自治体の防災マネジメント
自治体の防災マネジメント[72]わが畏友・佐藤健一さん
地方自治
2022.12.14
※写真はイメージであり、実際の土地とは関係ありません。
本記事は、月刊『ガバナンス』2022年3月号に掲載されたものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、現在の状況とは異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。
佐藤さんとの出会い
佐藤健一さんと初めてお会いしたのは、2011年7月だった。当時、宮城県気仙沼市危機管理課長として東日本大震災後の対応に当たられていて、震災後初めての休みを取られるという日に市役所に訪問してヒアリングをさせていただいた。仲間のボランティアの紹介で30分という約束だったが、気がつくと3時間が過ぎていた。
穏やかな顔で淡々と話されるが、災害前に取り組まれた膨大な仕事、想定をはるかに超えた津波、応急対応の何がどんなに大変だったか、復旧復興の課題と展望を的確に語られ、こんなにすごい自治体職員が世の中にいるんだと度肝を抜かされた。
その後、佐藤さんは定年前に市役所を辞めて民間会社に移られた。何度か佐藤さんを訪ねて気仙沼に行き、災害時の状況や復興状況を現地でご案内いただき、お話を聞かせていただいた。
この美しい景色は気仙沼湾だ。(写真)。佐藤さんは水産課にいたとき、魚市場の改修に併せて、屋上を津波避難ビルにしようと考えた。よそ(危機管理課)の仕事を真剣にやる人はなかなかいない。
多くの津波避難ビルは、単にコンクリートの屋上があるだけだ。そして、津波襲来時は徒歩避難を原則としているので駐車場もない。しかし、佐藤さんは建前で物事を考えない。人は津波が来れば、やはり車で避難するだろう。大勢の人が車で山側を目指せば渋滞が発生し、結果として津波に襲われる確率が高まる。そこで、海側の津波避難ビルに駐車場を設置して避難する車を分散させれば渋滞は少なくなるだろうと。
同時に、魚市場の屋上が津波避難ビルであることを市民に周知する必要がある。そこで、あずまやのある公園にして、日ごろから市民に来てもらい、津波避難ビルであることをわかってもらおうと考えた。しかし、公園化には多くの経費がかかる。佐藤さんは農水省の理解を得て、モデル事業として実現に漕ぎつけた。
3月11日、その屋上には約1000人が避難し全員が助かった。佐藤さんは、市内の高い建物を次々に津波避難ビルに指定し、約3000人の命を守った。
600回のワークショップ
佐藤さんがずっと念頭に置いていた地震は想定宮城県沖地震だった。2000年には20年以内に80%の発生確率と発表され、津波高は最大で7.6mになる。2003年5月には気仙沼沖を震源とするマグニチュード7.1、最大震度6弱の地震が発生した。ところが市民アンケートでは「津波を予想して避難した」という人はわずか1.7%だった。
佐藤さんは、市民の防災意識を高めるため、市内の全自治会でワークショップを開催し、市と共同で防災マップを作ることにした。しかし、参加者は時間に余裕のある高齢者に偏りがちで若い世代には届かなかった。
そこで狙いを定めたのは中学生だ。彼らを「防災戦士」と呼び、総合学習の時間を活用して避難訓練、避難所運営、物資運搬などの防災教育に取り組んだ。
佐藤さんと職員は、1年数か月かけて131の行政区を回り、休日を返上して約600回のワークショップを実施した。2005年4月に防災マップが完成し、全戸配布された。
津波防災対策の定量的評価
ある時、「事前の防災対策が災害後の復旧・復興費用を大幅に低減するはずだが、定量的な評価をした研究がない」と佐藤さんに話をした。すると佐藤さんは、すでに2005年5月に土木学会東北支部で「津波災害に対する防災対策の定量的評価に関する研究」を発表したというのである。驚いて顔を見た。立派な行政職員であるだけでなく、優れた研究者でもあったのだ。
想定津波に対して失われる資産がどの程度で、施設の水門高を変えた場合にどの程度損失が減少するかを考察した論文である。その結果、4mの水門高の施設を建設した場合に、費用便益費(B/C)は最大になり、宮城県沖地震で7.17にも上るという。論文提出時は、大きく注目されるかと思ったそうだが、実際には注目されなかったそうだ。遠くを見られる者はあまりにも少ない。
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
佐藤さんは2021年4月から気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館の館長に就任した。以前から何度も館長職を打診されていて、ついに断り切れずに承諾したという。
この遺構は気仙沼向洋高校の旧校舎で、津波で完全に破壊された校舎や折重なった車が当時のまま見られる。わかっていたつもりだが、やはり津波の破壊力に息を飲む。
伝承館には救助と行方不明者の捜索、避難所、応急仮設住宅の生活などが写真で展示されている。ここでは、大人だけでなく中高生も語り部をしていて、同世代の修学旅行に人気があるという。佐藤さんは、次のステップとして災害をもっと我が事として考えるプログラムが必要ではないかと話してくれた。
ここからは「杉の下の高台」がよく見える。住民と何度もワークショップを重ね、明治三陸津波でも浸水しなかった場所で、住民と合意の上で佐藤さんが市の避難場所に指定した。しかし、今回の大津波でそこに避難していた約60人が犠牲になった。佐藤さんは、最も辛いはずの「杉の下の高台」が見えるところで働いて、その教訓を伝え続けている。「海沿いにいて大地が揺れたら、少しでも高く、少しでも遠くへ逃げろ」と。
【参考資料】「悔恨 曷(いずくん)ぞ及ばん」朝日新聞宮城版、2021年9月11日~23日。
Profile
跡見学園女子大学教授
鍵屋 一(かぎや・はじめ)
1956年秋田県男鹿市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、東京・板橋区役所入区。法政大学大学院政治学専攻修士課程修了、京都大学博士(情報学)。防災課長、板橋福祉事務所長、福祉部長、危機管理担当部長、議会事務局長などを歴任し、2015年4月から現職。災害時要援護者の避難支援に関する検討会委員、(一社)福祉防災コミュニティ協会代表理事、(一社)防災教育普及協会理事なども務める。著書に『図解よくわかる自治体の地域防災・危機管理のしくみ』(学陽書房、19年6月改訂)など。