徴収の智慧
徴収の智慧 第2話 守株待兎(しゅしゅたいと)
地方税・財政
2019.06.20
徴収の智慧
第2話 守株待兎(しゅしゅたいと)
古人の智慧
古人(いにしえびと)には格別教養があり、そして、現代人にはそれがないというわけではあるまいが、故事成語や格言といったものには含蓄があり、思わず「なるほど!」と唸らされてしまうことが多いのは不思議なことである。恐らく長い年月の経過という悠久の歴史を経る中で厳しく吟味されるうちに、それらのうちの多くのものが淘汰されて、消滅してしまったものも多いのではないか。歴史の厳しい吟味に耐えて残ったごく一部のものが伝承され、そして現代にその命脈を保っているのであろう。つまり、それだけ歴史の試練に晒されながらも、なお現代社会においてさえ、その言葉の持つ意味が決して古臭さを感じさせないということは、それが人間社会に共通する普遍的な価値観や、ものの見方の正鵠を射ているからではないだろうか。 表題の「守株待兎」とは、「宋の国の農夫が、畑を耕していると、ものすごい勢いで兎が走り出してきて、畑の中の切り株にぶつかり、首の骨を折って死んでしまった。農夫は、これ幸いと、そうして死んでしまった兎を家に持ち帰って、その晩は兎料理を堪能することができた。それ以来、農夫は鋤を投げ出して畑を耕さずに、再び兎が切り株にぶつかって、楽をして兎を得られるのではないかと待ち続けたが、二度とそのようなことはなく、農夫は、国中の笑いものになった」という逸話から、思いがけない幸運を得ることの喩えとされている。転じて、自分では努力しないで、うまい収穫にありつこうとすることとか、古い習慣に囚われて時勢に応じた対処ができないことなどとする解釈が一般的なようだ。
普遍的価値
時代は遷り21世紀の現代にあっても、旧慣(又はかつての栄華)にこだわるあまり、時代の変化についていけない人はいくらでもいるし、そうした企業だっていくらでもある(かつての住専や、今のわが国の家電業界などを想起してほしい)。このように、時代を超えて妥当する価値観や、ものの見方には、国境をも越えた普遍性があるように思う。 ところで、租税制度は、人間が集団で暮らすようになり、社会というものを形作り始めた頃から存在していて、その意味では、ほとんど人類社会の歴史とともに発生し、発展してきたと言えるだろう。時代を遡り、まだ貨幣が流通する以前には、税(に相当するもの)は、物納として農作物や狩猟によって得た獲物を上納するような形で納められていたものと思われるが、それが租税の原型となるものであったと考えられる(かつてのわが国にあった「年貢」などもそうであろう)。こうした遥か昔から人類とともにあった租税(その原型も含む)を徴収するというのは、その時々の権力機構(現代では国や自治体)の大きな役割であり、大切な仕事であった。つまり、昔も今も租税は、社会を形作る基礎であり、不可欠な仕組みなのである。
法律に基づいた滞納整理
そして、いつの時代でも税を徴収する側には、「効率的・効果的に徴収する」という課題がついて回っていたのではないかと思う。私は、徴税機関が、この「効率的・効果的に税を徴収する」という、いわば普遍的な課題に取り組む際には、表題の「守株待兎」の喩えを反面教師とすべきではないかと思っている。つまり、仮に徴収の職場に「古い習慣に囚われて時勢に応じた対処ができない」徴収職員がいるとすれば、滞納整理の効率は上がらないだろうし、職場のモチベーションもおそらく低空飛行状態に違いないと思うのである。 徴収の職場における「古い習慣」とは、例えば、「まだ早すぎる」として現年度分の差押えに消極的な態度で整理に臨むことなどがその典型であろう。さらには、「粘り強く説得する」として、時間にお構いなくいつまでもだらだらと、滞納者の「想い」や「心情」のような、滞納整理には何の役にも立たない主観的な話をひたすら聞き続けるのみで、法律に基づいた滞納整理(財産調査・納税緩和措置・滞納処分)に着手しないばかりか、滞納者に言われるがままに、分納の山を築くことなどもまたしかりである。徴収職員は、「守株待兎」の話に出てくる農夫であってはならない。法律に基づいた滞納整理に徹するべきである。