ボランティア。「足りない」ではなく「長く来て」――能登半島地震。地理条件、被災の度合い、2次避難……、「大量受け入れ」ができない理由

災害・防災対策

2024.07.01

ボランティア。「足りない」ではなく「長く来て」
――能登半島地震。地理条件、被災の度合い、2次避難……、「大量受け入れ」ができない理由


地方自治ジャーナリスト 葉上太郎

(『月刊 ガバナンス』2024年6月号)


「ボランティアが足りない」「だから復興が進まない」。能登半島地震ではそんな報道がなされた。本当なのか。道路の損壊などで行き来が容易でない。上下水道の復旧が進まない。宿泊施設も営業していない。2次避難先からなかなか戻れない。被災者の沈み込んだ気持ちに、土地柄も影響する。ボランティアが足りないのではなく、多数に来てもらえない事情があるのだ。地元のペースに合わせて「長く来てほしい」。その願いこそ知ってほしい。

あまりの被害に設営場所がない

 動き出したのは早かった。

 1月1日発生の能登半島地震で震度7の激震に見舞われた石川県輪島市。市の社会福祉協議会は見守り支援班と災害ボランティア班を設け、1月10日頃には見守り支援班が地域を回り始めた。だが、災害ボランティア班は難題にぶつかった。

 マニュアルでは中心部にある文化会館にボランティアセンターを設けることになっていた。が、「建物の被災に加え、避難者が身を寄せていたこともあり、使える状態ではありませんでした」。社協の介護福祉課長で、同センターの副センター長を務める荒木正稔さん(53歳)が語る。

 そこで、第2候補の能登空港に隣接した日本航空学園の学生寮を選んだ。市中心部から通常でも車で約30分かかる山間部だ。ただ、被災エリアが広かったので、市内各所に出動するには適した面もあった。

「一度に何百人も食事ができる食堂の半分を借り、最大300人のボランティアが受け入れられる待合所を設けました。実習室は支援物資の倉庫に。1月半ばには開設準備が整いました」と荒木さんは話す。

 では、どうやってボランティアを受け入れるか。具体的に算段していくと大きな壁があった。

「当時は道路の状態が非常に悪く、個人のボランティアが乗用車で来るのは難しい状況でした。ならば、県が出すバスで1日に50人とか100人とかを受け入れようという話もしました。でも、航空学園からどうやって市街地へ向かうのか。私達が持ってる車は2台、加えて県民ボランティアセンターから借りたワゴン車が2台。これだと最大計24人しか乗せられません。しかも、航空学園から市街地までは1時間半もかかっていました。道路の損壊で、隣の穴水町を迂回するよう通行規制されたのです」

 金沢から輪島まで片道5時間以上かかることもあった頃だ。これでは活動など実質的に不可能だった。

「市中心部に設営するしかありません。文化会館も駐車場ならと考えましたが、既に警察が使っていました。一定の土地があった輪島港の埋立地・マリンタウンも支援物資の拠点になりました。あちこち探し、なんとかショッピングセンターの駐車場が借りられたのは2月頭でした」

 輪島市は東西42㎞・南北31㎞と市域が広い。昭和合併で旧町野(まちの)町を編入するなどし、平成合併では旧門前町と一緒になったからだ。

 門前、町野の両地区にも拠点を設けることになり、門前は市が管理しているバス待合所に定めた。町野は旧保育所の園庭と駐車場を借りた。町野は建物の倒壊が非常に多く、旧保育所も屋内は使えなかった。

 こうして2月10日、ようやく災害ボランティアセンターが発足した。名称は「災害たすけあいセンター」。地元職員は荒木さんの他にほぼ1人。東海北陸ブロックと関東ブロックの社協から8人ずつの応援を仰いだ。

ボランティアセンターに人が集まる写真
駐車場に設置されたボランティアセンター。午前9時半、金沢からバスで到着したボランティアが派遣先ごとに班分けされる(輪島市)。

水もトイレも我慢の活動 多人数の受け入れは無理

 輪島市はもともと平地に乏しい。特に漁師町では細い道路に家が密集している。住民基本台帳の登録は約1万1000世帯・約2万2000人なのに、5月8日時点の被害は住家1万4816棟・非住家7282棟と、世帯数の2倍以上の被災棟数があった。応急仮設住宅は2805戸が着工されたが、土地がないので農地まで埋め立てている。

 このような状況だから空いた土地などない。営業している宿泊施設もない。水道は本管の8割が復旧したものの、各戸への引き込み管や宅地内の配管が損傷しており、使えるのは4~5割程度と言われている。下水道も使えない地区が多い。

 そうした中、どんな形でボランティア活動をしてもらえるか。荒木さんらは頭を悩ませた。

「個人ボランティア用の駐車場はなく、県が金沢駅から走らせるバスに頼るしかありませんでした。輪島市中心部には大型バスで40人、門前・町野地区にはそれぞれマイクロバスで15人。倒壊家屋が多くて派遣先に車を止められないので、職員が車で送迎しました」

 当初は渋滞で輪島への到着が午前11時頃になった。午後3時までの活動終了まで4時間。「到着後、すぐに食事をしてもらい、昼休みはなしでした。それでも十分な時間はありませんでした」と荒木さんは話す。

 取材に訪れた5月上旬、輪島には午前9時過ぎに到着するようになっていたが、昼休みには必ずショッピングセンター駐車場に戻る。派遣先には水道もトイレもないからである。

 「『車中泊で参加したい』という人もいます。でも、日中に飲み水やトイレを我慢して活動すれば、何泊もしているうちにエコノミークラス症候群になりかねません。『キャンピングカーで行く』という人もいますが、駐車スペースがないうえ、車中泊の人も認めなければならなくなるので、やむなくお断りしています」  

倒壊したブロック塀を取り除く、複数のボランティア活動者
倒壊したブロック塀を取り除く活動。家主(中央)は水路がふさがれて水田に影響が出るのを心配していた(輪島市)。

2次避難、気持ちの消沈 頼めるまで待ってほしい

 被災者の側の事情もある。輪島は被害の大きさに比べて「ボランティアに来てほしい」という要望が少ない。荒木さんは「台風19号災害(2019年)の応援で訪れた長野県では1日に何百人もボランティアを受け入れていました。状況が違います」と説明する。

 輪島は上下水道が使えない家が多く、遠隔地へ2次避難している人も相当数いる。行き来はバスか車しかなく、例えば金沢まで片道2時間以上かかる。金沢に避難している70歳代の男性は「往復が大変で、なかなかボランティアを頼めない」と話す。

 また、「家が傾いているのに一部損壊とされた」などと被害認定の2次調査を待っている被災者が相当数いて、結果が出るまでボランティアを頼まない傾向もあった。

 あまりの被害に気持ちが前を向かない人もいる。しかも、「よその人には頼めない」と遠慮する人が少なくない土地柄だ。

「地域差も大きく、17年前の能登半島地震で被害が大きかった門前地区では、当時支援に来た団体が社協より先に活動を始めました。旧役場の職員も手慣れています。ボランティアの派遣を要望する被災者が多く、みっちり活動してもらえます。一方、倒壊家屋が極めて多かった町野にはまだ人が戻っておらず、派遣先を見つけるのに苦労しています。気持ちを整理できていない被災者が多いのに、ボランティア派遣を強要してもストレスにしかなりません。『家を片づけて次へ進もう』と思えるようになるまで待つしかないのです。ただ、雨漏りで神棚にキノコが生えた家もあり、スピードが求められています。寄り添った支援との両立が難しい」と荒木さんは話していた。

 こうした事情があるのに誤解された。「輪島は倒壊家屋が多く、多数のボランティアニーズがあるのに受け入れない」などという風説を流されたのだ。「復旧が進まないのはボランティアが足りないからだ」という記事まで出る始末だった。

 荒木さんは「話題になるなら悪く言われてもいい」と話す。作業が遅れている輪島では長期間ボランティアに来てもらわなければならない。発災からの時間が経てばボランティアは志願者が減る。「どんな話でも関心を持ち続けてもらいたいのです」。あまりにも悲痛な覚悟だ。

実情を知ったうえで息の長い応援をする

 今回の地震は、各地の被災状況が大きく異なるのも特徴だ。穴水町は輪島市に接しているのにボランティアの受け入れ態勢がかなり違う。

 町社協が入居している「さわやか交流館プルート」は図書館などがある複合施設だ。防災拠点にもなっていて、発災直後は約300人が避難した。廊下にまで寝泊まりする状況だったが、ここにボランティアセンターを設営するしかなかった。

 ただ、被害が酷かった奥能登2市2町では最も早い1月27日にボランティアを受け入れた。穴水町は奥能登の玄関口にあり、渋滞があったとしても他の3市町ほどアクセスは悪くなかったのだ。県による金沢からのバス輸送も4月21日で終了した。

料亭旅館で損壊した厨房機器を運び出すボランティア活動者
料亭旅館で損壊した厨房機器を運び出すボランティア(穴水町)。

 前回の能登半島地震で支援に来たのをきっかけに交流を続けていた名古屋市のボランティア団体もいち早く町内に入り、そのネットワークで愛知県内の医療機関や専門ボランティアにつないでくれたのも大きかった。勝手知ったる町内なので、戸別訪問もしてくれた。

 穴水町社協の関則生事務局長(64歳)は「4市町は地理条件や被災の状況が極めて異なり、同じようには語れない現実があります」と話す。

 翻って輪島市。「ボランティアを受け入れない」「復興する気があるのか」などという被災地外からの思い込みには社協の職員も苦しんだ。

 荒木さんは「職員も被災しました。辛くなって辞めた人もいます。時間の経過で前向きになり、辞表を取り下げた人もいました。避難所から通っている職員もいて、朝早くから夜遅くまで働き、避難所に帰ったらご飯もなく、風呂も終わっています。そうして精一杯回しているのに、もっと回せと叩かれる」と職員の心の内を代弁する。

 荒木さん自身、地元の集落への道が崩落で消滅し、「最低でも6~7年は復旧できない」と言われた。アパートで暮らしながら勤務を続けており、「潰れた家を毎日見ないで済んでいるから気持ちが保たれている」という過酷さだ。

倒壊した家屋が並ぶ道
まだあの日と変わりないような地区が多い(輪島市)。

 輪島の復旧や復興には長い時間がかかる。必要なのは、思い込みによる批判ではない。地域の実情を知り、人々の気持ちを思う。その土地に合った息の長い応援こそ求められる。

 

本記事は月刊ガバナンス2024年6月号(P100~104、FOCUS)に掲載されたものです。能登半島地震の被災地支援の一環として著者の承諾を得て全文を公開します。

 

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