
新・地方自治のミライ
支払ミスのミライ|新・地方自治のミライ 第111回
NEW地方自治
2026.05.12
出典書籍:『月刊ガバナンス』2022年6月号
「新・地方自治のミライ」は「月刊 ガバナンス」で過去に掲載された連載です。
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本記事は、月刊『ガバナンス』2022年6月号に掲載されたものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、現在の状況とは異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。
はじめに
山口県阿武町は、新型コロナウイルス対策関連給付金4630万円を誤って1世帯住民に振り込んだ。町職員1人が町の口座のある銀行に対し、別の銀行の当該住民の口座へ、全体463世帯分の全額振込を依頼した。依頼書はチェックを経ないまま、別の町職員が銀行へ提出し2022年4月8日に送金された。
同日、町の口座がある銀行の指摘でミスに気づき、当該住民に返還を求めた。同人はいったんは同意し、町職員と一緒に、同人が口座を持つ銀行を訪れたが、翻意して返還を拒否した。町側は、この銀行に口座の開示を求めたが、預金者保護を理由に拒否された。同人は4月15日には「近日中に返金手続きを行う」と町に伝えてきたが、返金はなかった。21日に自宅を訪れた町職員に同人は「金はすでに動かした。もう戻せない。犯罪になることは分かっている。罪は償う」と話した。その後は町と連絡が取れないという。
町調査によれば、誤入金当日から約2週間かけて銀行口座からほぼ全額を引き出された。当該住民は勤務先も退職し、所在も不明となった。5月12日、当該住民を相手取り、返還を求めて山口地裁萩支部に提訴した。並行して刑事告訴を視野に、町は県警にも相談している(注1)。今回はこの問題を考えてみよう。
注1 読売新聞オンライン2022年5月13日5時00分配信。阿武町役場ホームページ。なお、5月18日に電子計算機使用詐欺で逮捕された。当該住民側弁護士は口座からの出金状況を開示した。NHK NEWS WEB2022年5月19日5月31分配信。第1審山口地裁で懲役3年執行猶予5年の有罪判決となり、控訴審広島高裁でもそれが支持された。tys(テレビ山口)オンライン2024年6月11日15時04分配信。

事後的是正の手続費用
住民や事業者に対して、①多く支払い過ぎたり、②多く取り過ぎたり、③少なく支払った、④少なくとった、というミスでは、行政と相手側とのやりとりにおいては、いずれも難しい問題が発生する。
第1に、行政側が自らのミスを是正する費用を掛けるのは当然であるが、相手側が是正のために費用を掛けさせられるのは、不利益が発生することが多いからである。
例えば、②③のときには、受取過剰分の返金や、支払不足分の送金は、行政側の費用だけのように見える。それでも、相手側からすれば、現金不足などにより余計な手間・費用が掛かったかもしれない。
より深刻なのは①④の場合である。④では、追加で再度の納付手続を求めることになり、相手側は二度手間である。後から、何回でも追加請求されるという疑念も持たれる。それでも④は、相手側は分割払いにすぎないともいえる。
ところが、①では、相手側は何の手続も必要なかったにもかかわらず、行政のミスの所為で新たな手続費用を掛けさせた上に、その手続をしても相手側には利得がない。今回の事件はまさに①である。
いろいろな既得権と「新しい現状」
第2に、行政のミスに関わる何らかの既得権が形成されることである。人間行動では、現状から得をする喜びよりも、現状から損をする苦痛の方が、大きい(注2)。①は、現状が❶何もない状態であるときに、❷行政のミスで現金を受け取り、❸事後的に是正されて、元の❹何もない状態に戻るものである。❶=❹だから、第1で述べた手続費用を除けば、特段の損得はないはずである。しかし、「ぬか喜び」の❷の嬉しさよりも、❸の喪失感・不快感の方が大きい。なぜならば、❷の状態が一種の「新しい現状=既得権」になれば、❶=❹ではなく、❷>❹という損害イメージになるからである。
注2 リチャード・セイラー(遠藤真美訳)『行動経済学の逆襲(上)』ハヤカワ文庫、2019年、69頁。
「新しい現状」が既得権となるかどうかは、最初の状態との関係によりけりである。①では、過誤支払を受け取った状態❷が「新しい現状」になるから、そこからの事後的是正は極めて困難になる。②は、多く取り過ぎた状態が「新しい現状」になれば、事後的是正は歓迎してもらえるかもしれない。しかし、全く何もとられていない「最初の状態」が既得権である。それと比べれば、損失には変わりがない。つまり、「とられた」苦痛を2回も味わう。
③では、「最初の状態」にせよ、過少支払の「新しい状態」にせよ、どちらから見ても追加入金であって、歓迎してもらえそうである。しかし、妥当な入金を受け取る状態こそ、最初の段階で行政が決定すべき「あるべき現状」=既得権であるとすれば、既得権の侵害である。
④では、過少納付なので、正しい納付をする状態が「あるべき現状」ならば、特段の損失はないように見える。しかし、そうではない。納付を終えたはずの状態が「新しい現状」=既得権である。「最初の状態」は、一定の納付を求められる状態なので、既得権ではない。納付完了=既得権から、再納付を求められるのは、不利益変更である。

再発防止と予防
事後的是正が難しいならば、ミスを予防するしかない。また、事後的是正と併せて、再発防止策が求められるのも、普通である。実際、多くの自治体の大概の処理事案においてミスが起きていない。今回のような事件は、「有り得ないこと」だという見解もある。実際、出納会計事務に携わる職員からすれば、二重三重チェックをしている、ミスをしても金融機関がもっと早くに気付く、早期に真摯に幹部が謝罪すれば通常は返金される、などである。
大量案件を処理すれば、一定の確率でミスは生じるので、大数的に見れば個々の処理ミスに囚われるべきではないかもしれない。むしろ、どこにでも起こりうる事態であるが、その発生確率が許容できないほど高いかどうかが、問題である。今回の事件は「氷山の一角」で、表沙汰にならない大量のミス事件が存在しているのかもしれない。たまたま、多額ゆえに事件化したのかもしれない。少額であれば、相手側からの返金も容易だったかもしれない。あるいは、少額であれば、行政側が放置しやすいかもしれない。
ともあれ、予防対策は可能である。しかし、ミスの確率を下げようとすれば、行政事務は煩瑣になり、「非効率」に見える。また、面倒な作業手続を導入すれば、実務の遂行のなかで、現場で勝手に手続を省略するという「効率化」への誘因も働く。
実際、かつて、出納長・収入役という特別職(三役)を置いていたのは、会計事務は様々なミスや不正・腐敗を伴いやすいから、重要であるという制度シンボルである(注3)。しかし、指定金融機関や財務情報処理システムの導入などにより、事務処理の単純ミスは減ってきた。それゆえに、出納長・収入役は廃止され、一般職(会計管理者)に人事的に「格下げ」してきた。これは会計事務の格下げでもあった。会計事務を軽視するシグナルである。
注3 高齢幹部が就くことが多い特別職の出納長・収入役が、一般職員に任せきらず、自ら再チェックなどの事務処理をしたからといって、ミスが減るとは考えられない。
おわりに
今回の事件では、民事法的な資金回収が目指されている。今回の事件はともかくとして、一般論としては、相手側の所在が明確で、一定の資金・財産を有していれば、回収は可能である。例えば、一定の土地家屋・預金などの資産を有していたり、正規職として給料が安定的に見込まれれば、返金には応じざるを得ない。親族や地域の人間関係が濃密であれば、イエ・ムラ社会的圧力も作用する。一時の大金を抱えて社会的に逃亡することと、普通に暮らして得られる将来の収入総額や社会生活関係を天秤に掛ければ、後者の方が有利なことも多い。
資金回収が難しいのは、将来の生活の見込みが立ちにくい格差社会構造と、組織的紐帯の弱体化した無縁社会構造それ自体に起因していよう。例えば、不安定・低収入で親族や地元や勤務先に長期関係が成立しない非正規・ギグワーカーならば、大した生涯所得も見込めず柵も少ない。ならば、逃亡したほうが合利的に感じられる。事務ミスを起こした自治体・行政職員も、起こされた相手側個人も、こうした社会構造の犠牲者なのかもしれない。
「もらい得」を避けるには、「もらい得」が長期的には損になる社会が必要である。しかし、日本人はこうした社会を「ぶっ壊し」てきた。自己責任社会ならば、「もらい得」を目指す。それゆえ、債権回収を強化する北風作戦が賞賛される。自治体は実に淋しい社会構造のなかで仕事をしている(注4)。
注4 格差社会構造は、格差是正に向かうのではなく、悲惨な状態にある個人を、自己責任論で非難追及する「世論」によって再生産する。第1に返金に応じない当該個人に対する非難であり、町による提訴は「世論」に合致する。しかし、第2に、当該個人から資金回収が出来なければ、町に被害を与えた職員個人や幹部職員への追及に繋がる。町に損害を与えた職員個人や関係上司・幹部が、個人的に町財政(および一般町民)に損害を補填することを求める。住民訴訟4号請求の論理である。ただし、町がムラ社会の連帯責任であれば、あるいは、町役場が圧倒的権力者であれば、第2の個人責任追及は生じないかもしれない。
※執筆:2022年5月19日。5月24日に約4300万円を町が法的に確保したとの速報に接した。
著者プロフィール
東京大学大学院法学政治学研究科/法学部・公共政策大学院教授
金井 利之 かない・としゆき
1967年群馬県生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学助教授、東京大学助教授などを経て、2006年から同教授。94年から2年間オランダ国立ライデン大学社会科学部客員研究員。
主な著書に『自治制度』(東京大学出版会、07年)、『分権改革の動態』(東京大学出版会、08年、共編著)、『実践自治体行政学』(第一法規、10年)、『原発と自治体』(岩波書店、12年)、『政策変容と制度設計』(ミネルヴァ、12年、共編著)、『地方創生の正体──なぜ地域政策は失敗するのか』(ちくま新書、15年、共著)、『原発被災地の復興シナリオ・プランニング』(公人の友社、16年、編著)、『行政学講義』(ちくま新書、18年)、『縮減社会の合意形成』(第一法規、18年、編著)、『自治体議会の取扱説明書』(第一法規、19年)、『行政学概説』(放送大学教育振興会、20年)、『ホーンブック地方自治〔新版〕』(北樹出版、20年、共著)、『コロナ対策禍の国と自治体』(ちくま新書、21年)、『原発事故被災自治体の再生と苦悩』(第一法規、21年、共編著)、『行政学講説』(放送大学教育振興会、24年)、『自治体と総合性』(公人の友社、24年、編著)。
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