【新刊】地域を支える エッセンシャル・ワーク -保健所・病院・清掃・子育てなどの現場から-<特別寄稿 第2回>
ぎょうせいの本
2021.04.27
新刊紹介
(株)ぎょうせいはこのたび、『地域を支える エッセンシャル・ワーク -保健所・病院・清掃・子育てなどの現場から-』を発刊します。コロナ禍で注目を集めるエッセンシャル・ワークの現場が抱える課題とともに、課題解決のための方策を示した1冊です。社会にとって必要不可欠なサービス提供に従事するエッセンシャル・ワーカーが直面する状況を紹介するとともに、今後公共サービスをどのように維持していくべきかを現場からのメッセージとして自治体政策の観点から提言しています。
ここでは本書「第6章 保健所行革の勘違い」の執筆者である青森中央学院大学 経営法学部 講師 山谷清秀氏のぎょうせいオンライン特別寄稿をご紹介します。
(書籍の詳細はコチラ)
見えない専門性を知ろう
コロナ禍によってエッセンシャルワーカーが苦境に陥っていると皆が知ることになった。ただ、コロナ禍がそれを引き起こしたのではなく、それ以前からある「効率」という言葉が独り歩きした結果として、彼らの苦境を導いたのではないか。そしてコロナ禍で露呈したのではないか。本書では効率、専門性、エピソード、コミュニケーション、主権者の5つのキーワードから、エッセンシャルワーカーをとりまく問題の構造を考えてみたい。
1.「効率」を考えなおす
「効率」という言葉は、なんだか良さそうな意味をもっていそうだが、皆があちこちで使うからこそ、意味があいまいになる。「効率」は本来、「どれだけ目標値を達成できたか」とか「投入と算出の対比」というように解釈される(西尾, 1990)。これにしたがえば、同じコストのまま、より高いサービス水準を達成することも効率ということができる。しかし現実社会では、どちらかというと「いかに安く済ませるか」という「経済性(economy)」の意味により近づいているような気がする。
クリストファー・フッド(Hood, 1991)は、市民が行政に寄せる期待として、①効率性(efficiency)、②公正さ(fairness)、③頼もしさ(robustness)の3つがあるという。状況によって何を強く求めるかは変わってくる。コロナ禍はまさに③頼もしさが求められる時代だろう。これに対してコロナ以前は①効率性が求められた時代であった。2015年・2020年の大阪市や、2019年の浜松市における住民投票で問われた争点は典型例である。行政の組織を減らし、公務員数を減らそうと試みたのである。しかしそれは行政学における本来の「効率」概念というよりはむしろ、「削減したい!」という思いが強すぎたのではないか。
本書ではこうした「効率」の影で、行政がそれまで陰に陽に大事にしてきたいくつもの価値が失われてきたのではないか、と考える。それが次に続く、専門性、エピソード、コミュニケーションである。
2.専門性をどう考えるか
私たちの社会で、「専門性」はどうしてか軽視されてしまう。「誰でもできる仕事じゃないか」と思われがちな保育や介護はその典型例だ。いわゆる「理系」に比べて「文系」の専門性に疑いを持つ人が多い、というような調査結果もある(山本, 2019)。
では「専門性」をどうとらえるべきか。次のように考える。どのような仕事をしている人にも、その仕事を進めるなかで獲得し、その仕事に再利用できる経験的知識や技術(「慣れ」とか「手際」とか「ノウハウ」とか)がある。さらにその経験的知識や技術をどんどん使っていこうという「気概」や「熱意」だってある。これらすべてを専門性といえるのではないか。だから、市民の快適な暮らしのために+αを頑張ろうだとか、人員を不足しても質は落とさないようにしようという現場の心意気や工夫もまた、専門性といえる。
一見「誰でもできる仕事」だとしても、経験的知識や技術がある。社会は気概や熱意によって支えられている。その一方で、外から見えにくいために、存在に気づきにくく、失われたことに気づきにくく、軽視されてしまう。これが本書でいいたいことの1つである。
3.エピソード重視の再検討
では、「見えない」専門性をどのようにして見えるようにしたらいいのか。そこで、「エピソード」が重要になる。本書が複数のエッセンシャルワーカーの「エピソード」を中心に据えて執筆されたのも、この価値を執筆者間で共有しているためである。
世間では「エピソードよりもエビデンス」の潮流がある。テクノロジーの発達を活用しつつ、統計学を駆使し、よりマクロな視点で問題を解明しようとする手法はたしかに重要である。しかしながら、「現場で働く人びとは日々何を思いながら業務に携わっているのか」という個別具体的なエピソードもまた重要である。数字になったときに「見えない化」されている物事が、実は苦境を招いていたりする。これらを軽視してはならないという思いが本書の前提にある。
4.コミュニケーションの大切さ
現場で働く行政職員の「エピソード」は、市民に伝えられなければ意味がない。行政から市民への情報提供は大切である。行政と市民との間にある、圧倒的な知識量の差を埋めなければならないのだ。市民が何を知らないのか、行政は知らないかもしれない。それは単に「こう決まりました」という決定内容の通知だけでなく、「私たちの社会にはこういう課題があります」というところからはじめた方が良い。「なんでも行政に任せておけば解決してくれる」はよろしくない。
だから、サービス提供を支える人員体制についても、もっと積極的に情報提供すべきではないか。でなければ、市民は行政の職場環境について知らないままである。行政職員を減らせばどうなるのか、市民に知ってもらう必要がある。行政は行政で、まじめに「市民からの期待に応えて頑張ります」というかもしれない。組織の問題は行政内部の問題であり、市民が考える必要があると思っていないかもしれない。が、「実はこんなに困ってるんです」という側面も、市民に理解してもらわなければ、市民の認識も変わらないのではないか。サービスの質が落ちたのは、人員不足ではなく、単に「怠け者の公務員のせいだ!」と思うかもしれない。
松下圭一は、「公務員もまた市民である」といった(松下, 1991)。もはや「お上」ではない、権威主義を捨てよ、市民の目線に立てという話である。ただ、今同じ言葉を使えば、違った意味になるかもしれない。すなわち、公務員だって1人の人間であるのだから、無理をさせてはならない、と。
5.主権者としての責任
結局、行政職員の削減によって変化するサービスは、市民に返ってくる。たまたま自分が直接的な損害を受けなくとも、どこかで誰かが困った目にあっているかもしれないし、将来自分がその目にあうかもしれない。
市民はサービスの劣化を政治家や官僚のせいにするかもしれない。サービスの劣化と職員の削減とを結び付けられないかもしれない。ただ、忘れてはならないのは、政治家や官僚が勝手に職員の削減を進めているのではなく、その大元には市民の選択(=選挙)があるということだ。職員の削減は、本当に「無駄の削減」や「効率化」なのか、その副作用について、私たちは考えなければならないのである。この意味では、行政の問題だけではなく、市民の問題である。
最後に、本書で紹介されたエピソードはごく限られている。本書で取りあげた以上にもっと広く多様な職業がエッセンシャルワーカーには含まれるだろう。是非読者のみなさんには、その綻びの有無をご一考いただきたい。
参考文献
西尾勝(1990)『行政学の基礎概念』東京大学出版会。
山本耕平(2019)「疑似科学への態度の規定要因に関する諸仮説の検証」『年報 科学・技術・社会』第28巻、25-46ページ。
松下圭一(1991)『政策型思考と政治』東京大学出版会。
Hood, C. (1991) “Public Management for All Seasons?” in Public Administration, vol. 6, spring, 3-19.