈黙する。このような仕組みによって、同性カップルの姿は消され続けてきたし、人々は「自分のまわりにいない」と誤解してしまう。

 昨今、自治体によっては同性カップルが登録できるパートナーシップ制度を導入するところがでてきた。2020年12月現在、全国で1300組を超える利用がある。私の住む横浜市では2019年12月に制度が始まり1年間で110組を超える利用があった。この数字は少なくない市民に驚きをもって受け止められる。自分たちの地元に同性カップルが確かに暮らしていることを実感させる数字だからだ。

 「多様性を見えなくさせる」仕組みもあれば、「多様性を見えるようにする」仕組みもある。パートナーシップ制度や、制服選択制、誕生日会のリボンの実践は後者のよい例だ。性別を問わずに選べるようにルールを変えられるものはないか。不要なのに設けられている性別欄がだれかに苦痛をもたらしていないか。異性愛ばかり前提としていないか。今求められているのは、私たちの日常をとりまく制度や仕組みを見直し、新しいルールを作っていく知恵である。

 江戸川区の高校生はルールに疑問をもって行動に起こした。日本の学校ではルールに従う勉強をするよう求められるが、ルールを疑ったり、新しくルールを作るための勉強はあまりやらない。私が運営している「にじーず」には、自分をLGBTや「そうかもしれない」と考える中高生がたくさん訪れるが、かれらにはルールは変えられるのだと伝えるようにしている。かれらは「困った子」なのではなく、既存の仕組みの不備を理解した賢い子どもたちである。新しいルールを作るための勉強を、子どもたちと一緒に取り組める大人が増えれば、学校はもっと多様な性に開かれた場所になるだろう。

 

Profile
えんどう・まめた 1987年埼玉県生まれ。トランスジェンダー当事者としての自らの体験をきっかけにLGBTの子ども・若者支援に関わる。LGBTユースのための居場所にじーず代表。著書に『先生と親のためのLGBTガイド〜もしあなたがカミングアウトされたなら』(合同出版)ほか。

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