介護事故裁判と社会の「風向き」――法律のひろば2024年6月号:特集 介護事故訴訟からみる「介護水準」
地方自治
2024.06.17
目次
本記事は、『法律のひろば』2024年6月号に掲載された特集論稿から一部を抜粋して掲載するものです。
はじめに
高齢者施設内での転倒や誤嚥をはじめとするいわゆる介護事故は、2000年に公的介護保険が創設された前後から大きな問題であり続けている。ただ介護事故をめぐる裁判に対する社会の「風向き」は、少しずつ変わっているように思える。
それは介護全般をめぐる社会の動向や認識にも関わる。もちろん裁判での法的な論点や判断は、社会の風向きに合わせてただちに変わるものではない。また社会の風向きが「正しい」とは限らないし、何をもって社会の風向きと見るか自体も難しい。そもそも裁判の判断は、社会や市民の感覚とは「ずれ」があり得て、それが悪いというわけではない。しかし両者がまったくかけ離れているのも問題だろう。
本稿ではそれらについて、昨年(2023年)の1つの裁判事例を題材として考えてみることで、本特集のイントロとしての問題提起としたい。
ある誤嚥事故の判決
特別養護老人ホームで、88歳の高齢者が誤嚥で死亡したという事故をめぐる裁判があり、利用者の請求が認められた(名古屋地裁令和5年8月7 日判決(D1-Law 28312798))。
判決の内容は新聞でも報じられ、ネットにも載せられて広く関心を引いた。共同通信の配信記事は以下のとおりである※1。
名古屋市の特別養護老人ホームで2021年、パーキンソン病だった入所者の80代男性が食事中に誤嚥死したのは、施設が注意義務を怠ったためだとして、遺族3人が運営元の社会福祉法人「甲(仮名)」(名古屋市)に約3千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、名古屋地裁は7 日、約2500 万円を支払うよう命じた。
乙(仮名)裁判官は判決理由で、亡くなる1カ月半前にも朝食を喉に詰まらせ、むせ込んだことがあり、同じように食事を提供すれば、より重大な結果が生じる危険を認識できたと指摘した。
その上で、「十分な情報共有や原因分析がされなかったとうかがわれる」と過失を認定した。
このように特養の入所者が食事の誤嚥により死亡して、施設が賠償を命じられたというシンプルな事案だったこともあり、ネット上でも多くのコメントが寄せられた。なお新聞では報じられていたが、誤嚥したのは朝食のロールパンで、1か月半前に詰まらせた時も主食はロールパンだった。またアルツハイマー型認知症の症状も有していた。
仄聞するところでは、判決を受けて施設側はただちに控訴したが、本件とは関係のない経営上の理由から取り下げられたとのことで、そのまま判決は確定した。
したがって、少なくとも1つの裁判例として記録に残ることになった。しかも上記のとおり比較的シンプルな事案なので、介護施設や介護職員の行動にも影響を与えやすく、今後リスクマネジメント的な観点から、典型的な事例の1つと位置付けられる可能性もある。
しかしこの地裁の判決自体の当否は別としても、控訴されていたら帰趨は分からなかった。もちろん地裁同様の結論が維持される可能性もあったが、少なくとも現時点でそのように断定することはできない。とくにこれを機に「特養で食事にパンを出して、誤嚥して死亡したら施設は賠償しなければならない」という図式が流通してしまうのは望ましいことではないだろう。
実は本件についてのこのような経緯を書いただけで、最低限の所期の目的は達したといえる。介護施設側が、納得して判決を確定させたものではない。下級審の裁判例についても、とかく「裁判になるとこういう判決が出る」という形での言説が流通してしまいがちだが、それに惑わされるべきではないし、安易にその流れに棹さすべきではない。
同時にこの裁判例に関しては、ネット上で様々な(ただしほとんどは判決に批判的な)コメントがあった。玉石混交ではあるものの、それらの中には傾聴すべき指摘もあり、逆に留保を要する指摘も混じっていることから、それらを紹介することには意味があるように思われる。
※1 「特養ホームで誤嚥死、賠償命令 2500万円、名古屋」共同通信2023年8月7日(https://news.yahoo.co.jp/articles/37e64cddb4681f30d7f64ae89eb1b247b1832263)
なお昨年(2023年)2 月には同じ名古屋地裁で誤嚥による死亡事故についての判決があり(名古屋地裁令和5 年2 月28 日判決(判時2582号64頁))、特養で食事中に食べ物を喉につまらせ死亡した81歳の入所者の遺族への賠償(約1370万円)が施設側に命じられた。この判決に関しては「ひろゆき」氏が「認知症の高齢者は預からないのが安全」とTwitter に書き込んだことも話題になった。これらの件に限らず介護事故をめぐる裁判例は、時折ネット記事で話題になる。