「新・地方自治のミライ」 第22回 選択と集中のミライ
時事ニュース
2023.04.25
本記事は、月刊『ガバナンス』2015年1月号に掲載されたものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、現在の状況とは異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。
「選択と集中」の論理
「選択と集中」とは、「不人情」の誹りを受けるかもしれないが、それゆえに、敢えて非難を覚悟で提唱するという意味で、公益のために決断を引き受ける、冷静さと良識と理念を備えているかに見える態度として、一定範囲の為政者・専門家・報道人などが用いる標語である。
例えば、行政改革や総合計画の策定の際には、しばしば、「選択と集中」ということがある。自治体の財源が限られている以上、行政改革や計画規模の圧縮は不可避である。そのなかで、今までのような「あれもこれも」から「あれかこれか」という、「負担の配分」への決定が必要だという発想に至る。
第1に、必要性・緊急性の高い事業に「選択と集中」する。必要な事業に行政資源を付け、不必要なものに資源を付けないことは、極めて合理的である。いわば、合理性に向けた標語である。
第2に、こうした「選択と集中」は、施策に「メリハリ」を付ける。「総花的」な自治体は何でも行うから、結果的には画一的になる。しかし、「選択と集中」をしていけば、個別自治体の優先順位は個性的であろうから、結果的には地域に応じて多様になる。いわば、多様性・個性に向けた標語である。このように、一見よさそうな「選択と集中」のミライについて、今回は検討してみたい(注1)。
注1 山下祐介『地方消滅の罠』(ちくま新書、14年)15頁。
トリアージ
似たような感覚で、救急・災害医療の現場では、「トリアージ(triage、識別救急)」という用語も広まってきた。専門家ではない筆者としては非常に曖昧な理解ではあるが、大規模災害・事故などで、負傷者等が同時に大量発生したときに、限りある医療体制・人員・設備などを考慮して、負傷者・被災者等を重症度・緊急度などで識別し、対処の優先順位を決定することである。簡単に言えば、すでに死んだ者や助かる見込みのない者は断念し(「黒」「非処置群・死亡群」)、対処さえ施せば助かる見込みがあるが極めて負傷・被災の状態が深刻な者を優先して処置する(「赤」「最優先治療群」)(注2)。
注2 例えば、東京都福祉保健局ホームページ参照。
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/iryo/kyuukyuu/saigai/triage.html。
しかし、「赤」であるべき人が、「黒」と誤識別されたらどうなるのか。トリアージは、非常時に取られるということは、識別自体が正確にできないことが前提である。結局、慎重に進めても過誤は不可避である。そして、誤識別には、責任を負いきれない。トリアージとは、過誤を織り込んで、治療者の負傷者・被災者側に対する経験を踏まえた専門的視点からの選別的決断と、それを緊急の非常時ゆえに、やむを得ないと正当化する論理である。
救急と慢性の誤認
自治体為政者は、資源を「集中」すべき対象を「選択」し、「選択」された対象に「集中」する。そうしなければ、自治体全体の観点から望ましくない、と正当化する。
しかし、人口減少や経済右肩下がりは、救急の短期現象ではなく、今後とも長期に見込まれる慢性症状であり、トリアージするような事態ではそもそもない。しかも、判断が間違っていても責任を取れない。結果的には、助かるべき「赤」を、間違って「黒」にしてしまう。素人為政者が慢性事態に際して、緊急事態と誤認して行う自治体における「選択と集中」(トリアージ)とは、取り敢えず、生を取り合い、責任は取らず、拙速な決定をすることである。
選択する側から選択される側への転落と恐慌
「選択と集中」は諸刃の剣である。自治体為政者の依って立つ自治体自体も、「選択/非選択」される側に立つ。そのときに、今まで他人に対して、あたかも冷静で合理的な人間として君臨していた為政者は、突然に心理的恐慌を来す。
選択する主体は、誰でもよい。
第1に、グローバル市場経済原理や、それに従って空間移動する企業もある。観光客や住民も移動するから同様である。そうすると、「都市間/地域間競争」で「選ばれたい」と焦ることになる。「選ばれる自治体」という発想である。
第2に、地震・津波・豪雨・噴火などの自然災害も公害・事故などの人災も、自治体を選択して襲う。もちろん、自治体としては「選ばれたい」とは思わない。不幸にして「選ばれた」場合、茫然自失である。
第3に、国による政策決定も自治体間を選択する。国が自治体を識別し、「黒」への支援措置を止め、「赤」に支援措置を集中するとき、自治体為政者は恐慌を起こす。2000年代前半には、いわゆる西尾私案や、地方交付税及び段階補正削減を中心とする「地財ショック」により、多くの小規模町村の為政者の士気が殺がれ、多くの小規模町村の死期を早め、平成の大合併に至った。その後も、定住自立圏にせよ、地方中枢拠点都市にせよ、連携協約にせよ、周辺の「残存」の「未合併」(みがって)町村の士気を挫くのに余念がない。さらに、日本創成会議の「地方消滅」「消滅自治体」への鑑別は、さらなる恐慌を引き起こしつつある。
「個性・包摂・多様」と「広薄細長」
自ら「選択と集中」を団体・住民に求めてきた自治体為政者は、反転して「非選択と非集中=放置」される。そして、「選択と集中」の土俵に乗る限り、「選択」してもらうしかないから、選択する者に対して、「自主」的「自立」的「自発」的に媚びる(おもてなし)しかない。「賎託と醜忠」の心情で満載である。
もちろん、地域や自治体に対して「選択と集中」を迫る国の為政者も、自らが誰かに(グローバル資本主義か「宗主国」アメリカか日本国民の特に若い女性か(注3)はともかく)「非選択と非集中=放置」されると、恐慌を来す。というか、すでに恐慌を来している。グローバル資本主義のなかで企業やマネーに「選択」してもらいたい、という。
注3 この国は、若い世代の女性に、子どもを産み育てるに値しない国であると、「選択」されている「負け組(国)」である。第2次世界大戦の敗戦国はいずれも少子化している。当然、少子化・人口減少は、この国の為政者に静かな恐慌を引き起こしている。
「選択と集中」の論理は、無限連鎖である。この土俵に乗る限り「選択」してもらうしかないが、選択された者同士が残った場合、さらに「選択/非選択」が続く。資源に限りがあるのは未来永劫、変わらない。「選択と集中」のミライにあるのは、「選択されないかもしれない」と恐怖する選別の無間地獄である。
ところが、現実には、市場経済原理のもとでの「選択」でさえ、独占・寡占(「過度経済力集中」)に至ることは例外的で、普通はどこかで「シェア」が生じる。それは「市場占有率」(シェア)であり、「分け合い」(シェア)であり、「株式」(シェア)である。市場経済でさえ「選択と集中」の一点張りではない。
自治体(為政者)にとって、恐慌を起こさないために必要なのは、「選択と集中」を受け流す心構えである。「選択」は「非選択」と表裏一体であるから、「選択」の反対は「非選択」ではない。「選択」の反対は「個性」と「包摂」である。
「選択/非選択」の論理は、選択者の好みでの選別を齎(もたら)すので、実は自治体の「個性」は否定される。選択の結果は選択者の好みに合う「画一」である。これに対して選択不能なものが「個性」である。
そして、優先順位が付けられないから、全てを「包摂」するしかない。すべてが包摂されるから、結果的には「多様」になる。
「集中」の反対は、通常の用語では「分散」であるが、資源が有限である以上、「広薄細長」である。広く、薄く、細く、長く、ばら撒く、ということである。
もちろん、「広薄細長」で共倒れするのは、皆望まない。重要なのは、「選択(賎託)と集中(醜忠)」で、誰かを犠牲にして誰かに媚びて自分だけ生き残る醜悪な競争をすることではなく、資源が有限ならば均しく減らして、生きる道を探すことである。そのような道が見つからなければ、生き残る道はなかったということだけである。
大量の奴隷を使う王として「選択」されて栄華を極め、労力や財源を「集中」してミイラにしてもらっても、数千年後に干からびた死体を晒すだけである。「包摂と広薄」があるべきミライである。
Profile
東京大学大学院法学政治学研究科/法学部・公共政策大学院教授
金井 利之 かない・としゆき
1967年群馬県生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学助教授、東京大学助教授などを経て、2006年から同教授。94年から2年間オランダ国立ライデン大学社会科学部客員研究員。主な著書に『自治制度』(東京大学出版会、07年)、『分権改革の動態』(東京大学出版会、08年、共編著)、『実践自治体行政学』(第一法規、10年)、『原発と自治体』(岩波書店、12年)、『政策変容と制度設計』(ミネルヴァ、12年、共編著)、『地方創生の正体──なぜ地域政策は失敗するのか』(ちくま新書、15年、共著)、『原発被災地の復興シナリオ・プランニング』(公人の友社、16年、編著)、『行政学講義』(ちくま新書、18年)、『縮減社会の合意形成』(第一法規、18年、編著)、『自治体議会の取扱説明書』(第一法規、19年)、『行政学概説』(放送大学教育振興会、20年)、『ホーンブック地方自治〔新版〕』(北樹出版、20年、共著)、『コロナ対策禍の国と自治体』(ちくま新書、21年)、『原発事故被災自治体の再生と苦悩』(第一法規、21年、共編著)など。