徴収の智慧
徴収の智慧 第54話 教科書を信じるな
地方税・財政
2020.01.09
徴収の智慧
第54話 教科書を信じるな
元横浜市財政局主税部債権回収担当部長
鷲巣研二
「教科書を信じるな」の意味
表題の「教科書を信じるな」とは、ご存知の方も多いと思うが、今年のノーベル医学生理学賞を受賞することが決まった本庶 佑(ほんじょ たすく)京都大学高等研究院特別教授の言葉である。本庶先生については、以前、本稿でも紹介したところであるが、かねてよりノーベル賞の受賞が本命視されていただけに、誰しもが納得の受賞だったのではないかと思う。その先生がおっしゃる「教科書を信じるな」とは、いったいどういう意味なのだろうか。勿論、その言葉を額面通りに捉えて「教科書に書いてあることは信用できないから信じてはだめだ」ということではないだろう。おそらく教科書に書いてあることは、現在の学問が到達した一定の水準・内容で、広く世の中に受け入れられて一般化ないしは普遍化したものであって、言ってみれば、ほとんど疑問の余地のないものとされているのだが、真理を探求する研究者たるものの姿勢としては、そうしたいわば既成概念的なものを何の疑問も抱かずにただ単に受容するようではだめで、そうした評価が確立しているようなものについてさえ常に疑問を持ち、「本当にこれでいいのだろうか」と自問し、自分の目で確認し、そして納得できるまで考えに考え抜くという探求心が大切なのだというところにあるのではないだろうか。
既存の事務処理の見直し
それでは滞納整理ではどうか。勿論、徴税吏員が日々行政実務として行っている滞納整理は、学問ではないから、本庶先生がおっしゃるような厳密な意味における探求心は求められていないのかもしれないが、先輩職員から受け継いできた既存の事務処理方法が「本当にそれでいいのだろうか」という視点で見直してみる必要がありはしないか。例えば、地方税の滞納整理でしばしば見受けられることに「滞納者の生活の実情を十分伺った上で適切に対処する」というのがある。かく言う筆者もかつて初任者の頃先輩職員からそのように言われたものである。しかし、よく考えてみてほしい。なぜ徴税吏員には「調査権」と「処分権」という自力執行権が与えられているのか。それは、租税に関する事務には大量反復性という特徴があって、その賦課徴収の要件については、法律で厳格に規定されている(租税法律主義)から、実務ではいちいち個々の納税義務者の了解や同意を要することなく進めて差し支えないものである旨、国権の最高機関である国会において決定されているからにほかならないのである。即ち、既に法律として国会で承認を得ているのであるから、その運用段階である徴収手続の場面において、納税義務者について法律が定めている一定の要件に合致する事実が認められるときは、個々の納税義務者から重ねて了解や同意を得ることを要しないという意味なのである。租税は国ないしは地方団体が一方的に課し、そして一方的に徴収するものであるからこそ、とりわけ公平さと公正さが要求されているがゆえに、国民の代表たる議員によって国会で制定した法律で、微に入り細を穿つかのように厳格な要件と手続が定められているものである。
言葉ではなく事実に基づいて判断する
その法律によれば、納税義務者は一定の期日(納期限)までに租税債務を履行しなければならない法的責務を負っていると同時に、仮にその義務が納期限までに果たせないというのであれば、その理由について債権者たる課税庁(徴税吏員)に対して合理的な弁明をなすべき責務をも併せて負っているのである。なぜなら、そうした個別の事情については、徴税吏員は知る由もないのであるから、納税義務者の側に自発的に弁明をなすべき責任があるのは、もとより自明なことだからである。しかし、滞納者が語ることが全て事実であるとは限らない。それなのに、「滞納者の生活の実情を十分伺った上で適切に対処する」などと、検証もせずに滞納者が述べたことを「鵜呑み」にして、それを判断の拠りどころとして処理の方向性を決めているのだとしたら、実体のない虚構に基づいて処理をしていることにもなりかねない。これなどは一つの例に過ぎないが、他にも確たる根拠のない事務や、合理的な理由のない事務を無意識のうちに繰り返していやしないか、いま一度総点検してみる必要があるだろう。