自治体の防災マネジメント

鍵屋 一

自治体の防災マネジメント[97]東日本大震災発生13年~気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館、杉ノ下慰霊碑~

NEW地方自治

2024.12.11

※写真はイメージであり、実際の土地とは関係ありません。
本記事は、月刊『ガバナンス』2024年4月号に掲載されたものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、現在の状況とは異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

自治体の防災職員

 東日本大震災の発生から13年の3月11日、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(旧気仙沼向洋高校)(宮城県)を仲間と一緒に訪ねた。当時、気仙沼市の危機管理課長として陣頭指揮を取られた佐藤健一さんが我々を出迎え、伝承館を案内してくださった。

 佐藤さんについては、本誌2022年3月号で詳しく紹介させていただいた。市役所で防災関係の仕事を30年間務めたという。自治体防災職員は、10年やってひと通りできるようになり、冗談で15年経過すると"変態化"する(誉め言葉です)と言われる。30年務めると、佐藤さんのようにスーパーマンになるのだと実感した。

 大災害は低頻度だが甚大な被害をもたらす。経験の浅い自治体職員が、マニュアルを見ながら対応できるような仕事ではない。災害救助法をはじめとする法知識、住民との信頼関係、災害現場での具体的な対応事例、国・他自治体・防災関係機関職員とのネットワークなど、多くの引き出しが必要になる。防災や危機管理については、ローテーション勤務ではなく、適性があり意欲ある職員が長期的に務め、災害現場を多く踏み、ネットワークを広げることが望ましい。専門性を磨きながら365日、24時間対応準備をしている"変態職員"を私は心からリスペクトしている。

東日本大震災遺構・伝承館

 2011年3月11日、気仙沼向洋高校には多くの生徒と教職員がいた。地震発生後、生徒と引率教員は安全な避難場所を目指して避難したが、校長をはじめとする教職員及び校舎の拡張工事に従事していた作業員が残った。理由は、ハザードマップで高校の上階は安全な場所だったことと、入学試験の採点前の答案用紙を保管していたためだったという。大津波が襲った時、想定をはるかに超えたため、屋上でも危ないと感じ、さらに脚立と机を使って塔屋に上ったという。


旧気仙沼向洋高校屋上の塔屋(筆者撮影)

 翌日、高校周辺はまだ浸水していたが、先生らは流れ着いたボートで高台へ避難したという。さすがは、海の高校の先生たちだ。

 高校の1階では耐震ブレースがあった部屋となかった部屋が一緒に見える。


旧気仙沼向洋高校1階。耐震ブレースがあった部屋(左)となかった部屋(右)(筆者撮影)

 ブレースのあった左の部屋では天井の釣り鉄骨が残り、多くのモノが残っているが、なかった右の部屋では天井がむき出しになるなど、モノがなくなっている。ブレースにより、津波の威力が大きく減殺されたことがわかる。

 佐藤さんによると、黒い津波が押し寄せたが、海底のヘドロなどを含んでいて通常の海水より1.1倍から1.2倍の重さがあったそうだ。その分、破壊力が大きかったという。何十年防災をやってても、本番ではわからないことが出てくると話されていた。

杉ノ下慰霊碑

 佐藤さんは震災前にハザードマップをもとに、住民とワークショップを行いながら97か所の津波避難場所を指定したという。そのうち96か所は津波を免れ、その役割を果たした。しかし、1か所だけ津波にのまれたのが杉ノ下地区の避難場所であった。今回、ここで14時46分を迎え、黙祷をさせていただいた。

 ここは、波路上杉ノ下(はじかみすぎのした)地区といい、地名から津波に関係することがわかる。明治三陸津波では村の7割の方が犠牲になったそうだ。気仙沼市で最も早く津波が到達する場所でもある。

 大震災前には、津波避難にとても熱心な地区であり、何度もワークショップを重ねた。ハザードマップでは約7mの津波想定だったために、明治三陸津波でも無事であった標高約13mのこの高台を、住民との話し合いを踏まえ、佐藤さんは避難場所に指定したという。

 しかし、大震災時に18mもの津波が襲い、杉ノ下地区全体では、住民312人の約3割に当たる93人が犠牲になってしまった。

 佐藤さんは津波が来ないはずの高台の市役所まで津波が押し寄せたのを見た時、真っ先に杉ノ下が無事であってくれと願ったという。他の避難場所は十分に高さを確保していたが、杉ノ下だけは気がかりだったという。「ハザードマップはあくまで想定であり、決して安全を保障するものではないと、ぜひ多くの人に伝えていただきたい」と佐藤さんは話された。


新たな津波避難施設から杉ノ下慰霊碑を望む。海が近く、新しい防潮堤が築かれている(筆者撮影)。

津波防災とは

 もう一度、伝承館に戻り、佐藤さんから話を伺った。「津波防災は、防潮堤のようなハード、避難訓練などのソフト、そしてまちづくりの三位一体で進めなければならないのではないか。ハードとソフトは大震災前にある程度整備していたが、安全なまちづくりまではできていなかった」という。たしかに、まちづくりには大きな予算と長い時間が必要だ。だから、防災まちづくりは「いつか来るかもしれない」と考えるだけでは進まない。そこで「10年後に大地震が来る」と想定して、その時までに住民の命と尊厳を守るという目標を定めることがまず重要だと考える。10年の間にやるべきことをリストアップして、毎年、着実に前進させる。いわばバックキャスティング思考で進めるべきものだと考えている。

 復興に際しては、「住民と時間をかけて議論し、土地のかさ上げによる住宅用地の確保、復興住宅の建設などを進めたが、若い人を中心に人が流出してしまったことが反省点だ」と述べられた。南海トラフ地震が想定される地域では、ぜひ事前復興計画を作って、災害後のビジョンを早期に示すことが大切だと話された。

 最後に、防災教育の重要性を述べられ、階上(はしかみ)中学校では大震災前に総合学習の時間を活用して年間100時間もの防災教育に取り組んでいたという。私も理事を務めている防災教育普及協会は、東北大学等とも連携して3月11日を「防災教育と災害伝承の日」とする活動を行っている。その重要性を改めて感じた日であった。

 ともすれば、日常に流されがちな私たちに、しっかりと防災に努めよと背筋を伸ばしてくださった佐藤さんに感謝申し上げたい。


気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館の前で。左から2番目が筆者、3番目が佐藤健一さん。

 

 

Profile
跡見学園女子大学教授
鍵屋 一(かぎや・はじめ)
1956年秋田県男鹿市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、東京・板橋区役所入区。法政大学大学院政治学専攻修士課程修了、京都大学博士(情報学)。防災課長、板橋福祉事務所長、福祉部長、危機管理担当部長、議会事務局長などを歴任し、2015年4月から現職。災害時要援護者の避難支援に関する検討会委員、(一社)福祉防災コミュニティ協会代表理事、(一社)防災教育普及協会理事なども務める。著書に『図解よくわかる自治体の地域防災・危機管理のしくみ』(学陽書房、19年6月改訂)など。

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鍵屋 一

鍵屋 一

跡見学園女子大学教授

(かぎや・はじめ) 1956年秋田県男鹿市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、東京・板橋区役所入区。法政大学大学院政治学専攻修士課程修了、京都大学博士(情報学)。防災課長、板橋福祉事務所長、福祉部長、危機管理担当部長、議会事務局長などを歴任し、2015年4月から現職。避難所役割検討委員会(座長)、(一社)福祉防災コミュニティ協会代表理事、(一社)防災教育普及協会理事 なども務める。 著書に『図解よくわかる自治体の地域防災・危機管理のしくみ』 (学陽書房、19年6月改訂)など。

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